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Photo bynoouchi

春のミラン電卓事件簿

    「それ、何ケタまで計算できるやつ?」

    控えめに、いや今考えると控えめというより、少し引きつったような声色で先輩は聞いた。

    「えーっと……8ケタです!」

    何の疑問も持たずそう答えた新社会人時代の自分を、思い出すたびに顔が赤くなる。

    今だから話そう、春のミラン電卓事件簿を――


    おしゃれ電卓との出会い

    就職前、私は東京の大学に通っていた。

    主な行動範囲といえば、自宅から埼京線1本で行ける池袋。

    池袋ウエストゲートパークを観て育った世代にとって西口エリアはどうしても治安が悪そうなイメージが拭えない。

    「なんとなく親しみやすいから」と、田舎者の私は決まって東口のパルコに足を運んでいた。

    中でもお気に入りだったのは、6階にある「Smithスミス」という文房具店。

    少し暗めの照明に照らされたオシャレな万年筆やRollbahnロルバーンのカラフルなメモ帳をじっくり眺めては心をときめかせていた。


    栄養計算が苦手過ぎて

    「全然、合わない……」

    栄養士を目指して勉強していた私にとって、肝心の栄養計算はまさしく鬼門だった。

    食品に関する計算は、少数点以下の数字が延々と続くことが珍しくなく、何度計算しても、答えが違う。

    「あぁー、もう面倒くさいっ!」

    自宅にたまたまあった、付録のような小さな電卓では、キーを押し間違えることもしょっちゅうだった。

    そこで私は、盤面が見やすく、苦手な勉強も少しでも楽しくなるようなオシャレな電卓を求めSmithスミスに出かけることにした。


    ミランの電卓に一目ぼれ

    Smithスミスには、予想通りオシャレで心躍るような電卓たちが並んでいた。

    その中で私の目を奪ったのが、ミランの電卓だった。


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    黒い盤面に配色された白と赤のボタンがシンプルながらも洗練された印象を与える。

    しかも、ボタンが大きく、今まで使っていた電卓よりも格段に使い勝手が良さそうだ。


    「これにしよう!」


    迷うことはなかった。私ミランの電卓に一目ぼれしたのだ。


    卒業後は栄養士とは別の道へ

    無事卒業し、栄養士の資格を取得したものの、私が就職したのは給食センターでも、食品企業でもなかった。

    数多くエントリーした食品関係の会社は全て不採用。

    「とりあえず受けておくか」と、軽い気持ちで応募した金融機関から、まさかの内定を得たのだ。

    何日も続くモヤモヤとした気持ちを「これで良かったんだ」と、無理やり納得させて迎えた4月1日、私は社会人になった。


    お気に入り電卓に暗雲

    経済学部でも、法学部でもない私にとって、金融業界はまったくの異世界だった。

    聞いたこともない専門用語が飛び交い、毎日頭の中は大混乱!日本語のはずなのに言葉が耳をすり抜け、内容が全く理解できない。

    そんな慣れない環境下でも、長年、苦手な栄養計算を共に乗り越えた相棒、ミランの電卓は私のデスクに鎮座していた。

    「ボタン大きすぎない?なんだかおもちゃみたいな電卓だね」

    「それ、何ケタまで計算できるの?」

    おぼろげな記憶の中にも、私の電卓に対して職場の数人が反応していたことはハッキリと焼き付いている。

    ――あれはただの感想じゃなかった。

    「その電卓、一刻も早く買い替えた方がいいぞ」という紛れも無い警告のサインだったのだ。


    「ケタ数が、足りない」

    周りの助言をどこか他人事のように聞き流し、相変わらずお気に入りの電卓を使い続けた私の目の前に、ついにそれが現れた。

    小切手だ。

    ドラマの中で「好きな金額を書きたまえ」なんて社長が言いながら手切れ金に使う、あのイメージしかなかった私は、人生で初めて手にする大きな金額にドキドキしながら電卓のキーを叩いた。

    10,000,000……

    「あれ?ケタ数が……足りないっ!」

    お気に入りの店で買った自慢の電卓が、肝心な場面で全く役に立たないことに、この時初めて気づいた。

    そりゃそうだ。栄養計算とお金を扱う数字とではまるで世界が違う。
     

    「恥ずかしい……」

    ケタ数が足りないことより、東京で買ったオシャレな電卓に酔い、周りの助言に耳を貸さなかったというその事実が心底恥ずかしく猛省した。

    「穴があったら入りたい」と、赤面したその日を境に、ミランの電卓は職場からそっと姿を消した。


    郷に入っては郷に従え

    「自分のこだわりよりも、その場にふさわしい行動をとること」

    これが社会人1年目の春、私が身を持って学んだ教訓だ。

    私の失敗は電卓だけではなかった。

    思い返せば、なぜかギラギラとした大きめのラメが入ったアイシャドウをしていたし、カジュアルすぎるデジタル時計を身につけ接客していた。

    今でこそ多様性の時代と言われるけれど、きっと当時の上司や先輩は、「どうしようもない新人が入ってきた」と内心呆れていたことだろう。

    いや、今の私だってそう思う。もし、目の前に同じような新入社員が現れたら「一体なんなんだ?」と目を疑うだろう。


    ほろ苦い体験はいつか教訓になる

    TPOに合わない持ち物を身につけていたのは、きっと心の奥底の暗い場所で「本当はこの場所にいるはずじゃなかった、私には他にやりたいことがあったんだ」とささやかに反抗していたのかもしれない。

    周りの人からしたら「そんなこと知ったこっちゃない」のだけれど。

    8ケタ電卓を手放し、新しい電卓を購入した私は、その後10年以上、頼れる新しい相棒と社会の荒波を乗り越えた。

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    新しい相棒、無印良品の電卓(12ケタ)


    いや、電卓と乗り越えたんじゃない。あの春、右も左もわからぬまま一緒に社会人になった仲間たちと、だ。


    春風が吹くたび思い出す、ちょっぴりほろ苦いミラン電卓事件。

    入社早々、TPOも考えないポンコツっぷりだ。ご想像の通り、その後の社会人生活も数えきれないほど恥の上塗りをし、「もう辞めてやるっ!」と何度も思ってきた。

    そんなとき、支えてくれたのはいつも周りの仲間たちだった。綺麗な思い出ばかりではないけれど、そんな経験の一つ一つが今の私を形作っている。

    だからどうか、たくさんの経験を積んでほしい。これから幾度となく訪れる選択の時、きっとその経験があなたを助けてくれるから。

    この話を、これから社会に足を踏み出すみなさんへ心からのエールとして贈ります!




    この記事は、SNSの伴走サービス「パーソナル編集者®」を運営する、goodbuff Inc.主催のnote投稿企画「みんなのnote投稿コンクール」に参加します。



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    北アルプスのふもと、何もないけど全部ある暮らし​|ライター|40代・娘2人の​母(3歳6歳) |やってみた系記事と3行日記の人|焼き芋が​好き|Money for Good×note「#推したい会社」賛同企業賞受賞|みんなのnoteコン佳作|サンクチュアリ出版正直レビュアー3期生

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