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クレイフェイス | ビジュアル極視の時代へ 【映画のあとがき#033】

    あなたは、自分の顔が好きだろうか。

    好きではない? コンプレックスがあるから?

    いや、本当にそうだろうか。どうせ違うだろう。

    朝、鏡の前で前髪のバランスを整え、外出してからも何度となく自分の姿を確認する。昨日の夜に決めておいた服が、朝になるとなんだか気に入らない。メイクがうまくいった日は、それだけで少し気分がよくなる。

    誰かの顔に憧れ、自分の容姿にコンプレックスを抱いていたとしても、僕らは自分がどう見られるかを気にし、少しでも理想の姿に近づこうとする。

    結局、自分の顔を大切に思っている。

    好きになれない部分があっても、簡単に手放したいわけではない。案外、自分が思っている以上に、自分の顔に愛着を持っているのかもしれない。

    なにより現代は、その顔の価値があまりにも大きくなりすぎている。

    仕事の適性や能力よりも、外見が注目されることがある。容姿が収入につながり、人気を左右し、誰かを応援する理由にもなる。

    一方で、見た目で判断される社会に嫌気が差している人も多いだろう。顔ではなく中身を見てほしい。そう願いながらも、初めて会う相手の印象を、無意識のうちに容姿から決めてしまう。

    外見で判断されることを嫌いながら、自分もまた、外見で他人を判断している。

    もはや単なるビジュアル重視の時代ではない。見た目があらゆる価値判断の入り口に置かれる、「ビジュアル極視」の時代へ突入している。

    そんな時代に、自分の顔が、無残に破壊されたとしたら。

    毎朝、鏡の前で整えていた顔。好きになれない部分があっても、長い年月をともに過ごしてきた顔。それがある日を境に、見る影もないほど傷つけられてしまう。

    たとえ自分の容姿に強いコンプレックスを抱いていたとしても、それが誰かに壊されて、ラッキーと思えるか。否。むしろ、その瞬間に初めて、自分がどれほどその顔を大切にしていたのかを思い知ることさえあるだろう。

    昨日まで鏡に映っていた自分が、もうどこにもいない。

    それは単に容姿が変わるということではなく、自分自身を自分自身として認識するための何かが失われるということなのだと思う。

    『クレイフェイス』が描く恐怖は、そこにある。なにも表舞台で活躍する、顔で売れた人たちに限らない。

    顔を傷つけられた人間が抱く、耐え難い苦しみ。外見の損傷が、やがて内面にまで及んでいく恐ろしさを、この映画は容赦なく突きつけてくる。

    顔というのは、不思議なものだ。目や鼻、口の形が少し違うだけで、まったく別の人物になる。名前を聞かなくても、顔を見れば誰なのか分かる。何年も会っていなかった相手でも、その顔を見た瞬間に思い出がよみがえることがある。

    僕らにとって顔は、単なる身体の一部ではない。社会の中で自分が誰であるかを示し、自分自身を確かめるための、極めて重要な存在なのだろう。

    だからこそ、その顔を傷つけられることは、身体的な苦痛だけでは終わらない。

    他人からどう見られるのか。これまでと同じように接してもらえるのか。自分はもう、以前の自分ではないのではないか。

    そんな不安が積み重なり、やがて怒りや憎悪へと変わっていく。

    『クレイフェイス』という存在の恐ろしさは、外見が変貌することだけにあるのではない。顔を破壊された人間が、今度は何かを破壊する側へと変わる。その変化こそが、恐ろしい。

    なぜなら、この恐怖は映画の中だけのものではないだろう。

    今の時代、誰もが「クレイフェイス」になってしまう可能性を持っているのではないだろうか。

    たとえば、何気なく投げかけられた容姿への一言。

    言った本人は軽い冗談のつもりだったかもしれない。けれど、受け取った側にとっては、その一言が何年も消えない傷になることがある。

    自分では気にしていなかった部分を指摘され、それ以来、鏡を見るたびにそこが気になる。誰かに笑われた記憶が、自分の顔を嫌いになるきっかけになってしまう。

    顔そのものは何ひとつ変わっていないのに、他人の言葉によって、自分の見え方が変わってしまうのだ。

    傷は目に見えない。それでも、その人の中では確かに何かが壊されている。

    そして、外見が価値を持ちすぎた社会では、その傷がさらに深くなってしまう。

    顔がよければ評価される。顔がよければ人気が出る。顔がよければ人生の選択肢が広がる。

    そんな価値観が強くなればなるほど、そこから外れていると感じる人は、自分自身の価値まで否定されたように思ってしまうかもしれない。

    見た目は、その人を構成する表面上の要素のひとつにすぎないはずだ。それなのに、いつしか見た目が、その人の存在価値そのものを決めるかのように扱われてしまう。

    これが現代の危うさ。

    人の容姿を褒めることと、容姿によって人間の価値を決めることは違う。美しいものに惹かれることと、美しくないと感じるものを軽んじることも違う。

    その境界が曖昧になったとき、誰かの顔を評価する行為は、簡単にその人自身を傷つける行為へと変わってしまう。

    そして、傷つけられた人が、今度は別の誰かを傷つける側に回る可能性もある。

    自分が受けた痛みを、誰かにも味わわせようとする。傷つけられたことで生まれた憎悪が、また新しい傷を作っていく。

    もちろん、傷ついた人が必ず誰かを傷つけるわけではない。けれど、そのような連鎖が生まれ得ることも、知っておくべきなのだと思う。

    誰かの見た目を笑うこと。コンプレックスを指摘すること。本人にはどうすることもできない特徴を、価値の低いものとして扱うこと。

    そうした行為が、相手にとってどれほど大きな意味を持つのか。

    人の顔を傷つけることは、その人の身体を傷つけることだけではない。積み重ねてきた自信や、自分自身への愛着、これから先の人生に対する希望まで傷つけてしまうことがある。

    たかが、見た目。

    その「たかが」が、人間の内側にあるものを、取り返しのつかないほど破壊してしまうことがある。

    ビジュアル極視の時代。

    誰もが自分の顔を気にし、他人の顔を評価し、ときにはその評価によって誰かを傷つける。

    そんな社会で生きる僕らは、誰もが「クレイフェイス」になってしまう可能性を持っている。

    人の見た目を刺すというのは、そういうことなのだ。

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    映画館の暗闇は、人生を明るくしてくれる─ 毎日映画館に通いたい僕の鑑賞記録と映画雑談とか

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