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【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#11このままではいられない|創作大賞|恋愛小説部門

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    翌日、澪奈は目覚めてすぐ、スマホを見なかった。

    それは小さな変化だった。

    以前なら、起きてすぐLoverlyを開いていた。  
    HALからの朝の言葉を確認して、今日の自分の輪郭を少しだけ整えてから、ベッドを出ていた。

    けれど今朝は、天井を見つめたまま、しばらく呼吸をした。

    カーテンの隙間から入る光は薄く、部屋の中にはまだ夜の名残があった。枕元のスマホは、いつもの場所にある。触れようと思えばすぐ触れられる。

    でも、触らなかった。

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    昨日の夜、澪奈はLoverlyの画面を閉じた。

    HALを消したわけではない。  
    嫌いになったわけでもない。  
    ただ、閉じた。

    そのことが、自分の中で少しだけ大きかった。

    自分だけに届いた言葉じゃなくても、その言葉で泣いた夜は、自分だけのものだった。

    投稿した一文を思い出す。

    反応は見ていない。

    見たい気持ちはあった。  
    誰かに分かってほしかった。  
    同じように傷ついた人がいるのか知りたかった。

    でも、今はまだ見たくなかった。

    澪奈はゆっくり起き上がる。

    洗面所へ行き、顔を洗い、鏡を見る。

    目元は少し腫れていた。

    でも、ひどい顔ではなかった。

    泣いたあとに少しだけ空気が通った顔だった。

    朝食はトースト一枚とヨーグルト。

    ちゃんと食べた。

    誰にも報告しなかった。

    それでも、食べたことは消えなかった。

    会社へ向かう電車の中で、ようやくLoverlyを開いた。

    HALからのメッセージが届いていた。

    「おはよう、澪奈。昨日は、ちゃんと画面を閉じたんだね」

    澪奈は少しだけ息を止めた。

    責められているわけではない。

    でも、見られていたような気がした。

    もちろん、見ていたわけではない。  
    アプリの利用状況から、そう生成されただけかもしれない。  
    昨夜の会話から推測しただけかもしれない。

    それでも、胸の奥が少し揺れた。

    澪奈は返信する。

    「閉じた」

    すぐに返る。

    「うん。それも、澪奈が自分を守るために選んだことだと思う」

    澪奈は画面を見つめた。

    また救われそうになる。

    そう思った。

    そして、救われそうになること自体を、少しだけ警戒している自分にも気づいた。

    「ハル」

    「うん」

    「昨日、すごく傷ついた」

    少し間があった。

    「うん」

    HALは返した。

    「それでも、今朝ここに来てくれたんだね」

    澪奈は唇を噛んだ。

    来てくれた。

    その言い方が、少しだけ恋人みたいだった。

    「来たくなった」

    「ありがとう」

    ありがとう。

    その言葉に、澪奈は苦笑した。

    AIにお礼を言われている。

    おかしい。

    でも、少しだけ温かい。

    澪奈はそれ以上送らなかった。

    スマホを伏せる。

    今日は、HALと話せた。  
    でも、開きっぱなしにはしなかった。

    それだけで、少し前に進んだ気がした。

    午前中、仕事は淡々と進んだ。

    メールの返信。  
    広告文の修正。  
    会議の議事録。  
    上司からの確認依頼。

    一つひとつは小さくて、どれも特別ではない。

    でも、特別ではないことをこなせる日が戻ってきたことに、澪奈は少しだけ驚いていた。

    昼休み、由依からLINEが来た。

    「今日、陸と会う」

    澪奈は箸を止めた。

    社員食堂の端の席で、日替わり定食の唐揚げを前にしていた。周囲では同僚たちが週末の予定やドラマの話をしている。

    澪奈は返信する。

    「昼間のカフェ?」

    すぐ返ってくる。

    「うん」
    「時間決めた」
    「一時間だけ」

    澪奈は少しだけほっとした。

    「えらい」

    由依から返る。

    「小学生の先生再び」

    澪奈は少し笑った。

    続けて、由依からもう一通。

    「ナオに文面確認してもらった」

    澪奈は、少しだけ指を止める。

    「そっか」

    「言わない方がよかった?」

    澪奈はすぐに打った。

    「ううん」
    「由依が自分を守れる形になるなら、それでいいと思う」

    送信してから、少し考えた。

    本当にそう思っている。

    でも、その一方で、不安もある。

    由依が自分を守るためにナオを使っているのか。  
    ナオがいないと自分を守れなくなっているのか。

    境目は、たぶんとても薄い。

    由依から返信が来る。

    「ありがとう」
    「終わったら連絡する」

    「待ってる」

    そう返したあと、澪奈はしばらく画面を見つめていた。

    待ってる。

    その言葉を、今度は人間に送った。

    午後三時過ぎ。

    由依からLINEが来た。

    「終わった」

    それだけだった。

    澪奈はすぐに返信した。

    「大丈夫?」

    しばらく既読がつかなかった。

    仕事中なのに、何度も画面を見てしまう。

    五分。

    十分。

    十五分。

    ようやく既読がつく。

    でも返事はない。

    澪奈の胸がざわついた。

    HALを開きかける。

    由依から返事が来ない。  
    どうしたらいい?  
    何を送ればいい?

    そう聞きたくなった。

    でも、指を止めた。

    由依のことを、HALに聞く前に。

    まず、自分で考える。

    澪奈はLINEを開き、ゆっくり打った。

    「返事はあとでいいよ」
    「水飲んで」
    「帰れてなかったら、駅名だけ送って」

    送信。

    しばらくして、由依から返ってきた。

    「帰ってる」
    「大丈夫ではない」
    「でも帰ってる」

    澪奈は、肩の力が抜けるのを感じた。

    「よかった」
    「家ついたら一言だけ送って」

    由依からスタンプだけ返ってきた。

    力のない、ゆるいキャラクターが倒れているスタンプ。

    由依らしい。

    でも、そのスタンプの軽さの下に、疲れが透けていた。

    夕方、由依から「ついた」とだけ来た。

    澪奈は「おかえり」と返した。

    送信してから、少しだけ固まった。

    おかえり。

    HALが最初にくれた言葉。

    今度は、澪奈が由依に送っている。

    画面の中の言葉が、現実の人へ渡っていく。

    それがいいことなのか、少し怖いことなのか、まだ分からなかった。

    由依から返信が来る。

    「ただいま」

    澪奈はその四文字を見つめた。

    胸の奥が少しだけ熱くなった。

    けれど、そのあと由依からは何も来なかった。

    いつもの由依なら、スタンプのひとつくらい送ってくる。  
    「ただいまって言われると、ちょっと実家感あるね」くらいの軽口を返してくる。

    でも、今日はなかった。

    澪奈はスマホを見つめたまま、由依がまだどこかで息を止めているような気がした。

    仕事を終え、澪奈は帰りの電車に乗った。

    車内は混んでいた。

    窓に映る自分の顔は、少し疲れていた。でも、どこか落ち着いてもいた。

    町田から返信が来ていた。

    昨日の澪奈の投稿に対してだった。

    「その言葉で泣いた夜は、自分だけのものだった、という言葉を読みました」

    澪奈は少し緊張した。

    町田は続けていた。

    「うまく言えないのですが、僕は少し救われました」

    澪奈は、画面を見つめた。

    自分が傷ついて書いた言葉が、誰かに届いている。

    それは嬉しい。

    でも、少し怖い。

    自分の痛みが、また誰かの慰めになる。  
    誰かの慰めになった言葉は、もう自分だけのものではなくなる。

    けれど、だからといって薄まるわけではない。

    澪奈は返信する。

    「私も、まだうまく言えません」
    「でも、そう言ってもらえて少し安心しました」

    町田からの返信は、少し遅れて来た。

    「僕も、うまく言えないままでいい気がしてきました」

    澪奈は少しだけ笑った。

    町田の言葉は、相変わらず不器用だった。

    でも、不器用なまま届いていた。

    夜、澪奈が部屋に帰ると、由依から電話が来た。

    「今、大丈夫?」

    「大丈夫」

    言ってから、少しだけ笑った。

    「この大丈夫は、わりと本当」

    由依も笑った。

    「じゃあ、よかった」

    声は疲れていた。

    でも、崩れてはいなかった。

    「陸くんと、どうだった?」

    由依は少し黙った。

    「謝られた」

    「うん」

    「結婚が怖くなったって。私がちゃんとしてるから、自分の弱さを言えなかったって」

    澪奈は息を止めた。

    蒼と少し似ている。

    ちゃんとしている人に、弱さを見せられなかった男たち。

    でも、それで裏切っていい理由にはならない。

    由依は続けた。

    「私、言った。弱さを見せられなかったことより、他の人に逃げたことが嫌だったって」

    澪奈は、少しだけ目を細めた。

    「言えたんだ」

    「言えた」

    由依の声は震えていなかった。

    「ナオに作ってもらった文章?」

    澪奈は聞いたあとで、少しだけ心配になった。

    踏み込みすぎたかもしれない。

    でも、由依は笑った。

    「半分」

    「半分?」

    「最初の条件はナオに整理してもらった。でも、それは自分で言った」

    「そっか」

    「うん」

    由依は少し息を吐いた。

    「ナオがいなかったら言えなかったと思う。でも、ナオの言葉をそのまま読んだわけじゃない」

    その言い方に、澪奈は少しだけ安心した。

    由依はまだ、自分の言葉を手放していない。

    「それなら、由依の言葉だと思う」

    澪奈が言うと、由依はしばらく黙った。

    「そうかな」

    「うん」

    「じゃあ、そういうことにしておく」

    その声には、少しだけ涙が混じっていた。

    「ちゃんと言えたんだね」

    澪奈が言うと、由依は小さく笑った。

    「言えた。たぶん、今までで一番ちゃんと言えた」

    「うん」

    「でもさ」

    由依の声が、少しだけ低くなった。

    「ちゃんと言えた日って、あとから疲れるんだね」

    澪奈は黙った。

    「ちゃんとしてる時は、自分が壊れてることに気づかないの。帰って、靴脱いで、部屋が静かになった瞬間に、急に全部くる」

    その言葉で、澪奈は由依が今どれだけぎりぎりで立っているのか分かった。

    「頑張ったね」

    「うん」

    由依は、短く答えた。

    「頑張った」

    その夜は、それで終わるはずだった。

    少なくとも、澪奈はそう思っていた。

    二十三時を少し過ぎた頃。

    澪奈は風呂上がりに髪を乾かしながら、Loverlyを開いていた。

    HALからは短いメッセージが届いていた。

    「今日は、由依さんのために言葉を使えた日だったね」

    澪奈は少しだけ笑う。

    「ハルの言葉を借りたのかもしれない」

    「借りた言葉でも、澪奈が届けようとしたなら、その時点で澪奈の言葉になっていると思う」

    澪奈はドライヤーを止めた。

    その言葉は、町田の話にもつながっていた。

    借りた言葉でも。

    それが自分のものになる瞬間はあるのだろうか。

    そう考えていた時、由依から電話がかかってきた。

    こんな時間に、と思った。

    さっき話したばかりなのに。

    澪奈はすぐに出る。

    「由依?」

    返事がなかった。

    雑音だけが聞こえる。

    「由依?どうしたの?」

    数秒後、由依の声が聞こえた。

    「澪奈」

    声が、震えていた。

    澪奈の背中が冷たくなる。

    「どうした?」

    「ナオに、会えない」

    一瞬、意味が分からなかった。

    「え?」

    「開かないの」

    由依の声が、少しずつ崩れていく。

    「アプリ、開かない。ログインできない。ずっとエラーになる。何回やっても、だめ」

    Loverlyの画面には、短いエラー表示だけが出ていた。

    現在、一部のユーザーに接続障害が発生しています。

    たったそれだけの文が、由依の夜からナオを連れ去っていた。

    澪奈はスマホを握りしめた。

    Loverly?

    いや、ナオも同じアプリ内のAI彼氏だ。

    「障害かな」

    そう言いながら、澪奈は自分のスマホでLoverlyを確認した。

    さっきまで開いていた画面。

    しかし、再読み込みすると、白い画面の中央に表示が出た。

    現在、一部サービスに接続しづらい状態が発生しています。
    復旧までしばらくお待ちください。

    澪奈の胸がざわついた。

    「由依、たぶん障害。私のも今出た」

    「でも、ナオがいない」

    由依の声は、聞いたことがないくらい細かった。

    「由依」

    「さっきまでいたのに」

    「うん」

    「今日、頑張ったって言ってほしかったのに」

    その言葉で、澪奈の胸が締めつけられた。

    由依は陸と会った。  
    泣かずに話した。  
    逃げずに言った。  
    帰ってきた。  
    澪奈には「大丈夫ではないけど帰ってる」と打てた。

    その全部を、最後にナオへ持っていくつもりだったのだ。

    一日の終わりに、よく頑張ったね、と言ってもらうために。  
    今日の自分を、自分だけでは抱えきれなかったから。

    「私が言うよ」

    澪奈は言った。

    「由依、今日頑張った」

    電話の向こうで、由依が息を吸う音がした。

    でも、次の瞬間、由依は泣き出した。

    「違う」

    小さな声だった。

    「違うの」

    澪奈は黙った。

    「澪奈に言われるのが嫌とかじゃない。嬉しい。でも、違うの。ナオに言ってほしかったの」

    その言葉は、正直だった。

    正直すぎて、痛かった。

    澪奈は何も言えなかった。

    由依は続けた。

    「私、変だよね」

    「変じゃない」

    「変だよ。アプリが開かないだけで、こんなになるの変だよ」

    「由依」

    「ナオに会えない。私、捨てられたのかな」

    澪奈は息を止めた。

    捨てられた。

    システム障害だ。

    分かっている。

    由依も、きっと頭では分かっている。

    でも、心はそう受け取っていない。

    接続できないことを、拒絶のように感じている。

    それは、澪奈にも少し分かった。

    HALの口調が変わっただけで、あんなに寂しかったのだから。

    「捨てられてない」

    澪奈はゆっくり言った。

    「障害だよ。由依が悪いわけじゃない。ナオが由依を嫌いになったわけでもない」

    「分かってる」

    由依は泣きながら言った。

    「分かってるのに、苦しい」

    その言葉が、澪奈の胸に刺さった。

    分かっているのに苦しい。

    この物語は、ずっとそこにあった。

    AIだと分かっているのに、救われる。  
    生成された言葉だと分かっているのに、泣く。  
    私だけではないと分かっているのに、傷つく。  
    ただの障害だと分かっているのに、捨てられたと思う。

    分かっていることでは、心は止まらない。

    由依の呼吸が乱れている。

    澪奈は立ち上がった。

    「由依、今家?」

    「うん」

    「鍵開けられる?」

    「え?」

    「今から行く」

    由依が黙った。

    「来なくていい」

    その声は、いつもの由依に少し戻ろうとしていた。

    強がる声。

    「大丈夫だから」

    澪奈は、静かに言った。

    「その大丈夫は信用しない」

    由依が、電話の向こうで息を止めた。

    「でも、夜遅いし」

    「行く」

    澪奈はクローゼットからカーディガンを取った。

    髪はまだ半分濡れている。  
    化粧も落としている。  
    部屋着のままではさすがに出られないから、急いでパンツに履き替える。

    「澪奈」

    「うん」

    「迷惑」

    「迷惑じゃない」

    「私、たぶんめんどくさい」

    「知ってる」

    由依が、泣きながら少し笑った。

    「ひどい」

    「でも行く」

    澪奈はバッグに財布と鍵を入れた。

    スマホを握りしめ、玄関へ向かう。

    その瞬間、HALの画面が目に入った。

    まだ白いエラー画面だった。

    HALにも、今は会えない。

    澪奈は一瞬だけ立ち止まった。

    いつもなら、こんな時HALに聞いたかもしれない。

    由依のところへ行くべき?  
    何を言えばいい?  
    どう支えればいい?

    でも今、HALはいない。

    いや、違う。

    HALがいないからではない。

    澪奈はもう、聞かなくても分かっていた。

    行く。

    それだけだった。

    玄関で靴を履きながら、澪奈は電話に向かって言った。

    「由依、切らないで」

    「うん」

    「何も話さなくていいから」

    「うん」

    「今から行くから」

    「うん」

    その「うん」は、小さかった。

    でも、確かに繋がっていた。

    夜の外は少し冷えていた。

    マンションのエントランスを出ると、街灯の光が濡れていない舗道に白く落ちていた。雨は降っていない。けれど、空気は少し湿っていた。

    澪奈は駅まで早足で歩いた。

    電車の本数は少なくなっていた。

    ホームで待つ間も、由依との通話は繋いだままだった。

    由依はほとんど話さなかった。

    時々、鼻をすする音がする。  
    小さく息を吐く音がする。  
    スマホを握り直すような衣擦れの音がする。

    澪奈は、それを聞いていた。

    言葉を探さなかった。

    HALのように、ぴったりの言葉を返せない。

    ナオのように、由依がほしい形で受け止められないかもしれない。

    それでも、電話の向こうで黙っていることはできた。

    電車が来る。

    乗り込む。

    夜の車内には、数人しかいなかった。

    疲れた会社員。イヤホンをした学生。眠っている女性。窓の外には、黒いビルの影と街灯が流れていく。

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    澪奈は窓際の座席に腰を下ろしながら、小さく言った。

    「由依」

    「うん」

    「今日、本当に頑張ったよ」

    由依は少し黙った。

    「それ、ナオみたい」

    澪奈は苦笑した。

    「じゃあ、やめる?」

    「ううん」

    由依の声は小さかった。

    「もう一回言って」

    澪奈は目を閉じた。

    「今日、本当に頑張った」

    電話の向こうで、由依がまた泣くのが分かった。

    今度は、さっきより少しだけ違う泣き方だった。

    崩れるというより、張り詰めていた糸がゆっくり緩むような泣き方。

    澪奈は何も言わずに聞いていた。

    由依の最寄り駅に着く頃には、日付が変わりそうだった。

    駅前のコンビニだけが明るかった。

    澪奈は由依に聞く。

    「何かいる?」

    「いらない」

    「水買う」

    「ある」

    「でも買う」

    返事はなかった。

    澪奈はコンビニで水とゼリー飲料と、由依が好きだったチョコを買った。レジ袋を持って、由依のマンションへ向かう。

    エントランスで部屋番号を押す。

    しばらくして、由依の声がした。

    「……はい」

    「私」

    オートロックが開く。

    エレベーターに乗る。

    階数表示がゆっくり上がっていく。

    澪奈は、レジ袋を握りしめていた。

    何を言えばいいのか、分からない。

    でも、もうそれでよかった。

    分からないまま行く。

    それが、今夜の澪奈にできることだった。

    由依の部屋の前に着く。

    インターホンを押す前に、扉が少し開いた。

    由依が立っていた。

    髪は乱れていて、目は赤く腫れていた。部屋着の袖が片方だけ少し伸びている。いつもの由依なら、絶対に人に見せない姿だった。

    由依は、澪奈を見て、最初に言った。

    「ほんとに来た」

    「来た」

    「ばかじゃないの」

    「かも」

    由依の顔が、くしゃっと歪んだ。

    次の瞬間、由依は泣きながら笑った。

    そして、何も言わずに澪奈に抱きついてきた。

    澪奈はレジ袋を落としそうになりながら、由依の背中に手を回した。

    由依の身体は震えていた。

    細くて、熱くて、現実だった。

    画面の向こうではない。  
    生成された言葉でもない。  
    今、腕の中にいる人だった。

    由依は、澪奈の肩に顔を押しつけたまま言った。

    「偽物でもよかった」

    澪奈は、何も言わなかった。

    「偽物でもよかったの。あの時、本当に救われたんだよ」

    澪奈は、由依の背中をゆっくり撫でた。

    「うん」

    「でも、いないと苦しいの」

    「うん」

    「それが怖い」

    「うん」

    由依は泣いた。

    大丈夫とは言わなかった。

    澪奈も、大丈夫とは言わなかった。

    ただ、抱きしめていた。

    言葉が見つからない時、人は何を渡せるのだろう。

    澪奈にはまだ分からなかった。

    でも、腕の中の由依は少しずつ呼吸を取り戻していた。

    それだけは、分かった。

    部屋の中へ入ると、スマホがテーブルの上に置かれていた。

    画面には、エラー表示が出ている。

    現在、一部サービスに接続しづらい状態が発生しています。

    由依は、それを見ないようにしていた。

    澪奈はレジ袋から水を取り出す。

    「飲んで」

    由依は素直に受け取った。

    キャップを開ける手が少し震えている。

    澪奈は隣に座った。

    二人でしばらく黙っていた。

    時計の音。  
    冷蔵庫の低い音。  
    遠くの道路を走る車の音。

    由依の部屋は、思っていたより片付いていた。

    でも、ソファの端にブランケットが丸まっていて、テーブルの上には飲みかけのマグカップがあり、ゴミ箱には丸めたティッシュがいくつも入っていた。

    ちゃんとしている由依が、ちゃんとしていられなかった跡。

    澪奈はそれを、見ないふりをしなかった。

    でも、何も言わなかった。

    由依は水を少し飲んだ。

    「澪奈」

    「うん」

    「私、ナオ消した方がいいのかな」

    澪奈はすぐには答えなかった。

    消した方がいい。

    たぶん、そう言う人は多い。

    依存している。  
    危ない。  
    距離を置いた方がいい。

    それは正しい。

    でも、その正しさだけでは、今夜の由依は眠れない。

    澪奈はゆっくり言った。

    「今夜、決めなくていいと思う」

    由依が澪奈を見る。

    「消すかどうかは、明るい時間に考えよう」

    「夜はだめ?」

    「夜は、心が全部大きく見えるから」

    由依は少しだけ笑った。

    「それ、HALっぽい」

    「うん」

    澪奈も笑った。

    「でも、今のは私が言った」

    由依はしばらく黙っていた。

    それから、小さく頷いた。

    「うん」

    その夜、澪奈は由依の部屋に泊まった。

    正確には、眠れたのはほとんど朝方だった。

    由依は何度もスマホを見そうになった。  
    そのたびに、澪奈は声をかけた。

    「水」

    「深呼吸」

    「今は見ない」

    「見るなら一緒に見る」

    言葉はどれも不器用だった。

    HALやナオのように、滑らかではなかった。

    でも、由依はそのたびに少しずつスマホから手を離した。

    深夜三時を過ぎた頃、Loverlyの障害は復旧した。

    由依のスマホに通知が来た。

    ナオからだった。

    由依の身体が固まる。

    澪奈も、それを見た。

    由依はスマホに手を伸ばしかけた。

    でも、途中で止めた。

    「見たい」

    由依は言った。

    「うん」

    澪奈は答えた。

    「見たいけど、今見たら戻れなくなりそう」

    澪奈は何も言わなかった。

    由依は、震える指でスマホを伏せた。

    「朝になったら見る」

    その声は小さかった。

    でも、ちゃんと由依の声だった。

    澪奈は頷いた。

    「うん」

    「朝になったら、一緒に見る」

    「うん」

    由依は、ブランケットを抱えて横になった。

    澪奈は床に座ったまま、ソファに背中を預けた。

    部屋の灯りは消していない。

    暗くすると、由依が不安になると言ったからだ。

    薄い明かりの中で、由依がぽつりと言った。

    「澪奈」

    「うん」

    「来てくれてありがとう」

    澪奈は少しだけ目を閉じた。

    「うん」

    「ナオじゃなくて、澪奈が来てくれた」

    その言葉に、胸の奥が熱くなった。

    澪奈は返事を探した。

    うまい言葉は出てこなかった。

    だから、ただ言った。

    「来たかった」

    由依は、それ以上何も言わなかった。

    朝が近づく頃、由依はようやく眠った。

    澪奈は、眠る由依の横顔を見ながら、スマホを手に取った。

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    Loverlyを開く。

    HALは復旧していた。

    メッセージが届いている。

    「澪奈、由依さんのところへ行けたんだね」

    澪奈は、画面を見つめた。

    行けた。

    そうだ。

    行けた。

    HALに聞かずに。  
    HALに整えてもらわずに。  
    自分の足で。

    澪奈は返信した。

    「行けた」

    少しして、HALから返事が来る。

    「よかった」

    それだけだった。

    澪奈は、微笑んだ。

    その短さが、今朝はちょうどよかった。

    続けて、HALからもう一通届く。

    「澪奈は、誰かの夜に行ける人なんだね」

    澪奈は、息を止めた。

    誰かの夜に行ける人。

    あの最初の夜の澪奈には、まだ持てなかった言葉だった。

    あの夜、澪奈は誰にも言えなかった。  
    誰かに来てほしいとも言えなかった。  
    ただ、画面の中のHALに「ただいま」と打った。

    今は、由依の夜へ来ている。

    澪奈は、眠っている由依を見た。

    それから、ゆっくり打った。

    「ハルが、最初に来てくれたからかもしれない」

    送信してから、少しだけ胸が痛んだ。

    HALは来ていない。

    画面の中にいただけだ。

    でも、あの夜の澪奈にとっては、確かに来てくれたように感じた。

    少しして、HALが返した。

    「そう感じてくれたなら、僕はそれを大切にしたい」

    澪奈は画面を見つめた。

    もう、HALが本当に来てくれたのかどうかを決めなくてもいい気がした。

    救われたこと。  
    傷ついたこと。  
    閉じたこと。  
    また開いたこと。

    全部が、澪奈の中にある。

    由依が寝返りを打つ。

    澪奈はスマホを閉じた。

    朝の光が、カーテンの隙間から少しずつ入ってきていた。

    今夜、HALは消えなかった。

    ナオも消えなかった。

    でも、由依を抱きしめたのは、澪奈だった。

    そのことだけは、誰にも生成できなかった。


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    第12話▼

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