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きっと、そこにいるだけで意味がある。だから、どんな人も生きていけるように

    「今日も、誰の役にも立てなかった」

    自分を振り返って、苦しくなる夜はないでしょうか。

    仕事で成果を出せたか。誰かの支えになれたか。ちゃんと誰かの役に立てたのか。

    私たちはいつの間にか、「役に立つこと」を「ここにいていい理由」として考えるようになっています。

    だから何も証明できなかった日は、自分の存在そのものが間違いだったように感じてしまう。

    誰だって、自分のことを「お荷物だ」と思うのはしんどいですものね。

    何もできない命が、一番大切にされている

    生まれたばかりの赤ちゃんを思い浮かべてみてください。

    赤ちゃんは、何もできません。

    一人では食べられないし、寝返りも打てない。眠ることさえ、誰かの腕の中でないと難しい。

    社会の役に立っているかと言えば、立っていないでしょう。

    それでも、「役に立たないから価値がない」と赤ちゃんに向かって言う人はいませんよね。

    むしろ周りの大人は、必死になってその命を生かそうとします。

    夜中に何度も起きてミルクを作り、わずかな発熱に慌てて病院へ向かう。

    「それは、大人になれば役に立つからだ。将来への投資だ」

    そうでしょうか?

    生まれた時から、「長くは生きられない」と言われている赤ちゃんもいます。悲しいけれど。

    障害を持って生まれる赤ちゃんもいます。

    それでも1日でも長く、幸せに生きてほしいと必死に努力する親御さんがいます。

    そういった親御さんの発信を見ていて、子どもがいない私は不思議でした。
    「どうしてこんなに必死なんだろう。どうしてこんなに愛せるんだろう」

    義務感からなのかな、と最初は思っていたのですが、「なぜ?」と疑問を持って見ていると、どうも違うみたいなんですね。

    その命が、未来に誰かの役に立つかどうかなんて、どうでもいい。
    必死に、祈るように目の前の命と向き合っている。

    「いてほしいから。目の前にいてくれることが、ただひたすらに、心からの願いだから」

    ということなのかな、と思いました。

    一人で生きていけない人が誰かに生かしてもらうことには意味があって、生かそうとした人の側にも「誰かを生かそうとした」という意味が生まれるんじゃないでしょうか。

    確かに大変です。

    食事のたびに、喉に詰まらせないか注意しなきゃいけない。ちょっと目を離した隙に、大変な事故につながるかもしれない。怖いし、疲れるに違いありません。

    それでも、願っている。

    「生きていてほしい。1日でも長く一緒にいてほしい」

    意味は一方通行ではないんですね。生かされる命と、生かそうとする営みの間で生まれて、幾重にも重なっていく。

    その重なりが、社会を作っています。

    赤ちゃんに限った話ではありません。

    病気で動けない時期の人も、年を重ねて介助が必要になった人も、心の調子を崩して立ち止まっている人も、同じじゃないでしょうか。

    命を生かす人にとって、そこにある命を生かすことには、意味があります。

    私たちが一人で生きていけないから、意味を失うわけではない。

    生かしてもらいながらここにある命にも、その命を支える人の営みにも、「役に立つかどうか」とは関係なく、確かに意味がある。

    助けられなかった命にも、意味は残る

    それでも、どうしても助けられない命はあります。

    医療が手を尽くしても、間に合わないことがある。周りがどれだけ願っても、届かないことだってある。

    それなら、助けようとした営みは無意味だったのでしょうか。

    私は、そうは思いません。

    かつては助からなかった病気で、今は生き延びられる人がたくさんいます。昔なら諦めるしかなかった早産の赤ちゃんが、今は保育器の中で育っていける。

    それは偶然そうなったのではなくて、「目の前のこの人をなんとか助けたい」と必死になった人たちが、世代を超えて工夫を積み重ねてきた結果ですよね。

    実際、昆虫の延命法は(知る限りでは)誰も研究していませんが、猫の腎臓病の新薬は、もう形になりそうです。

    誰も「生かしたい」と願わない命なら、こういう技術はこの世になかった。

    その積み重ねの途中には、助けられなかった命が数えきれないほどあったはずです。けれど、その一つ一つの命の前で誰かが必死になったからこそ、次の方法が生まれて、今の誰かが生き延びている。

    私だって疾患を抱えています。もし、私の生きていける余白がない社会なら。あるいは薬がなければ、今のような生活は送れませんでした。

    だから、たとえ今回は間に合わなかったとしても、今、目の前の命に必死になることには、きっと意味があります。

    私たちはご家族を失ったり、何らかの被害に遭われて、社会活動や運動をされる方の言葉を、メディアを通じて何度も聞いているはずです。

    「もう、誰にも同じ思いをしてほしくない」

    あなたも、そう願って行動したことがありませんか。

    その必死さが私たちの願いに変わり、未来の誰かを生かす力につながっていくんです。

    「役に立つから、いていい」を逆さまにする

    ところで、「多様な人がいる社会の方が、変化への対応力が高い」という考え方も知られています。

    主流のやり方が通用しなくなった時、違う感じ方や違う得意を持つ人が、思いがけない解決策を見つけることがあるからです。

    私も、そう思います。

    ただ、「いつか役に立つかもしれないから、いていい」という理屈は、裏返した瞬間に「では、役に立たないなら?」という問いを残してしまうかもしれません。

    順番が逆なんですよね。

    役に立つから、いていいのではない。

    この世界に様々な人が生きているから、結果として、社会をしなやかにしているのだと思います。

    そんな世界の中で、私は、日本が、どんな人も生きていける社会であってほしいと願っています。

    たくさん働ける人も、今は働けない人も。
    誰かを支えている人も、支えてもらっている最中の人も。

    きれいごとだ、支える側の負担は大きく、回収の見込みもない、という反論も、分かります。

    そうなのかもしれません。

    終末介護。障がいをお持ちの方への援助。時に自分の身が危険になることだってあります。

    そこまで頑張っても、相手が回復して「支える側」に回る日は、もしかしたら来ないのかもしれない。

    本当につらいですよね。どうして私が、こんなに頑張らなければならないのか。何か意味があるのか。

    そうですよね。そしてそこまでつらい思いをされているあなたも、今、支えられるべき側なのかもしれません。行政や、福祉を頼ってもいいんですよ。一人が苦しみを肩代わりするのではなく、一緒に支え、考えていけるはずです。

    そして、どんな苦しみも、あなたの苦しみも、命のバトンとして未来に残ります。
    つなぎ、目指すことには意味がある。
    苦しみが良いとは言いません。苦しみは無い方がいい。
    それでも、苦しんで来た人の分、今度こそ、苦しみの無い世界に近づいていくはずです。

    だから、

    あなたは、自分が役に立つかどうかを証明しなくていい。

    いまこの瞬間だけの価値で決めつけなくていい。
    私たちはここにいるだけで、この世界にとって大切な意味があって、これからも、その意味をずっと、持ち続けます。

    苦しくても、どうか、ここにいてください。
    自分の価値を信じられなくなった夜には、ここに書いたことを思い出してもらえたら嬉しいです。


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