メインコンテンツへスキップ
見出し画像

母の宿題


    「大人になって、よかったことって何?」
    子どもの頃、母にそんなことを聞きました。


    実家の台所でした。
    母は料理をしていて
    包丁を持つ手を少し止め、
    少し考えてから

    「宿題がないこと」

    それを聞いて、私は思わず笑いました。


    そんなに宿題が嫌だったの?
    子どもの私は、
    宿題に追われる少女時代の母を想像しました。


    勝手に宿題に困っている幼い母を想像して、
    可笑しかった。


    宿題なんて
    そんなに真面目にしなくてもいいのに。


    「忘れました」と言って、
    少しくらい叱られておけばいいのに。


    子どもの私は、
    たぶんそんなふうに思っていました。


    あれから、ずいぶん時間が経ちました。
    今になってなぜか、
    ときどきあの会話を思い出します。


    母はあのときすぐには答えなかった。
    包丁を持つ手を止めて、少し考えた。


    あの頃の母はもう大人だった。

    働いて、
    家のことをして、
    子どもを育てて、
    お金のことを考えて、
    毎日の暮らしを回していた。


    子どもの私には見えていなかったことを、
    きっといくつも抱えていた。


    宿題がないこと。


    今になって思う。


    もしかしたら母は、
    子どもの頃にはあって、
    大人になってなくなったものを
    探して答えたのかもしれないと。


    ただ単純に、
    宿題が大嫌いだっただけかもしれない。
    冗談だったのかもしれない。


    私が勝手に何十年もあとから、
    意味をつけているだけかもしれない。


    きっと今、母に聞いても
    「そんなこと言った?」
    と笑うかもしれない。


    母にとっては忘れてしまうほどの、
    ささいな会話だったかもしれない。


    でも私は覚えてる。


    台所にいたことも。
    料理をしていたことも。
    包丁を持つ手を止めたことも。


    そして、少し考えたことも。


    同じ記憶なのに、
    自分が歳をとると
    聞こえてくる言葉が変わる。


    母にとって、
    大人になることは何だったのか。


    本当のところは、
    今もわからない。


    ただ、あの日の台所の母を、
    何十年も経った今になって、
    まだ考えている。


    なんのはなしですか。

    宿題の話です。

    たぶん。


    光さすキッチン。窓からは海の見える景。作りかけのサラダ。
    Created by Yoiho Suzumori