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呪文と花瓶──『水辺のつつじ』ep.45

    テーブルの脚に小趾こゆびをぶつけた。
    口の中ではミントの匂いが泡立っている。
    水仙の挿さったコーヒーの空き瓶が倒れかけ、水の動く音がした。

    まただ。
    僕から僕が転がり落ちて、彼が僕に、僕が彼になってしまった。

    ──彼は苦痛に顔を歪めている。
    膝から崩れ、うずくまる。
    彼は──貝原瑞樹は、歯ブラシを咥えたまま祈るみたいにして天井を見上げた。

    左手でコーヒーの瓶を掴んだ。
    ひんやりとした感覚が指先から昇ってくる。
    小趾こゆびは、もう一つの心臓でも宿したみたいに脈を打っている。
    痛みはもうすっかり身体に馴染んでいた。
    目尻と頬が痛痒い。
    涙は耳へと落ちていった。

    目尻を指先で拭う。
    爪の上で雫が潰れ、べったりと伸びていた。

    「無事でよかった……」
    瓶の中の水仙は、相変わらず申し訳なさそうな顔をしてうつむいている。
    それを見つめつつ、僕は歯磨きの続きに取りかかった。

    花を瓶ごと窓から差し込む光にかざしてみる。

    小趾こゆびは依然として疼いている。
    足を引きずり、よたよたと洗面所へ向かう。
    「大袈裟だな。」
    僕は薄く笑った。
    自分で言っておいて、自分で面白くなってしまった。

    「そういうところだよ……」
    排水溝にミントが流れていく。
    釈然としない思いを水の音でかき消した。
    目の前の水仙の花は立てかけた歯ブラシの隣でやっぱり居心地悪そうにしている。

    僕は檻の中の熊のように、花を片手にうろうろと彷徨った。
    本棚の隅、なけなしの調理スペース、ベッドのヘッドボードの飾り棚……
    でも、そのどれもが花を、僕を、拒絶──否、互いに拒絶しているのかもしれない。

    僕は雑貨店へ向かって歩いていた。
    そこへ行くのは初めてだった。
    それでいて外観だけは知っている。
    けれど、名前は知らなかった。

    ここまでは見知った道。
    電飾を脱がされたミズキの木を曲がれば、そこからは初めて入る道だった。
    国道二四六に背を向ける。
    乾いたアスファルトと湿った土の匂いが一緒になってやって来た。
    「ここ……か。」
    看板には「Hartriegel」と書かれていた。
    読めない。
    けれどなんとなく、ドイツ語のような気がする。

    こうして僕は、雑貨店「Hartriegel」の青い片開きの扉を押し込んだ。

    「いらっしゃいませ。」

    こじんまりとした店内には、三人の先客がいた。
    二人は赤ちゃん用の靴下を手に、言葉を交わしている。
    その笑い合う声は窓硝子から差す透ける光に暖まっていた。
    一人は魔法の呪文を唱えていた。
    「デルフィニューム、クラスペディア、ゴアナクロー……」
    というのは冗談で、ドライフラワーのブーケを注文している。
    僕はまるで、魔法をかけられたみたいに動けなくなっていた。
    その呪文めいた花々を束ねていく店主の手元から目が離せなかった。
    気づいた時には僕の両手には花瓶が握られていて、
    花瓶だけでも四十種類はありそうだ。

    虹を映しとったしゃぼん玉のような丸いもの。
    四角いもの。
    青いもの。
    同じ硝子でも澄み切ったものもあれば曇っているものもある。
    同じ形はひとつもなかった。

    僕が想う花は一輪だけだ。
    なのに、花瓶は何十種類もある。
    どれもあの花に合うような気がした。
    同時に、どれも違う気もする。
    きっと、そのどれもが間違いではないらしい。

    結局僕が選んだのは、片手に収まるくらいの硝子の一輪挿しだった。
    傘に落ちた水滴をそのまま凍らせたような形をしている。
    なぜそれを選んだのか。
    それは僕にもわからなかった。

    帰り道、僕の思考はずっと前のめり気味だった。
    たった今手に入れたばかりの花瓶と部屋で待っている花のことで頭がいっぱいだった。
    危うく赤信号で足を出しかける。
    靴紐が緩み、ほどけかかっていることに気付く。
    慌てて足を引っ込めた。
    紐を結び直す間、車は一台も通らなかった。
    そして僕は相変わらず忙しない二四六号線を横目に帰路を急いだ。

    「ただいま!」

    部屋に着くと、手洗いはおろかうがい、そもそもがコートを脱ぐ、という通り一遍をすっ飛ばし水仙の顔を見る。
    花は相変わらずうつむいたまま、居心地悪そうに押し黙っている。

    僕は包装をといていく。
    英字新聞にくるまれた硝子の一輪挿し。

    上向いた透明な口に、茎を浸す。
    その花は昼下がりの陽射しの中、硝子の縁に頭を寄せて微睡んでいる。
    僕はそれを見つめている。

    だんだんと瞼が重たくなって来て、僕は花ごと夢の中へ潜っていく。

    目が覚めるともう、ほとんど陽は沈んでいた。
    花はわずかな光を透かしてただそこに存在している。

    花の気持ちはわからない。
    けれど、目が覚めた時見上げた「いつも通り」の中にこの色を見つけた時、僕はほんの少しだけ息が吐き出しやすかった。

    僕はもう一度、目を閉じる。
    「おやすみ、まだ夜じゃないけれど……」

    ↑
    【創作大賞2026】
    恋愛小説部門エントリー中。
    近所の方に、お花のお裾分けをもらった貝原瑞樹。
    「らしさ」って?
    「居場所」って?
    思考を巡らせます。


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    大正を生きる、上原朔也。
    彼はとんでもない下戸である。

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    【読切】
    読み切れる。
    長いのやだよ、お前の書いてるもんはわからんぞい、の方へ。

    ↑
    色っぽい気分になりたい時用。

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    そうでもない時用

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    ゆきお様・解説
    花瓶の意味、呪文の理由。
    裏の裏をゆく!

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    たおたお様・データベース掲載6/16(火)ピックアップ
    なんと。
    衝撃の掲載です。
    ランダム、奇跡!

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    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

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