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コートの下の月──『水辺のつつじ』ep.62

    「月って何味だと思う?」
    振り向いて問うた彼女はもう前を向いて歩き出している。
    こういう時、どう答えるのが正解なのだろう。
    答えあぐねたまま彼女との距離は信号ひとつ分、広がっていた。

    緑色の光が明滅している。
    「あ。」と間の抜けた声を上げた時には信号はもう赤に変わっていた。

    遠ざかる彼女の背をぼんやりと眺める。
    立ち止まった僕はふと、道角に立つガラス張りの建物に目を遣った。
    営業を終えた不動産屋。
    そのガラス壁に映り込む自分の姿があまりにも可笑しくて、僕はつい笑ってしまった。
    僕の腹部は月を丸呑みにしたかの如く膨れていたのだ。
    悪い癖が出て、視線を空へと転じる。
    不意に胃の奥底で蟠わだかまっていた生ぬるい甘さが喉元まで湧き上がってきた。

    ──月って何味だと思う?
    笑いと不正解を飲み込んだ。
    舌の上に苦さが残った。

    再び信号が緑色に点灯する。
    彼女との距離は、変わらず信号ひとつ分だった。

    彼女が手招きをする。
    唇が動く。
    きっとこうだ。

    ──瑞樹みずき君、早く。
    いや、もっと長い。
    ──瑞樹君、何してるの? 早く。
    かもしれない。

    僕は隙あらば込み上げてくるモノを抑えつつ、精一杯の「早く」で彼女の隣に立った。

    「ごめんね。」
    「そういうときは、お待たせって言うんだよ。」
    彼女の言葉になるほど、と唱えた「お待たせ」は対向車にさらわれた。
    僕を見上げた瞳めはおそらく、微笑んでいた。

    断片的に聴こえる言葉をつなぎ合わせては相槌を打つ。
    正解なら彼女は微笑むし、不正解なら唇で「え」の形を作って首を傾げる。

    この轟音の中で正解を出し続けることは僕にとって、海底二万マイルで生身のまま本を読むほどに難しかった。

    声を張り上げてみたり、彼女の口元に耳を寄せたり。
    そんなことを繰り返しながら僕たちは、まぶしい夜道を並び歩いた。

    幾度目かの不正解の後のち、彼女は黙ってしまった。
    ひどく騒がしい沈黙が僕たちを隔てる。

    僕は僕の不誠実を呪った。
    僕は、はじめから会話なんてしていなかった。
    正解の相槌を探していただけだ。
    彼女の表情が曇ることを恐れて。
    その実、その場を取り繕おうと躍起なっている。
    顔に貼り付けた困ったような笑いを手で蔽い隠した。

    ちぐはぐな沈黙はひっきりなしに悪い妄想をつれてくる。
    妄想をかき消すために全く無関係の行動を繰り返した。

    車の数は、きりがないから数えるのをやめた。
    代わりに街灯の数を数える。
    それも意味がないからやめた。

    再び胃の底の澱みが湧き立ってくる。
    容易く埋まりそうな距離を、あえてそのままにしていた。

    「ねえ、瑞樹くん。肉まん食べる?」
    「食べない。」
    彼女はいたずらっ子の顔をして振り向く。
    僕は腹の月をさすって困った顔をして笑った。

    ──食べない。
    不正解。
    食べられない、が正解だ。

    「えー、好きでしょ? 肉まん。」
    「好きだけど……」

    白過ぎる光を境に、彼女の声が鮮明になった。

    聴き慣れた音階が轟音の手前で鳴った。
    クラクションは犬の吠え声に、エンジン音は枯葉の転がる音に、排ガスの匂いはどこかの家の夕食の匂いに変わる。

    僕はようやくまともに吸えた息を吐ききると、もう大きく一度吸った。

    「ゆうか。」
    前を歩く彼女の名は冬の夜空に白く浮かぶ。

    それは長く、尾を引いていた。



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    ゆきお様・解説
    恋愛小説とは、というところからです。

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    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

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