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おやつ、ご一緒に

    夫は少々……いいえ、過分に神経の鋭いところがございました。

    この家うちに越してくる際も、
    「桜はいけない。花弁ひとひらたりとも寄り付かぬ場所でなければいけない。」
    と躍起になっておりました。

    その日は前日に森田さんからいただいた、たい焼きをおやつに食べようと約束していたのです。
    夫は朝も早くから幾度なく懐中時計を取り出しては、あと何時間だ、何時間と何分だと申しましてはたかだか二枚の畳縁たたみべりの四辺を踏み歩きますので「おやめください」とたしなめたものです。
    そのうちに懐中時計を握りしめたままになっておりましたので、
    「懐におさめずして、何が懐中時計なのです?」と問いましたところ、壁の暦の前につっかけて「これならどうだい?」と笑うものですから「まァ」と一緒になって私も大いに笑ったことをよく憶えております。

    そしてまさにこの瞬間、私は私の内に宿る命の動くのを初めて感じたのです。
    ですが、夫ときたら「手を洗おうかね」など言ってなかなか触れようとしないものですからその手を掴み、腹に重ねました。
    しばらくはもともと大きな瞳をさらに大きくしておりましたが、やがて瞳を閉じ「西瓜の馬車の王子様」のお話をまだ見ぬ子に物語ったのです。

    その折、私がうっかり「目黒」などと口にしたものですから、途端にへそを曲げ、子どものように唇をとんがらせ、書斎に籠ったきりになってしまいました。
    「たい焼き、食べましょ」と声をかけても返事はございませんでした。

    翌朝、夫の姿が見当たらないのです。
    しばらくして書斎の机の上にあの詩を見つけました。

    ──四月の朝に雛罌粟八つ踏み躙り、散りし桜の花弁のひとひらひとひらを拳銃ピストルで撃ち落としてやらふ!

    ほどなくして玄関の扉が引かれました。
    そこには安産の御守りを握りしめた夫が立っておりました。
    「おかえりなさい」
    「ただいま」
    なんの変わったこともない言葉を交わしたのです。

    そして、これは彼の最後の夏のこと。
    五歳になる息子は幾度となく、あの「西瓜の馬車の王子様」のお話をせがむのです。
    夫は一文、一文、語ります。
    そのたび激しく咳込み、話は途切れました。
    息子は黙って待っておりました。
    彼は息子の頭を撫で、何事もなかったかのように続きを語るのです。

    それからこれは彼が最後に外に出た折の詩でございます。
    外と申しましても書斎に面した小さな庭ですが。
    そこで詠んだものです。

    ──三月半ばの日曜の黄色の夕日は哀しいね。
    お空の雲の逆光さかびかりの灰かかるのは寂しいね。
    日暮れる前の菜花なばなの頭揺らすは虚しいね。
    踏切の光と音の合わぬのは、どうにも腹が立ちました。

    この頃にはもう、夫はほとんど眠ったままで。

    息子は毎日庭の花を運んでおりました。
    なずな、たんぽぽ、すみれ、山茶花の花びら。
    それも尽きると、書店前の花韮を。

    そしてとうとう──

    「もう罌粟のお花しかないね、お父ちゃんに踏んづけられちゃうよ。」

    すると、掛布の足元がもぞもぞと動きました。
    ──あなたという人は……

    息子は怒って「だめ!踏んづけちゃあだめ!」とその足を鼻水と涙で濡らしてしまいました。

    それから数日経った頃──

    奇しくも彼は、彼の憎んだ季節に旅立ちました。
    それでもこの家には、最期の最期まで桜は咲きませんでした。

    ──俺は満開の桜の中、柊の匂いの血を流すのだ。春の麗らかさは恨めしい。

    そう。
    これからも、きっと。



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    ゆきお様・作
    要因は人それぞれ。
    自分の引き金自分で管理。

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    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

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