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会瀬は、「出会い」の名前を持つ町

    鹿島町の東、海沿いの会瀬町。「おうせ」と読むこの町の名前には、1300年前の物語がありました。

    1300年前の「出会い」
    奈良時代にまとめられた『常陸国風土記』に、このあたりのことが書かれています。古老の言うには、倭武天皇がきた時に皇后(弟橘姫)が来て会った。それで遇鹿と名付けたという。この「遇鹿(あうか)」は、現在の助川町と会瀬町、相賀町に及ぶ広い地域の名称だったそうです。  

    光圀公が「会瀬」に
    その後、村は「相賀村」と呼ばれていました。江戸時代、元禄11年、水戸光圀はこの話からここを 「会瀬(おおせ)」と 改名しました。隣の相賀町には、今も古い名前が残っています。

    海とともに生きてきた町
    会瀬の歴史は、海の歴史でもあります。江戸時代の終わりには会瀬・河原子・川尻のかつお船が道難し200人の死者がでた。という悲しい出来事もありました。
    驚いたのは、大正から昭和の初めにかけて、会瀬村の漁民がメキシコへ漁業の出稼ぎに出る。1932年(昭和7)まで続く。ことです。100年前の会瀬の漁師さんたちは、太平洋の向こうまで漁に出ていました。  

    県内でここだけの漁
    1936年には定置網漁が始まりました。今も茨城県で唯一の定置網漁は、日立市のほぼ中央に位置する会瀬で行われている。網を決まった場所に置いて、回ってくる魚をとる方法で、過剰漁獲にならず、継続的な漁業が可能となる「環境にやさしい漁法」として注目されています。  

    工場と漁港が並ぶ風景
    1930年には日立製作所の海岸工場ができ、会瀬は工場の町にもなりました。1945年の空襲では工場や相賀町が被弾し、会瀬一丁目が焼けました。その後も台風の高潮、チリ地震の津波、そして東日本大震災と、何度も海の災害を乗り越えてきました。

    100年前と同じ海で
    工場のすぐ前に漁港があって、隣には海水浴場がある。会瀬は、日立の「ものづくり」と「海の恵み」が並んでいる、日立らしい町だと思います。
    1300年前の出会いから名前がついた町。この町で、また新しい出会いが生まれたらうれしいです。

     
     
    日立のお金とまちの話を、市の資料で調べて書いています。 赤坂・銀座で板前→国会議員秘書→飲食店経営→タイで日本料理指導→日立市地域おこし協力隊。日立駅から見た海に惚れて移住。茨城県知事賞受賞。 署名受付中(30秒)→ voice.charity/events/21352

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