
「恩師」
教職
自分が通っている琉球大学は、教育学部の規模が非常に大きい。
県内唯一の国公立大学として地元の教員養成の役割が大きいのだろう、国語や英語、数学といった主要科目だけでなく、美術や音楽、家庭科といった多様な科目の専修を設置してあり、それゆえ、建物の大きさを含めて教育学部の存在感が大きい。
後学期から、興味本位で教職科目である「教職入門」という授業を履修している。
卒業後、ストレートで教員になる気はさらさら無いのだが、教職科目の内容を少しだけでも体感したくなり、そして教師を目指すのはどんな学生なのかが気になり、履修登録した。
担当の教員は、教育学部の教授ではなく、つい昨年まで県内の公立高校で校長として働いていた講師だった。
さすがは何年も校長を務めていただけあって、何とも言えない威厳、多少の威圧感を感じる。
まだ数回しか授業を受けてはいないが、ある授業後に課題として、
「これまでに影響を受けた、またはお世話になった先生はいますか」
という、自身の経験のついて記述する機会があった。
この課題を機に、自分の恩師について考えさせられることとなる。
「迷ったら、やる」
「影響を受けた先生は誰ですか?」
と問われてまず思い浮かぶのは、小学校5年生の時の担任の先生。
カリスマ的な存在感のある先生で、とにかく熱血だった。
昨日よりも「賢く」なることを生徒に諭し、どの科目の授業においても刺激的な(上手な)教え方をする先生で、生徒からの信頼も抜群だった。
小学校の授業にしては珍しく、社会の授業では討論会を開いたり、ほとんど丸1日かけて生徒運営のお楽しみ会を開いたりと、学級運営にも秀でていた。
小学校高学年という、学校生活が少しずつ荒れ始める時期においても生徒を信頼し、同時に生徒に信頼されていた状況があってこそ実現したものであると思う。
数多くの偉人や研究理論を引用し、努力と継続の重要性を説いていた先生の話は、今思えば若干の自己啓発的な空気があったとも感じなくもないが、先生自身も途轍もない努力を重ねたうえで教員となり、その後も研鑽を積んでいることは容易に理解できた。
「迷ったら、やる」
自分の殻を破ること、一歩踏み出してみることの大切さを説く先生の口癖だった。
多くの生徒がこれに影響され、それまで内気だった級友も、行事や授業をきっかけに、これまでの自分から飛び出していく瞬間を数多く目にした。
学生時代は10年間野球部に所属し、明らかに元ヤン、とまでは言わないが多少の不良だったのではないかと思える、人間味に溢れる先生の根源は、段違いの情熱と愛情にあった。
「逆風を受けて飛行機は飛び立つんだ」
「ピンチはチャンス チャンスはピンチ」
「骨は折れても心は折れない」(生徒と鬼ごっこをした先生は赴任早々骨折した)
「二流、一流ではなく超一流を目指そう」
先生の言葉とその姿勢は、今なお自身に響いている。
「私は何もしていないですよ」
自身最大の転機となった中学受験を経て入学した母校で、ある先生と出会うこととなる。
中学時代の学年主任の先生。担当科目は国語(現代文)だった。
現代文の授業では、年に何冊もの本を用いてメッセージ性に溢れた授業をし、非常に刺激的な内容だった。
また行事やイベントの企画運営等も、他の学年の教員団とは段違いに秀でていた。
正直に言うと、授業内容は中学生相手にはかなりレベルの高いもので、当時はその良さが半分程度しか理解できていなかったが、高校進学後や卒業後になってようやく、先生の本当に伝えたかったことが理解できるようになった気がしている。
あるいは本当に優れた教師やその授業の真価とは、卒業後になってようやく理解できるものなのかもしれない。
また自分は中高一貫校に通っていたため、高校進学後も、学校が嫌で仕方なかった時期などに、多忙にも関わらず相談に乗ってもらい、お世話になった経験がある。
さりげなく自分を保健室やカウンセリングルームに誘導し、
「ごまかし誤魔化しでいいんですよ」
と優しくおっしゃった先生の姿は、教室での姿とはまた異なる一面だった。
学生時代、演劇部に入っていた先生は、その声量、迫力をもってして、スピーチ演説の上手さも圧倒的だった。
修学旅行の終盤、京都駅前の広場でのスピーチ。
「つながりを求めて生きよ」
中学卒業時の最後の挨拶。
「死ぬなよっ。私より先に死んだら容赦しないからな」
当時の様子を含めて、鮮明に記憶している。
先生が心から伝えたかった「つながり」については、後日また別の記事で深堀してみようと思う。
高3の終わり、現役の大学受験はあっけなく失敗し、一浪を経て進学先がようやく決まった春。
卒業から1年を経て、先生と少しだけお話をする機会があった。
在学中、お世話になった全てのことについて、自分は有り余る感謝を伝えようとした。
すると先生は笑いながら、こうおっしゃった。
「私は何もしてないですよ。なんにもしてないです」
高校学年団の教員の一人が、この先生のことを「偉大な先生」と評したことがあったが、この一言から感じたのは、あまりの格好良さだった。
これを尋ねるのは野暮かもしれませんが、と前置きしたうえで、中学時代の授業の題材や作品選びについて、その背景にあった思いを聞いてみた。
授業において、死や異世界を含めた様々な「世界」を題材にすることで、
「生きること」とは何なのか?
ということについて考えてほしかったという。
先生が提示した、つながりや死、あるいは生きるというテーマについては、この先ずっと考え続けてゆくことになるだろう。
ほとんどが東大や医学部を目指す周囲の中で、東大など目指すこともできず、一浪をした上に結局大学受験はうまく行かなかった。
一浪を経てなんとか進学先が決まったものの、過去に
「○○は文三か?」(あなたは東大の文科三類を目指すのか?という意味)
とその先生から声をかけられたこともある自分は、決定した進学先について周囲よりも明らかに引け目を感じていたが、進学先を告げると、
「琉球大学、君にぴったりだよ。」
と背中を押してくれた。
予備校講師のような、単に卓越した教育技術などではなく、各所に表れる素敵な人間性が、そして圧倒的な情熱が、自身の理想の将来像に重なる。
「楽しければいいんじゃない?」
一般的に恩師というと、学校でお世話になった先生が筆頭で思い浮かぶが、自分にとって、どうしても書かずにはいられない人がいる。
通っていた中高で、実験の助手をされていた方。実は息子さんがその学校の卒業生だった。
助手としての校内での仕事だけでなく、地域に深く根ざし、精力的に様々な活動をされていた。
自分は中高時代生物部に所属しており、生物科の実験助手をされていたこの方とは確か中三あたりから仲良くなり、卒業後の今でも、東京に帰った時に会うほどの仲である。
息子さんが在学中だった十年近く前から、学校とのつながりがあり、特に生物部の歴代部員とは数多くの親交がある方だった。
また、前述のように地域内でも非常に顔の広い方で、広範なつながりを持っている方だった。
高校1,2年生の頃、学校が嫌すぎて遅刻を繰り返したり、昼休み後に勝手に早退したこともあったような時期には、(これも勝手に)授業中に実験準備室を訪れた際、躊躇なく迎え入れてくれて、授業が終わるまで話をして、ある意味かくまってくれたこともあった。
当時はコロナ禍ということもあり、合宿担当だった自分はその準備に辟易し、さらには感染対策故に不自由な学校生活、勉強もまったく上手く行かず、というような当時の自分の姿は、同じく在学中に合宿担当を任され、それゆえのトラブルや学校生活のあれこれで疲弊し、退学も真剣に考えたという息子さんの母親であるその方にとって、自分の様子は当時の息子さんとどこか重なる部分があったのだろうか。
同じ学校内においても教師とは少し離れた立場にいたその方には、在学中、あらゆる局面で本当にお世話になった。この方がいなければ、無事に卒業できたかどうかすら分からない。
受験期においても、周囲の教師や親などが、とにかく東大を目指せだの必死に勉強しろだのとけしかける中、この方だけは、
「自分が本当に行きたいところに行けたらいいね」
と言ってくれた。
「人生、楽しければ何でもいいんじゃない?」
がこの方の口癖で、そのような明るい、社交的な人間性と他者への愛があってこそ、多様な人と広範なつながりがあるのだろうと思う。
もちろん、この方もつらい過去や目を背けたくなるような現実も抱えているのだろうが、それらを抱えてもなお、日々を生きる強さを持ち合わせているのだろう。
葛藤苦悩が続いた高校時代、つまらない授業などよりも、この方自身の豊かな人生経験から放たれる、温かい、人間味に溢れる言葉やその姿勢から、実に多くのことを学んだ。
父親の記憶
自身の学校生活について一切語らないような母親とは異なり、父親の恩師に関する話は幾度となく聞いたことのあるものだった。
父親が小学校高学年時の担任の先生。
新任の若い先生で、体罰が当然だったような当時の時代背景もあり、その指導は厳しかったようだが、休日に生徒を連れて博物館に行ったり、北海道大学内の、先生の同期の研究室に連れて行ったりしてくれたという。
どうやらその先生はもともと非常に優秀で、高校は進学校を卒業したものの大学受験は上手く行かず、教育系の大学に進み、先生になったらしい。
この夏休み、札幌にある父親の実家を訪れた際、父の卒業アルバムを見たところ、この先生の、卒業生へ贈るメッセージがあった。
以下、一部改編の上掲載する。
『初めての卒業生へ』
「私は、未熟な若い教師として君達と数年間過ごしてきたわけだが、みんなに随分と教えられることが多かったように思う。
まず教育することの難しさを。
生きた人間を教育するわけだから一筋縄ではいかない。初めは、感情をすぐ表面に出して怒ってばかりだったが、少しずつ我慢することができるようになった。
そして授業の難しさも。
面白くもない授業は総スカンを食った。下準備を充分した授業に対しては、身を乗り出して歓迎してくれた。いかに教師の姿勢が大事かを教えてくれたのも君達だ。ほんとうにどうもありがとう。
これから青春に向かう君達には、すばらしい出会い・喜びがきっと待っている。しかし反対に苦しい・悲しい挫折も待っているだろう。それを乗り越えてこそ自身に満ちた自分に一歩近付くはずだ。
失敗を恐れず、実践することの大切さをどんどん経験したまえ。また、おかしいと思うことにははっきりおかしいと主張する、正しいと信ずることでは妥協しない強さも身につけて欲しい。一方、誤りに気付いた時には深く首を垂れ、反省することも忘れずに。
平和な日本の未来を築く君達の前途に栄光あれ!」
一度読んだだけでも、この先生の聡明さがよく分かる文章である。
非常に素敵な文章で、そのメッセージはまるで自分にも向けられているように感じた。
それは、30年以上の時を越えて、父親の恩師の言葉を受け取った瞬間だった。
父親が高校生の頃。受験期の担任かつ学年主任だった数学の先生は、勉強面において非常に厳しく、しかし、尊敬もされていたという。
父は未だに、当時仲の良かった級友数人と時折集まり、同窓会のようなものに参加している。
その集まりには先生も参加することがあるようで、毎回、父の言うところの「説教」(年齢を言い訳にするなよ!等)を受けるという。
未だにそのようなつながりがあることに驚くとともに、その関係をうらやましく思う。
実のところ父親は、母校に入りたくて入ったわけではない。
実は別の公立高校に行きたかったが、内申点等の関係で断念し、のちの母校に進学した。
その高校は比較的新しい高校で、今で言うところの自称進学校(これは失礼な表現だが、状況説明のためにあえて使う)のような空気があり、息苦しさも感じていたという。
大学受験においても(そもそも時代が違うものの)、父親は自分と同じく一浪し、北大を目指したが結局一浪時も上手く行かず、第二志望だった道内の大学に進学した。
父はよく、
「もっと勉強すればよかった」
と後悔を漏らす。
還暦近くに今さら何を言っているんですかという感じではあるが、自分はむしろ、その後悔の重さは重要ではなく、進路に関しては色々とうまくいかなかった事はあれど、最終的には希望の大学院で希望の研究をできたこと、そして何より、不本意ながら入学した高校で出会った親友と未だに交友があることが、非常に素敵なことだと思う。
高校時代、厳格な父に反発して音楽に没頭し、勉強も上手く行かず二浪して都内の大学に進み、結局そこでも最初はうまく馴染めなかったが、今はスーパーゼネコンで建築士として働いている級友、義足を履きながらも公務員として働き、家庭菜園を楽しんでいるような同期、高校時代から料理が大好きで、定期試験前にも自家製のカレーを作っていたような人で、その後とあるホテルの料理長になった友人、、
父と、その親友の人生も、自分とは無縁な何かだとは思えない。
一人一人の存在とその生き様は、自分にとっての恩師でもあるのかもしれない。
北極星
興味本位で教職の授業を履修中の現在、将来教師になるつもりは現時点ではほとんど無いことは、記事冒頭で書いたとおりである。
この記事の中では、これまで特にお世話になった先生方などを挙げてきたが、自分にとっての教師のイメージとは正直に言えば、言い表しがたい距離、嫌悪感を感じるもので、それはきっと、未熟な生徒たちを自分の思うように指導、教育してやれるのだというようなある種の傲慢さの欠片をこれまでに何度となく受け取ってきたからに違いない。
しかし自分は、この記事に挙げたような、いわゆる「普通の教師」では無く、とことん生徒に同じ立場で向き合い、ともに悩み、葛藤するような先生方も知っている。
また、この記事では紹介できなかったものの、そうした人間性を備えた先生をにも何人かではあるが、確かに出会ってきた。
そして、記事を書いていく中で、自分にとっての恩師とは、単に教室の中だけでなく、むしろ学外といった外の世界にも広がっていくように、非常に多様な存在であることに気づいた。
教職を目指す周囲の学生は、余計なことをそこまで深くは考えずに、まっすぐに教師になることを志望しているように、そして何よりも子供がとても好きなように見えるのだが、そうは単純に考えることのできない自分は、若干の違和感を抱きつつも、自身の将来像をわずかながら想像している。
これまで紹介してきた、そしてここで紹介できなかった教師について共通するのは、何よりも、「生きる」ということへの情熱であると思う。
機械的、事務的に授業をこなし、淡々と職務をこなす教師はある意味「普通」なのかもしれないが、それ以上の印象は持てない。
教員に限らず、どんな職種、どんな環境においても、高い熱量をもって
「目の前の一人」
に相対し、同じ一人の人間としてとことん誠実に向き合うという事の重要性を、またそのような生き方の気高さを、これまで出会ってきた先生方から学んだ気がする。
また、実験助手の方や父親、そして父の恩師や友人からは、人生の幅広さと奥深さ、あるいはその面白さを学んだ。
高校時代にお世話になった漢文の先生は沖縄出身で、高校卒業後は北海道大学に進学するという経歴を持っている。
どこか自分の人生と無縁ではないような気はするものの、授業以外の接点が無く正直そこまで良く知らない方なので、詳細はともかくとして、その先生は過去に、担任を持ったある学年の卒業時のメッセージに素敵な文章を寄稿していた。
たしか『私の好きな先生』という題だったと思うが、先生がこれまでに出会った恩師について、鮮やかな思い出とともに記述されていた。
その文章の終盤部には、このような記述があった(内容は記憶をたどりながら再現した)。
「これから君たちは、大学に進み、就職を経て社会へ出てゆく。
もちろん、希望の大学、研究室、就職先に進めるに越したことはないが、それよりも、そこでどんな人に出会うかが重要に思う。
ここに白状したように、学生時代、私は誠実な生徒ではなかった。
しかし、ここに紹介した先生方は私の恩師として、その思い出とともに、北極星のように今でも輝いている」
自分にとって恩師とは、自身の現在や将来といった不安な暗闇を照らす、数多くの星たち、その光源なのだろうと思う。
この先も、さらなる出会いによって頭上の星空は広がり、その輝きは増してゆくのだろうか。