
イエス・アンド」に関して(現在進行形で考え中)
「イエス・アンド」という言葉、ずいぶんポピュラーになってきたなと感じています。高校や大学にワークショップしたり、企業に研修したりするときに「イエス・アンドって聞いたことありますか?」と質問すると、「あ、イエス・アンドね」と反応してくれる人を見かけるようになしました(今まではゼロ)。
「イエス・アンド」は、使い勝手がよいからか、もしかしたら、な〜んとなく使っている方々もいらっしゃるかもしれません。「相手から否定されたくない」という気持ちを、「イエス・アンド」で緩和したり、ギスギスした集団の雰囲気を「否定されない環境」にするために、使ったりということもありそうです。自分のアイデアが否定されないことから、今まで否定され続けてきた人にとって、魔法のような「癒やされワード」として愛されているようにも見受けられます。どんなことでも、ある人にとって有用であれば、それはステキです。それをリスペクトすることを前提として。
「イエス・アンド」の本来の意図をふまえて、もう少し高い精度で考察することも、大事なんじゃないかなぁ〜と、ある研究者との議論で感じました。その方はご本人の論文で、イエス・アンドという概念を使用しているのですが、伺ったところ、この言葉が即興演劇から来ていることをご存知ありませんでした。。
日本ではあまり知られていませんが、国際的なインプロのコミュニティにおいて「イエス・アンド」は、その具体的な定義や機能や構造に関して、さまざまな実践家や指導者たちによって継続的に検討されています。そこでは、もちろんイエス・アンドが即興演劇(芸術やエンターテイメントとしての即興演劇)から来ていることは共通認識ですが、さらにイエス・アンドのアンドは単なる付け加えではなく、「相手のアイデアから創作する」という意味だよね〜ということが言われています。
例えば「海に行こう!」というAさんのセリフに、Bさんが「いいねぇ、じゃあ次に川に行こう!」と言った場合、それはイエスアンドなのか。イエスアンドの定義が「受け入れて、アイデアを付け加える」ということならば、成立していると言えてしまいます。しかし、このBさんのセリフは、Aさんのセリフがなくても成り立ってしまうことから、本当にイエス・アンドしているのかという疑問が生じます(Gunter, 2015)。
よくよく見ると、「海に行く」というアイデアは、「川に行く」というアイデアがなくても成立するし、ともすると「海に行く」というアイデアは消滅しています。相手のアイデアを受け入れて「そこから創作する」という観点からいうと、Bさんのセリフは、例えば「いいねぇ、だったら湘南の海に行きたい!(いいねぇ、ちょうど水着を買ったばっかり、いいねぇ、わたし泳ぎが得意なんだ等)」という風に、Aさんのアイデアなしでは、Bさんのアイデアは生じ得ない、つまりAさんのアイデアがあったから、Bさんのアイデアが創作されたというプロセスが「イエス・アンド」であると言えそうです。
さてこのように「イエス・アンド」は、即興演劇を成り立たせるために生まれた言葉ークリエイティブな行為です。「演劇では物語を創作する必要があるのけれど、いちいち提案されたアイデアを否定していたら、話の設定が安定しないので、そのための共創」に有用な共通ワード(コンセンサス)であるということからきています。そして、この言葉は、日常の全ての局面に適応するとは限りません。
ちなみにキース・ジョンストンの生前の映像で、キースが「イエス・アンドは、初心者にとって大事なキーワードだけど、経験者は別にイエス・アンドにこだわる必要はない(退屈になるから)」とも述べています。つまりイエスアンドは初心者のため。経験者になったら、気にしなくていいよ〜発言しています。
確かに、物語の初期設定を共有するという意味で「イエス・アンド」は大事ですが、否定によって生じる想定外のサプライズもありそうです。そしてこのサプライズが、即興を楽しむアーティストにとって、たまらない魅力であり、新しい創造の触発トリガーになる可能性があるわけで、誰にも同意されない破天荒で意味不明なアイデアが、ものすごく面白いものだったりもします(Gallagher, 2022)。
キースの「退屈になる」という指摘は、「イエス・アンド」が、同調を促し、変化を提案したり、想定外のことをやらかしたり、物事を批判的にみて、疑問を持つことを抑制してしまう機能になっていく可能性を暗示しています。
「イエス・アンド」を考察すると、それがなかなかに深いものであることが分かってきます。自己啓発的・教育心理学的な解釈も、それが有用であればいいと思いますが、そういった拡大解釈派の抑制機能で、即興表現が本来持つ、むしろ想定外のサプライズを歓迎し、そこから創作を行う即興表現の持つ創造性が抑制されないといいなと思っています。
例えば、ある高校演劇部に、即興演劇+「イエス・アンドの考え方」を教えたことがあります。彼らは「なるほど」と受け入れ、それを使って創作しようとしてくれました。しかし結果的に「イエス・アンドしない方法」で、とてつもなく面白い演劇を創作しました。私はショックを受けました。せっかく教えた「イエス・アンド」を無視されたというより、彼らが創作した演劇の方がずっと面白く、「イエス・アンドがいい」という自分の考えが固着したものであったことに気づかされたからでした。
この演劇部には「相手のアイデアをイエス・アンドしようね」と言わずとも、すでに「なんでも言い合える」心理的安全性が担保されていました。だからそういった意味で「イエス・アンド」を使う必要はありませんでした。そして、もっと作品を創作したいという芸術的思考により「イエス・アンドだけでは足りない」と考え、演劇創作をもっと自由に展開していったのです。私はそういう姿勢こそ、誠実で大事なものだと考えます。
ここまで「イエス・アンド」はある環境において有用けれど、万能ではないこと、「イエス・アンド」は初心者に有用だけれど、経験者は囚われすぎなくてもいいかもねということを述べました。国際的な即興演劇実践者や研究者の議論は、まだまだ継続されると思います。大事なのは、考え方や価値観を1つに固定させずに、自分にとっての真実を見つけ、探究し続けていくことなのかなと考えております。