
古地図と地形図から探る宇喜多直家の進軍路と到着タイミング:「秀吉の中国攻め」を地形・地質的観点で見る~上月城攻略戦part7【合戦場の地形&地質vol.11-15】
日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦場の地形&地質」。現在は「秀吉の中国攻め」をお送りしています。
秀吉の「上月城攻略戦」では、姫路城から北西にのびる街道を使って進軍したと推定されます。
赤松氏の支城である佐用城、高倉山城を攻略し、ついに本城の上月城に迫ります。
前回の「合戦場の地形&地質」はコチラ👇
上月城周辺の位置関係
高倉山城を陥落させたことで(このnoteでの仮説)、上月城攻略の障壁はほぼ無くなったことになります。

赤松氏の城の中で最も西にあるのが上月城です。
その東の佐用城・高倉山城を落としてしまえば、後顧の憂いなく進軍できます。
・・・と思いきや、別の方向に新たな障害が出現します。
それは上月城の援軍である宇喜多直家(うきたなおいえ)軍です。
この人物は権謀術数に長けた上に戦上手な武将と言われ、主君を裏切って大名になったほどの逸材。
この時は毛利と同盟を組んでおり、織田氏に敵対していました。
宇喜多直家はどこに来るのか?
宇喜田直家の当時の本拠地は備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)南部の亀山城(かめやまじょう)と言われています。

亀山城から上月城までの街道は、以下の2つが考えられます。
①ほぼ東に進み、播磨に入ってから千種川(ちくさがわ)に沿って北上するルート(上図黄点線矢印)。
②北東に進み美作国(みまさかのくに)を通って上月城の西に抜けるルート
ところが古地図を見ると、どうも千種川北上ルートは可能性は低そうだと考えられます。

千種川沿いの街道は、川沿いを一本道でつながっているわけではなく、いったん川から離れたり行き止まりになったりと網の目状につながっています。
おそらく古地図がつくられた天保年間の治水技術では、街道(橋など)を維持できるほどの河川整備ができなかったのかも知れません。
江戸時代でできないのですから戦国時代はなおさら。
そのためか、南からの街道は上月村・上月城にダイレクトにつながってはいません。
一方、もう1つの街道は太線で描かれており、安定した大きな街道だったと思われます。
「上月城の戦い」の地形とは
古地図から読み取れる街道の状況も考慮しながら、改めて現在の地形図を見てみましょう。

秀吉が北東から進軍するのに対し、宇喜多軍の行軍ルートは以下の3通りが考えられます。
①備前国ルート
南東から千種川沿いを北上するルートです。
上図南東部の久崎(くざき)から上月城へは佐用川沿いを北上することになりますが、延長約1km区間の両岸が急斜面(上図赤丸)であり、行軍は困難でしょう。
おそらくこのような場所で街道が途切れていると考えられます。
②美作国aルート
南西から秋里川(あきさとがわ)沿いの平坦地を通ります。
最終的に佐用川を何度も渡って上月城に至ります。
③美作国bルート
北西から幕山川(まくやまがわ)沿いの平坦地を通ります。
最終的に幕山川を1回渡るだけで上月城に至ります。
以上の各ルートの地形的特徴を考慮すると、上月城付近での地形的障壁が最も少ないのは③のルートだと考えられます。
これは古地図では太線で描かれている街道であり、やはり地形的に通りやすく、そのため整備が進んだ道だったのかも知れません。
ここでは③ルートを通ったと仮定して話を進めます。
援軍到着のタイミングは?
ここでもう1つ重要なのは、宇喜多軍がいつ到着したか?です。
秀吉が上月城に到着する前に来たのか?後に来たのか?
これについては「佐用城攻略からの上月城への行軍開始が翌日」ということから考えると、この時点でまだ到着していなかったのではないかと考えられます。
上月城と宇喜多軍を合わせて約1万の兵力だったようなので、そこまでの兵力が揃っていれば佐用城陥落前に何らかの行動を起こしていそうなものです。
もちろんそれだけでは分かりませんが、いくつかのサイトで以下のような記述がありました。
秀吉は上月城のまわりに3重の垣を設け攻守に備えた。
宇喜多軍を備前国との国境まで追い返した。
つまり「上月城とその周辺を垣で分断して上月城を攻撃しつつ、これからやって来る宇喜多軍に備えた」と読めます。
また「国境まで追い返した」についても、宇喜多軍が後から来たことを示しているように思えます。
上月城周辺の地形を見ると、もし宇喜多軍が既に到着していたなら「国境まで追い返す」とはならないのではないか?と考えられるからです。
次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。