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短編小説|彼女は、俺を知らない

    松尾まつお、46歳。

    仕事帰り、
    わざわざ家から遠いコンビニに寄る。

    近所の店ならもっと早く帰れるし、
    品揃えだって、たぶん大差ない。

    それでも俺は、こっちへ来る。

    わさび味の柿の種があるからだ。

    近所の店では、扱っていない。

    それだけの理由だ。

    たぶん。

    自動ドアが開いた。

    軽い音楽と、
    揚げ物の匂いが流れてきた。

    店内はハロウィンの飾りつけで、
    天井から黒い紙のコウモリが
    ぶら下がっていた。

    「いらっしゃいませー」

    レジの方を見る。

    いた。

    いつもの彼女だった。

    胸の名札には「西村にしむら」とある。

    髪に、小さなオレンジ色の
    飾りをつけている。

    カボチャなのか、猫なのか。

    よく分からない。

    でも…………似合っていた。

    俺は飲み物の冷蔵ケースの前で立ち止まり、
    ペットボトルを眺めながらレジの方へ目をやった。

    西村さんがこっちを見た。

    慌てて、ペットボトルに目を戻した。

    今日は買わないだけだ。


    菓子棚でわさび味の柿の種を1袋取り、
    レジへ向かった。

    「ハッピーハロウィン!
     いつもありがとうございます!」

    俺……覚えられている。

    まあ、これだけ同じものを買えば覚えるか。

    でも、悪い気はしない。

    西村さんが袋を受け取り、
    バーコードを読み取った。

    「好き……なんですね」

    「え?」

    「わさび味。いつも買ってくださるので」

    「え、ああ。うん」

    好みまで覚えられている。

    「違う味も出ましたよ」

    西村さんが少し離れた菓子棚を指した。

    「あれです。
     期間限定、柿の種いちごミルフィーユ味」

    赤い袋が並んでいた。

    俺は一応そちらを見る。

    「いや……これがいい」

    西村さんが笑った。

    「ですよねー」

    会計を済ませる。

    そのとき、
    西村さんの髪飾りが目に入った。

    言うか……やめるか……言うか。

    袋を受け取ってから、

    「それ、似合ってますね」

    と言った。

    西村さんが自分の髪に触れた。

    「ふふ、ありがとうございます!」


    店を出てから少し歩いて、
    俺は眼鏡を押し上げた。


    何をやっているんだ、松尾!


    家に帰ると、腰が痛かった。

    片足を上げると、背中まで響く。

    壁に手をついて靴を脱いだ。

    冷蔵庫を開ける。

    卵。いつの?

    炭酸の抜けたペットボトル。

    閉めた。


    棚からカップ麺を出し、
    湯を沸かしている間に、
    わさび味の柿の種を開ける。

    1つ食べる。

    鼻がつんとする。

    もう1つ食べる。

    やっぱり、これでいい。


    翌日の夕方。

    鏡の前で眼鏡を外し、
    コンタクトレンズを入れた。

    何度か瞬きをする。

    眼鏡がなくなると、
    鏡の中の自分が妙に頼りなく見えた。

    46年付き合っている顔なのに。

    ロッカーを閉める。


    大きな靴に足を入れ、胴体を身につける。

    厚い手袋をはめた。

    扉の向こうから、
    「松尾さん、お願いします!」と声がした。

    「はいー」

    最後に頭部をかぶった。

    視界が狭くなった。

    自分の呼吸が、
    すぐ近くで返ってくる。

    外の声が一段遠くなる。

    さっきまで鏡にいた男は、
    もう誰からも見えない。

    スタッフに付き添われて控室を出た。


    園内では、
    アトラクションの音楽と子どもの声が
    重なっていた。

    空にはまだ明るさが残り、
    通路の照明はもう点いていた。

    色のついた風船を持った家族の横を抜け、
    しばらく歩くと、いつもの歓声が飛んできた。

    「キャー、ミッチン!」

    「こっち向いて!」

    「かわいい!」

    俺ではない。

    分かっている。

    それでも毎回、
    46歳の男が「かわいい」と
    呼ばれている状況については、
    少し考える。

    最初に来たのは、
    小さな女の子だった。

    母親の後ろからこちらを見て、
    黒いマントを握り締めている。

    母親が背中に手を添えた。

    「ほら、いろちゃん。
     せっかくミッチンに会えたんだから」

    女の子の肩が上がった。

    俺は1歩下がり、両手を下ろした。

    しばらくして、
    女の子が小さく手を振った。

    俺も同じくらいの幅で振り返す。


    女の子が母親の横から1歩出た。

    母親は、添えていた手を離した。

    俺はその場で待った。

    近づいてきたので、しゃがんだ。


    ……腰が鳴った。


    聞こえたのは、たぶん俺だけだ。

    大きな手袋の指先を差し出すと、
    女の子の指が1本だけ、
    そっと触れてきた。

    俺は握らずに待った。

    女の子がもう1歩近づいてから、
    手のひらを重ねた。

    温かいかどうかは、分からなかった。

    写真を撮り終えるころには、
    女の子は笑っていた。

    帰り際、来たときより大きく手を振った。

    俺も振り返した。

    立ち上がると、腰が痛かった。

    でも、まあ、これは仕事だ。


    その後も写真と握手が続いた。

    何人か先に、
    見覚えのある顔があった。

    髪を巻き、頭には黒い猫耳。

    頬には細いひげまで描いてあった。

    店では髪飾り1つだったのに、
    今日はずいぶんかわいい猫ちゃんだった。

    コンビニの西村さんだった。


    同年代らしい女性と話しながら、
    こちらへ近づいてきた。

    「もうすぐだよ!」

    その女性が、西村さんの腕を叩いた。

    西村さんがこちらを見た。

    目が合った。

    もちろん、
    西村さんが見ているのは俺の顔じゃない。

    「ミッチーーーン!」

    そんな声、出るんだ。

    両手を胸の前で握って、
    小走りで近づいてくる。

    「会いたかった!」

    俺も会いたかったよ。

    こんな西村さん、知らなかった。


    そんなに俺を好きだったのか。


    俺は両手を広げた。

    ほかの来園者にするのと同じ。

    そのつもりだった。

    西村さんが、俺の大きな手を両手で握った。

    厚い手袋越しに、
    握られている圧だけが伝わってくる。

    俺も指を曲げた。

    「やばい、やばい。本物のミッチンだ」

    俺の手ではない。
    少なくとも、西村さんには。

    「大好きー!」

    昔、同じことを言ってくれた人がいた。

    あのときは、ただの松尾だった。


    西村さんは俺の手を離し、
    そのまま胴のあたりに腕を回してきた。

    近い。

    思っていたより、ずっと近かった。

    俺の顔が見えないのが、
    今だけは助かった。

    これも仕事だ。

    しょうがない。

    俺も腕を回し、
    西村さんの背中に触れた。

    勝手に触れるな。

    勝手じゃない。

    向こうから来たんだから。

    西村さんはすぐには離れなかった。

    腰が痛い。

    でも、まだ離れてほしくなかった。

    あと1分。

    いや、閉園までいける。
    いや、夜のパレードがあった。

    ようやく西村さんが離れた。

    「写真撮ろう!」

    友達がスタッフにスマホを渡し、
    俺を挟んで2人が並んだ。

    俺は片手を頬の横に上げ、
    ミッチンの決めポーズを取った。

    西村さんの肩が当たった。

    1枚。

    西村さんがもっと近づいた。

    もう1枚。

    西村さんは俺の横から離れず、
    もう一度、大きな手を握った。

    今度は、そっと包むように。

    「ミッチンって、仕草までかわいいよね!」

    俺は何度もうなずいた。

    西村さんが俺を見上げた。

    そのまま顔を寄せてきた。

    視界から、西村さんの顔が消えた。

    頬のあたりに、
    軽い重みがかかった。

    俺は動かなかった。

    西村さんが離れてから、
    俺はミッチンの両手で頬を押さえた。

    西村さんが笑った。

    俺は身体を左右へ揺らしてみせた。

    俺も、
    たぶん笑っているように見えている。

    便利な顔だ。

    仕事だ。

    ちゃんと仕事だ。


    ただ、今日はすげーすげー楽しい。


    2人が離れていく。

    俺は大きく手を振った。

    西村さんが何度も振り返す。

    友達にも同じように振った。

    そこは平等だ。

    2人が人の流れに消えた。


    横にいたスタッフが、
    自分の頬を指した。

    俺が顔を傾けると、
    白い布が頬に当たった。

    布に、薄い赤がついている。

    スタッフはもう一度だけ拭いて、
    うなずいた。

    俺は、頭ごと小さく下げた。

    次の来園者が来た。

    俺は手を振った。


    その日の夜。

    家に帰って眼鏡をかけ、
    洗面所の鏡を見る。

    いつもの顔があった。

    頬を見る。

    何もついていない。

    当たり前だ。

    台所で湯を沸かし、
    カップ麺に注いだ。

    待っている間、
    さっきのことを思い出した。

    口元が緩んだ。

    誰も見ていない。

    それでも、しばらく笑っていた。


    気づくと、3分を過ぎていた。


    それから2日後。

    またカップ麺を食べようとしていた。

    液体スープの袋を開けたとき、
    親指に中身が垂れた。

    「さいあく」

    ティッシュで拭き、
    親指を鼻に近づけた。

    まだ味噌の匂いがする。

    洗面所で石けんをつけて洗った。

    もう一度、洗った。

    棚を開けると、
    わさび味の柿の種がない。

    昨日、全部食べた。

    上着を着て、
    いつものコンビニまで歩いた。


    自動ドアが開く。

    「いらっしゃいませ」

    いた。

    今日は猫耳も、
    オレンジ色の髪飾りもない。

    制服姿だった。

    いつもの西村さんだ。

    西村さんも俺に気づいて、
    軽く頭を下げる。

    俺も下げた。

    菓子売り場へ行き、
    わさび味を取ってレジへ持っていった。

    西村さんが袋を見て笑った。

    「揚げたてのからあげはいかがですか
     ……って、要らないですよね」

    「まあ」

    「柿の種の違う味、まだありますよ」

    少し離れた棚を指した。

    赤い袋が並んでいる。

    前にも勧められたやつだ。

    俺は手元の緑の袋を見た。

    「いや、これがいい」

    西村さんが笑った。


    あのときと同じ笑い方だった。

    俺は片手を頬の横まで上げかけた。

    すぐに下ろした。


    俺は代金を払った。

    「お釣りです」

    俺は手を出した。


    西村さんも小銭を持った手を伸ばした。

    俺の手の少し手前で、その手が止まった。

    西村さんは、小銭をカウンターに置いた。

    「ありがとうございましたー」


    俺の手だけが、宙に残った。


    引っ込める。

    カウンターの小銭を拾った。

    手のひらを見る。

    あのときは、両手で包んでくれた。


    袋を受け取って、店を出た。

    自動ドアが閉まる。


    歩きながら右手を見る。

    開く。

    閉じる。

    もう一度、開く。

    鼻に近づけた。

    カップ麺の液体スープの匂いはしない。

    石けんも使った。

    2回。


    「……洗ったんだけどな」





    読んでくださって、本当にありがとうございます。
    ※本作はフィクションです。


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    これまでに僕の作品を読んで、
    記事にしてくださった方がいます。
    本当にありがとうございます🙇


    書いてくださった記事は、
    大切に読ませていただきました🥹


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