
【後編】まだ、途中だったのに。
「もう、早く寝ないと!睡眠こそ最良のパックなんだから」
スマホゲームに興じているわたしの耳元で、今日もお姉ちゃんの声が響く。
いつも困ったような顔で、最後は手話でごめん、と謝る穏やかなお姉ちゃん。
言いたいことは山ほどあっただろう。
でも亡くなって、【わたしのなかで】同居するようになって、耳の聴こえない短い生涯だったお姉ちゃんとの生活は、実に単純に新鮮で、しあわせで奇妙だった。
お姉ちゃんが亡くなって沈んだ家庭で、お父さんとお母さんは、わたしがお姉ちゃんの声が聞こえるようになってからひとりごと?をぶつぶつ言ったり妙に明るくなったのを心配していた。
わたしはお姉ちゃんの口出しに応えてただけなのだけど。
「ほら、手伝わなくていいの?お母さん疲れてるよ。茜もやるの」
「うるさいなあ、やるってば。」
「そろそろ期末テストじゃない?テスト中は喋らないわよ」
耳元はいつも賑やかで、寂しいと感じることもなかった。
本当はいつも手話じゃなくて、こうして話したかったのかもしれない。
お姉ちゃんはことあるごとに口を出してきた。
耳の聴こえないお姉ちゃんは、いつも困ったように笑うだけだったのに、それを取り返すようにおしゃべりになった。
昔は、口癖のように「ごめんね」と言っていた。生前のあの手を合わせる申し訳なさそうな仕草が浮かぶ。耳が聴こえないことで他人に世話をかけることを、わたしが何でもないと思っていることを先回りして謝る人だった。
わたしは進路を決める時期に差し掛かっていた。模試の結果は東京の志望校をC判定いったりきたり。大学にいくなら家を出なければなるまい。
「わたし音楽療法士になりたい。ピアノと心理学を勉強したいの」
でもお姉ちゃんもいないのに、この家をでて。お父さんたちは大丈夫?
わたしの逡巡を見透かすように、また言い訳してる、と囁いた。どきん、とした。
いいじゃない、やってみたら?東京デビューのチャンスよ、うらやましいわ、と笑った。
耳が聴こえない人も一緒に音楽で楽しめる世界をつくりたい、遠くそんな景色を前から抱いていたのだ。
わたしの身代わりになったお姉ちゃんは、いつかオーケストラを聴きたいとずっと言っていた。どんな音がするか知りたい、と。
+
「海に行こうよ、2人で。昔、約束したでしょ」
小学生の頃に駄々をこねた。ふたりでいくのは不安だと心配性の母が止めた。よく覚えてるね、と少し照れてわたしは返した。
各駅停車で、耳元のお姉ちゃんの思い出話に耳を傾けながら海に向かう。
どれも、わたし中心のエピソードだ。
「病院に運ばれて亡くなるまでの間、少しだけ意識があったの。手話をしてお母さんに書き取ってもらった。
…お母さん、泣いちゃったけどね」
波打ち際に立つと、寄せては返す波が足裏をくすぐる。深呼吸した。わたしはそんな会話があったことすら知らなかった。
はい、いつかわたしがいなくなったら読んで。
いなくなるの?
まだ、わからないじゃない。
いなくなったら開けるの、引き出しの手前に入れておくからね。茜。
模試の結果が出て進路に迷うたび、わたしは両親の心配を言い訳に迷っていた。
「人を言い訳にしない。茜は大丈夫」何度もお姉ちゃんは言ってくれたのに。自分が一番自分を信じられなかった。
不安定になっていたこと。怖かったこと。
カッとなったわたしは、つい言ってしまった。
「うるさい、わたしはもう自分で決める。お姉ちゃんなんかいなくてもよかったのに!」
すうと、耳元に風が吹き、りん、と鈴の音がした。
それがお姉ちゃんの二回目のさよなら、だった。
気づいたら、耳元が、暗闇だった。
+
お姉ちゃんに言えなかった言葉はごめんね、の返事ではない。たくさんの言葉が澱のように溜まって、波のように押し寄せた。
わたしのせいで、お姉ちゃんは死んだのに、一度も責めなかった。身代わりになって、守ってくれた。
だから。ありがとうでも、ごめんでも、ない。
わたしはお姉ちゃんにもらった手紙を、もう一度にぎりしめる。
まだ家を出る決心はつかない。正直こわい、耳元に残ったお姉ちゃんの声のぬくもりを何度も思い出そうとする。
「ひとりにして、ごめんね。わたしの代わりに生きていてくれてありがとう。」
お姉ちゃんにわたしを見ていてもらうのは、まだ、途中だったのに。
季節は、すすむ。
あのときと同じ、金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。季節は、前にすすむ。
まだ、生きていく途中でも。

ききりんさん、すてきな表紙ありがとうございます✨本が一冊、出来上がりました。