
淡き思い出のシトロン
今年の夏も、酷暑というのに相応しい暑さで、やっと朝晩の風に微かに次の季節への移ろいを感じるようになった。
そんな折、露地に栽培されている檸檬を見かけた。
実った果実はまだ青々としていて、膨らみはあるけれども、枝に軽々と持ち上げられていてなんだか滑稽ですらある。
私はふと、口蓋が湿り気を帯びるのを感じた。
思い出したのは、甘酸っぱいというには随分と酸が立ち、ほろ苦く、それでいて爽やかな夏の終わりの香りだった
今でも鮮明に思い出す――
先生の横に立ち、緊張しながら自己紹介をする、眼鏡をかけたそばかすのある女の子の姿を。
あれは私が小学校4年生になった春のことだった。
朝から教室は騒がしかった。
どうやら新しく転校生がくるらしい。
クラスはその話でもちきりで、男子は「どうも女の子らしい」と噂をし、まるで猿のように荷物入れの周りで跳ね回っている。
女子も女子で「どんな子かな」「かわいい子かな」などといって、新しい友人になるかもしれない転校生を歓迎する心の準備を整えているようだ。
チャイムが鳴り、先生が教室のドアを開ける。
その後ろを追うように、ひとりの女の子が入ってくる。
クラスは劇場の開始前のような、静寂とも静寂じゃないともとれるような異様な雰囲気に包まれる。
先生が簡単に説明し、そのあとにその子が自己紹介をする。
彼女は、簡単に挨拶をすませ、深々とお辞儀をする。
私は、その子から目が離せなくなっていた。
はにかみ、緊張した笑顔、丁寧な言葉遣い、そばかすと眼鏡の転校生。
この時私は恋をした。
いや、クラスの猿たちがみんなこの子に恋をしたのではなかろうか。
それほどに、その笑顔は魅力的だったのだ。
彼女は、気さくで分け隔てなく、クラスメイトと話した。
優しく、柔和で、勉強もすこぶるできた彼女はすぐに男女問わず、たくさんの友人ができた。
私も、彼女に近づきたくて仕方がなかったので、何かと機会を見つけてはこれ見よがしに話しかけた。
彼女が3姉妹の長女であること、父親が転勤族であること、意外にゲームが好きなこと、バレーボールクラブに入ること、ひどく視力が悪いこと。
それから、しばらく、私たちは気の置けない友人として過ごした。
何度も一緒の班になったし、彼女の家でゲームもした。
嫌がる彼女にお願いして眼鏡も外してもらった。
野外活動で同じ班になった時には、叫びたくなるほど嬉しかった。
6年生になった時だったろうか。
私の中で、とても印象に残った出来事があった。
真面目で正義感の強かった彼女が、初めて宿題を忘れた。
宿題を忘れるなんてことは私にとっては日常茶飯事だ。
なんなら、意図的に忘れることだってある。
私は軽い気持ちで「ドンマイ、ドンマイ」と彼女を励ました。
励ましたつもりだった。
彼女は顔を伏せたまま動かない。
しばらくして肩が震えるのがわかった。
泣いている。
彼女は「ゴメン」とこぼすようにいって泣く。
今となれば、その涙の理由は想像できる。
だが、当時の私はその想像力を持ち合わせておらず、ただおろおろと焦るばかりで、どうすることもできなかった。
きっと何かができたわけではない。
ただ、私の中で、未だにその苦みは反芻されて思い返される。
結局、彼女の涙を見たのはその一度きりだった。
しかし、そのあたりから、私の中の想いは、青いまま膨らんでいく。
そんな楽しい日々はあっという間に過ぎていき、私たちはクラスメイトとして、卒業式を一緒に迎えた。
家もそう離れていなかったので、中学校も同じところに行くことになる。
きっとこれからも、彼女と。
彼女と楽しい日々を過ごせるものだと、思って疑わなかった。
中学校では、別々のクラスになり毎日顔を合わせることはなくなった。
それでも、同じ小学校の仲良しとして、私たちは幾度となく言葉を交わした。
そして、その年の、秋。
いや、夏休みが終わった、ちょうどこの頃だっただろうか。
朝、私が校門をくぐると、彼女に呼びとめられた。
彼女は、いつものように、明るく手を振り、歩きながらなんでもない会話を始める。
私は彼女の変化に気づいた。
変化というほどではない、よそよそしく、いつもにまして明るい。
夏の面影をしっかり残した日差しが、雑草の露に反射してキラリと光る。
彼女は「あのね」と前置きをしたうえで話し始める。
父親の転勤の関係で、引っ越しをするのだという。
私も努めて明るく話した。
張り裂けそうな胸のうちを隠し、溢れだしそうな思いに蓋をしながら。
下駄箱に着いて、彼女は明るくいう。
「もうしばらくはいるから!」
その言葉は、正直で、強がりで、優しくて、辛い複雑な響きを残した。
そして、彼女は廊下の奥に去っていった。
引っ越しまでの日は、瞬く間に過ぎていった。
お別れ会のようなものや、プレゼントも渡した。
だが、どこかで認めきれず、感情を抑え込んだまま彼女と接した。
それは私なりの配慮だったし、強がりだった。
彼女の眼に、あの時の私はどう映っていたのだろう。
別れを惜しみながらも平静を装う、少し大人びた少年だったのか。
それとも、現実を受け止めきれず強がる、ただの子どもだったのか。
青いまま、熟すことのなかった恋。
けれど、あの青い果実を未熟と呼ぶのは、少し違う気がする。
あの頃にはあの頃にしかない香りがあって、私はたしかにそれを知っている。
私は青い檸檬を眺める。
優しい風が渡り、葉っぱを揺らした。
遠い季節の香りだけが鼻腔に残った。
白露。
初めて知りました。
今回は掌編風エッセイを。
ちなみに
“夏の面影をしっかり残した日差しが、雑草の露に反射してキラリと光る。”
のところが白露です(笑)
実際の私を軽くスクイーズして、ハイボールにしました🍋
いい加減、ワインのことを書かないとハシさんに怒られそうですが、まあいいか。
創作だもの。