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蝉男——せみお——【ショート】

    なんということはない。
    ただ気分が乗らないだけだ。
    だが、ぼくの体はベッドに磔にされたように動かない。
    背中には、柔らかいが重い、鉛のような金属がこびりついているみたいだ。

    しばらく何もない天井を眺める。
    ——情けない。
    決して仄暗い感情というわけではない。
    ただ、それは鈍色で、角膜の裏に貼りついたような、嫌な感覚を残す。

    天井も見飽きた頃、ぼくはスマホを拾い上げ、適当にスクロールする。
    遠くで台風が発生したようだ。
    どおりで耳の奥がバタバタと痛むはずだ。
    体の不調も頷ける。

    もう一呼吸置き、皮膚のように張り付いた薄布団を無理矢理に剥がす。
    ぼくは上半身だけおこして、ゆっくりと伸びをする。
    背中の異物は肩甲骨に沿って動くだけで、一向に取れる気配はない。
    冷房を切り、カーテンに手を伸ばす。

    そして、角膜を刺激する光に目を細めながら、窓を開ける。
    胸の中を映すように、空の色も鈍色だ。
    まだ8時だというのに、喧しい蝉の合唱が聞こえ、生暖かい風がぼくの頬を撫でる。
    きっと昨日の夜も熱帯夜だったのだろう。

    そもそも、この夏に入って熱帯夜じゃない日がどれだけあっただろうか。
    最近では超熱帯夜というのもあるらしい。
    そう遠くない内に超熱帯夜2に変身する日も来るかもしれないな。
    そんなくだらないことを考えていると、頬を撫でていた生暖かい風は熱気に変わり、次第に部屋全体に行き渡った。
    ぼくは、熱に追い出されるようにして寝室を出た。

    少しひんやりとした廊下を歩き、洗面所の明かりをつける。
    顔を洗い、タオルで水けをふく。
    鏡に映る自分をぼんやりと眺める。
    起きがけのせいか、焦点が合わない。

    複眼をこすりながらもう一度鏡を睨む。
    そこに映ったのはぼくではなく蝉だった。
    いや、蝉の形をしたぼくだった。

    そうか、ぼくは蝉か。
    あと2週間でこの世を去らないといけないのか。
    顔を洗っている場合ではない。
    しなければならないことはいくらでもある。
    まずはつがいを探さなければ。
    ぼくはベランダから鈍色の空をめがけて飛び立つ。
    そして鉛のような羽を懸命に動かして近くの街路樹へ止まる。
    この木にはたくさんのライバルがいるようだ。
    ぼくは腹の奥にありったけの力を込め、生命の息吹を音に変える。
    背中の鉛を打ち砕くような、けたたましい鳴き声が響いた瞬間——。

    ぼくはベッドから飛び起きた。
    耳元では大音量のスヌーズが鳴っている。
    スマホを見ると、ちょうど8時を迎えようとしていた。
    急いでスーツに着替え、現実に追い出されるようにして玄関を飛び出した。


    ―完?



    すっかり文学色が強くなったワインさんは今日は掌編小説にチャレンジ。
    note最大の文学コミュニティーに参加してみました。

    いやー。
    ワインの要素を入れれなかった……
    余地はあったんですが、わけのわからない話にしようと思うとどうしてもワインのエッセンスが邪魔になる。

    結果、蝉とサラリーマンの話になってしまった。

    ワインに関連させることができればワインエッセイストとしての箔がつきそうだけれども、今回はお預け。
    また挑戦します。


     
     
    J.S.A.ワインエキスパート ワインエッセイストを自称していたら、気づけば童話も作っていた。 大人の飲み物を嗜みながら、子どもの読み物を書いている人🍷 ワイン、食、暮らし、哲学のエッセイとコラム。 ときどき童話と小説。 なんでも面白がって文章にしています。 瀬戸内で何か企み中。

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