
「大学に行った」だけでは、もう賢さを証明できない時代
昔は、
「大学に行った」と聞くだけで、
なんとなく「賢い人なんだな」
と思われる時代があった。
大学そのものが今ほど身近ではなかったからだ。
「大学卒です」
それだけで、高校卒業後も勉強を続け、
受験を突破した人なのだということが、
ある程度伝わった。
だから、
大学名まで細かく確認しなくてもよかった。
ところが、大学が増え、大学進学率が上がり、
インターネットによって大学ごとの偏差値や
評判まで簡単に分かるようになった。
すると、少しずつ状況が変わってきた。
「大学に行ったか」ではなく、
「どこの大学に行ったのか」
「何を学んだのか」
「そこで何を身につけたのか」
というところまで見られるようになったのだ。
つまり、「大卒」という一枚の看板だけでは、
人間の価値を説明しにくくなってきた。
これは、ある意味では
ブランド品と似ているのかもしれない。
昔は「ブランド品を持っている」
というだけで価値が伝わった。
しかし、世の中に広く普及して、
誰でも持てるようになれば、
「ブランド品を持っている」という情報だけでは、
それほど珍しくなくなる。
大学も同じで、
「大学に行くこと」そのものが珍しくなくなれば、
大卒という肩書きの情報量も薄くなっていく。
そして、ここから少し面白い現象が起こる。
高校生が、
「一生懸命勉強して、大学に行ったとしても、
卒業した大学名を人に言うのが恥ずかしい
と思われるのなら、無理に大学へ行く必要が
あるのだろうか」と考えるようになる。
大学に4年間通い、学費も生活費もかける。
それなら、専門学校に行って資格を取ったり、
就職して実務経験を積んだりしたほうが、
自分の将来にとって有利なのではないか。
そういう比較ができるようになった。
昔は、「大学>高卒」
という単純な序列で考えやすかった。
しかし、
これからはそう単純ではなくなるのかもしれない。
「大学卒」というだけではなく、
「何ができるのか」
「何を専門にしているのか」
「どんな経験を積んできたのか」
という部分が重要になる。
そうなると、場合によっては、高卒で20年間
ひとつの仕事を続けてきた人のほうが、
名前を聞いてもよく分からない大学を卒業しただけ
の人より、社会から高く評価されることだってある。
これは「高卒のほうが偉い」という話ではない。
「大卒」という肩書きだけでは、
もう勝負できなくなるという話だ。
そして、もしかするとこれから、
「高卒が大卒を笑う」という、
昔とは逆向きの現象も増えていくのかもしれない。
かつては、
「大学に行けなかった」
ことがコンプレックスになった。
しかし大学が大衆化すると、
「大学に行ったのに、そこなの?」
という見方が生まれる。
つまり、「大学に行ったこと」
そのものが評価されるのではなく、
「なぜ、その大学に行ったのか」
が問われるようになる。
そう考えると、
これからの大学は二極化していくのかもしれない。
「この専門分野を学びたいから、この大学に行く」と明確に言える大学。
医療、薬学、工学、情報、教育、芸術など、
卒業後の専門性につながる大学は、
これからも強いだろう。
一方で、大学そのものを魅力的な
「4年間の生活空間」にしていく大学も出てくる。
図書館、カフェ、食堂、
スポーツ施設、交流スペース、
留学、インターンシップ、起業支援など。
大学を単なる「授業を受ける場所」ではなく、
「4年間を過ごしながら、自分を作っていく場所」
として価値を高めていく。
大学もまた、
生き残りをかけて「大学であること」以外の
メリットを必死に作っているのだと思う。
そして、AIがさらに発達していけば、
この傾向はもっと強くなるのかもしれない。
知識を覚えているだけなら、
AIのほうが圧倒的に速い。
だから、「どこの大学を卒業したのか」
という情報より、
「大学時代に何を経験したのか」
「何ができるようになったのか」
「社会で何を生み出せるのか」
ということのほうが重要になっていく。
そう考えると、これから来るのは
「高卒が大卒をバカにする時代」というより、
「大卒というだけでは、もう威張れない時代」
なのかもしれない。
そして、それは大学にとっても、
人間にとっても、必ずしも悪いことではない。
「とりあえず大学」ではなく、
「自分は何をしたいから、ここへ行く」
と考える人が増えるからだ。
大学の価値が薄くなったのではなく、
「大学」という看板だけでは
価値を説明できなくなった。
これからは、大学も人間も、
「その看板の中に、何があるのか」
を問われる時代になっていくのだと思う。