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加藤弘之

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加藤 弘之
肖像
人物情報
別名 誠之、成之(諱)、弘蔵、土代士(通称)
生誕 (1836-08-05) 1836年8月5日(天保7年6月23日)
但馬国出石郡出石(現・兵庫県豊岡市)
死没 (1916-02-09) 1916年2月9日(79歳没)
東京府東京市(現・東京都)
国籍 日本の旗 日本
学問
研究分野 洋学(ドイツ学)、法学(国法学)、政治学
研究機関 蕃書調所→洋書調所→開成所
学位 文学博士(日本・1888年)
法学博士(日本・1905年)
称号 東京帝国大学名誉教授(1901年)
主要な作品 『国体新論』(1874年)
『人権新説』(1882年)
『強者の権利の競争』(1893年)
学会 帝国学士院
哲学会
国家学会
明六社
署名
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加藤 弘之
生年月日 1836年8月5日
(天保7年6月23日)
出生地 日本・但馬国出石郡出石川島村(現:兵庫県豊岡市)
没年月日 (1916-02-09) 1916年2月9日(79歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本・東京府東京市
出身校 弘道館
前職 武士(幕臣)
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
勲一等旭日大綬章
男爵
配偶者 加藤鈴子
子女 長男:加藤照麿
次男:加藤晴比古
三男:馬渡俊雄
次女:山縣隆子
三女:近藤幸子
六女:古川徳子
七女:榊梅子
八女:俵久子
親族 父:加藤正照
娘婿:山縣伊三郎
娘婿:近藤虎五郎
娘婿:古川武太郎
娘婿:榊保三郎
娘婿:俵國一
嫡孫:加藤成之
外孫:濱尾四郎
外孫:京極高鋭
外孫:古川郁郎
在任期間 1906年12月10日 - 1916年2月9日
天皇 明治天皇
大正天皇
日本の旗 第2代 帝国大学総長
在任期間 1890年5月 - 1896年3月
文部大臣 芳川顕正
大木喬任
河野敏鎌
井上毅
西園寺公望
在任期間 1875年4月25日 - 1875年11月28日
1886年1月11日 - 1890年5月19日
元老院議長 大木喬任
柳原前光
日本の旗 左院一等議官
在任期間 1874年2月13日 - 2月23日
左院議長 空白
選挙区 勅選議員
在任期間 1890年9月30日 - 1906年12月15日
その他の職歴
東京都の旗 麹町区会議長[1]
(1890年1月 - 1892年3月)
東京都の旗 麹町区会議員[2]
(1889年11月 - 1895年11月)
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加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6月23日〉- 1916年〈大正5年〉2月9日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。

外様大名の出石藩藩士の物頭・兵学師範であった加藤正照の子に生まれ、10才で出石藩藩校弘道館で学んだ後、17才で上京し佐久間象山から兵学、19才で大木仲益にオランダ学を学んだが、父が没したため帰省した。済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ[3][4][5]。1865年(元治2年)、29才で再上京し開成所教授並となる。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。その後男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。獨逸学協会会員。

来歴

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若き日の加藤弘之。
  • 1868年(慶応4年) - 1月、目付に任ぜられる。新暦12月12日、政体律令取調御用掛に就任。この年、『立憲政体略』刊行。
  • 1869年(明治2年) - 新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出。
  • 1870年(明治3年) - 洋書進講担当の侍講に任ぜられる。旧暦7月、『真政大意』を著し天賦人権論を紹介。
  • 1872年(明治5年) - ヨハン・カスパル・ブルンチュリ(英語版)の『国家学』を進講(後に『国法汎論』として翻訳出版)。
  • 1873年(明治6年) - 明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。
  • 1874年(明治7年) - 『国体新論』を発表。『日新真事誌』2月3日に、民撰議院設立尚早論を掲載。
  • 1877年(明治10年) - 2月1日、東京開成学校綜理に就任。4月13日、旧東京大学法文理三学部綜理に就任。
  • 1881年(明治14年) - 7月、職制改革により、旧東京大学初代総理に(1887年1月迄)。11月22日、加藤の絶版届により『真政大意』『国体新論』の販売禁止(内務省達)。
  • 1882年(明治15年) - 10月、『人権新説』出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こす。一般的には、この『人権新説』を境に、加藤は自らの思想、態度を変化させたと考えられている。
  • 1886年(明治19年) - 1月11日、元老院議官。
  • 1888年(明治21年) - 日本初の文学博士の一人として学位取得。
  • 1890年(明治23年) - 5月、旧東京大学を改制した帝国大学の第2代総長となる。9月29日、貴族院議員に勅任[7](1906年12月15日迄)。
  • 1893年(明治26年) - 6月、帝国大学総長を辞任。7月、錦鶏間祗候。11月29日、『強者の権利の競争』(ドイツ語にも翻訳され5月、 Der Kampf ums Recht des Stärkeren und seine Entwicklung として出版)では、強権的な国家主義を展開した。
  • 1895年(明治28年) - 7月、宮中顧問官。
  • 1898年(明治31年) - 高等教育会議議長。
  • 1900年(明治33年) - 5月、男爵に叙せられ華族に列する[8]。
  • 1901年(明治33年) - 3月、東京帝国大学名誉教授の称号を授与される[9]。
  • 1902年(明治35年) - 10月19日、早稲田大学開校式で伊藤博文らとともに祝辞を述べる[10]。
  • 1906年(明治39年) - 7月、初代帝国学士院長。12月10日、枢密顧問官。
  • 1907年(明治40年) - 8月28日、『吾国体と基督教』、キリスト教を攻撃し、国体とキリスト教をめぐって論争がおこる。
  • 1916年(大正5年):79歳で死去。遺言により、無宗教で葬儀が行われた。墓所は雑司ヶ谷霊園。

思想

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1861年(文久元年)に執筆された『鄰艸』はわが国で初めて立憲政体(上下分権の政体)の透徹した理解を示し、その強みと必要性を説得的に論じた画期的な著作であり、公表されなかったとは言え、同僚の西周や津田真道に読まれ、大きな影響を与えた。(上下分権とは、「君主万民の上に在りて之を統御すると雖も、確固たる大律(憲法)を設け又公会(議会)と云える者を置きて王権を殺ぐ者を云ふ」) [11]

また、1868年(明治元年)には『立憲政体略』を著わす。これらは人和がなければ兵器があっても外敵を防げず、人和のためには立憲政体(上下同治、君民同治)が必要であるという論旨である。明治初年における政府内で、すでに将来の立憲政体樹立のコンセンサスが形成されていたことは、加藤の多大な貢献による。1872年(明治5年)宮島誠一郎の『立国憲議』、同年左院が正院に提出した『下議院を設くるの議』や1873年、大久保利通の『立憲政体に関する意見書』などは基本的に加藤の論に基づいている。[12]

加藤の思想は終生現実的だった。一方で官僚かつ学者の立場として、政権中枢を担う高官に西欧の学説を紹介する目的で執筆された初期の要約書は、のちに自由民権運動の指導者たちに都合よくつまみ食いされ、あるいは誤読され多くの論争の元となった。

とりわけ維新後しばらくは天賦人権説に拠った啓蒙思想の傾向が強く、1873年(明治6年)には福澤諭吉、森有礼、西周らとともに明六社を結成、啓蒙活動を展開した。しかし加藤は『立憲政体略』『国体新論』で繰り返し天皇主権を主唱しており、加藤のいう天賦の人権とは、主権者としての天皇(「天」)が臣民である平民に認める(「賦」)範囲としての自由権に関することであり、公民権を前提とした平民の平等権については終始慎重な立場であった(国体新論、P.18,22)。加藤の論調は当初は神権主権論(天皇独裁論)や有司専制論を制する目的で執筆されたが、のちに加藤の意図に反して議会開設論争のさいに利用され破綻をきたし、天賦人権(自由権)論を否定し社会進化論に転向することとなった、との批評がある[13]。

加藤のこの社会進化論への転向と民権(公民権)思想への攻撃は、政治的にも学理的にも終生の攻撃の的となる。

加藤は1879年(明治12年)11月には、愛宕下青松寺での講演「天賦人権説ナキノ説并善悪ノ別天然ニアラザルノ説」で、すでに社会進化論の立場から天賦人権説を否定していたが、1881年(明治14年)に海江田信義が国体新論への激烈な批判を展開したことで、この問題は政府部内にも波及した。加藤は文部卿・福岡孝弟に促され、改めて天賦人権論の立場から書かれた旧著『真政大意』と『国体新論』の絶版を宣言するという騒動になっている。

家族・親族

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生家

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出石に現存する生家

兵庫県豊岡市出石には生家があり、敷地と建物は当時のまま残されているが、屋根や外観は改修されている[17]。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著作

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  • 『加藤弘之講論集』 加藤照麿編、金港堂、1891年11月第一・第二 / 敬業社、1899年4月第三・第四
    • 『加藤弘之講演全集』 加藤照麿ほか編、丸善、1900年12月
  • 「加藤弘之篇」(『明治文学全集 3 明治啓蒙思想集』 大久保利謙編、筑摩書房、1967年1月、ISBN 4480103031)
  • 『日本の名著 34 西周 加藤弘之』 植手通有責任編集、中央公論社、1972年1月、ISBN 4124003749 / 中央公論社〈中公バックス〉、1984年7月、ISBN 4124004249
  • 『加藤弘之文書』 上田勝美ほか編、同朋舎出版、1990年8月(全3巻)、ISBN 4810408833, 4810408841, 481040885X
  • 「加藤弘之日記 : 明治十八年一月〜十二月」(『東京大学史紀要』第10号、東京大学史史料室、1992年3月、CRID 1050289455228233088)
著書
訳書

関連項目

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脚注

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  1. ↑ 『麹町区史』 東京市麹町区役所、1935年3月、547頁。
  2. ↑ 前掲東京市麹町区役所、549頁。
  3. ↑ 呉 1925.
  4. ↑ 西田真之, 「フルベッキと明治15年森林法草案」『明治学院大学法学研究』 101(上巻) p.231-246 2016年, ISSN 1349-4074, NCID AA11963574, 明治学院大学法学会。
  5. ↑ 大島一元、「異色の宣教師、フルベッキ」『近代日本の創造史』 5巻 2008年 p.40-42, doi:10.11349/rcmcjs.5.40, 近代日本の創造史懇話会。
  6. ↑ 小川恭一編著 『寛政譜以降 旗本家百科事典 第2巻』 東洋書林、1997年11月、832頁。
  7. ↑ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  8. ↑ 『官報』1900年5月9日「授爵叙任及辞令」。
  9. ↑ 『官報』1901年3月19日「叙任及辞令」。
  10. ↑ 『早稲田大学百五十年史』 四「早稲田大学」の開校とその組織
  11. ↑ 鳥海靖 『日本近代史講義』1988 東京大学出版会26-33、278-290頁
  12. ↑ 鳥海靖 『日本近代史講義』1988 東京大学出版会 44-48頁
  13. ↑ (参考1)武田清子「近代科学攝取の三つの道」(国際基督教大学学報、1960.3)P.30 (参考2)戸田文明「加藤弘之の「転向」」(四天王寺国際仏教大学紀要、2006.12.6)
  14. ↑ 五代友厚 神子畑鉱山(1)五代友厚とその足跡、2022年2月28日
  15. ↑ 綾部家住宅但馬の百科事典、たんしん地域振興基金
  16. ↑ 『生野銀山町物語』生野町中央公民館, 1987、p93
  17. ↑ ひょうごの環境 出石遠望 鰺山峠越えのみち 兵庫県、2024年10月29日閲覧。
  18. ↑ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  19. ↑ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
  20. ↑ 『官報』第7202号「叙任及辞令」1907年7月3日。
  21. 1 2 『官報』第1056号「叙任及辞令」1916年2月10日。
  22. ↑ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
  23. ↑ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  24. ↑ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
  25. ↑ 『官報』第6466号、1905年1月21日、531頁。
  26. ↑ 『官報』第6746号「叙任及辞令」1905年12月23日。
  27. ↑ 『官報』第7272号「授爵叙任及辞令」1907年9月23日。
  28. ↑ 『官報』第251号・付録「辞令」1913年6月2日。p6
  29. ↑ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
  30. ↑ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献

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関連文献

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外部リンク

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公職
先代
樺山資紀
日本の旗 教育調査会総裁
1914年 - 1916年
次代
蜂須賀茂韶
先代
(新設)
日本の旗 教科用図書調査委員会会長
1908年 - 1915年
次代
菊池大麓
先代
浜尾新
日本の旗 高等教育会議議長
1898年 - 1901年
1897年 - 1898年
次代
浜尾新
先代
(新設)
日本の旗 震災予防調査会長
1892年 - 1893年
次代
菊池大麓
先代
渡辺洪基
文官試験局長官
日本の旗 文官高等試験委員長
1890年 - 1893年
次代
末松謙澄
学職
先代
(新設)
哲学会会長
1884年 - 1916年
次代
井上哲次郎
先代
渡辺洪基
日本の旗 帝国大学法科大学長
1890年 - 1893年
次代
浜尾新
先代
渡辺洪基
国家学会評議員長
1890年 - 1893年
次代
渡辺洪基
その他の役職
先代
桂太郎
獨逸学協会学校長
1890年 - 1902年
次代
大村仁太郎
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
加藤(弘之)家初代
1900年 - 1916年
次代
加藤照麿