
雑記|小説『狙いうち』を読む
小説『テトリス』の作中作である『狙いうち』を読んで、感じたことを書きます。
短い作品なので以下に全文を引用しましょう。
『狙いうち』
その奇妙な生き物は、必ず空いた席に座る。みんなが出席しているときは席に空きがないため教室に来ない。だから見ない日がずっと続くこともある。
その奇妙な生き物は、人間のようでもあるけれど、誰とも口を利かないし、ゴーグルと防毒マスクで顔を隠している。フードを目深に被っている。
授業でも発言はしないし先生も指さない。体のサイズが一回り小さい。
時には席がふたつ以上空くこともある。その場合は奇妙な生き物も二匹以上で現れ、それぞれが空いた席に座る。互いに会話などはしない。
あるとき、わたしは学校を休んだ。ふりをした。
その生き物はわたしが休みのときわたしの席に座るのだろうか。それが気になって、時間差で登校することを思いついたのだ。
しんとした廊下をひたひたと歩く。わたしは教室に近づく。そして、後ろの窓からそっと中を覗いた。わたしの席にあの奇妙な生き物はいるだろうか。
ふと背後に気配を感じて振り返ると、すぐ後ろに学年主任のキタガワが立っていた。「悪い子だな」とキタガワは言った。恐怖で足がすくんだ。
わたしはゴーグルと防毒マスクを装着させられ体育館の地下室に放り込まれた。そして、そこで体を一回り小さく圧縮された。
わたしは逃げることも、家族と連絡を取ることも叶わず、ただ誰かが学校を休んだときだけ、その空いた席に座ることが許される。
(了)
私は小説を読むとき、第一に構造の裂け目を探します。第二に、作者が無意識に、つまり意図せず「書かされてしまった」ことを探します。
この作品はどうでしょうか。
世界観の提示からラストの反転まで、隙のない一直線で、綻びはありません。上手く制御されているように見えます。
このような場合、私は一旦、迂回して「物語の磁場」を探します。
「磁場」とは、構造上強い意味が発生し、あるいは集中し、または撹乱している場所のことです。
まずは全体の構成を見てみましょう。
十段ブロックの単純な積み上げです。
一段目 世界観/基本ルールの提示
二段目 属性の定義・外見(人間との差異)
三段目 制約(発言しない・指されない)
四段目 ルールの拡張(複数出現=制度性)
五段目 能動化の宣言(スイッチ)
六段目 逸脱行為(仮説→実験)
七段目 境界侵犯(外から覗く)
八段目 捕獲(制度側からの介入)
九段目 同化(圧縮=存在変換)
十段目 再配置(ルール内部への組み込み)
明確な「起・転・結」の三部構成で、目立った特徴としては、世界観の説明に計四段を費やしていることでしょうか。そのため、かなり頭の重い構成になっています。
この重さがどのような意味を持っているかと言うと、ひとつは世界観やルールの理解を深めるということ。そしてもうひとつは、物語の進行を遅延させるということです。
つまり、ルールを十分に説明することで、読者がこの世界の「型」を受け入れ、直後の急転においても「型」を受け入れたままラストに行くことが出来る。そういう効果が期待できる配置になっています。
ここにひとつ目の大きな「磁場」があることを、まずは押さえておきましょう。
先に進みます。
次に気になるのは、八段目「キタガワ」という固有名を持った人物の登場、そして「恐怖で足がすくんだ」という記述の雑さです。
前者は唯一の発話者として現れます。後者は、説明的というより、無造作にポンと置いてある感じでしょうか。これらに強い違和感を感じます。
ただでさえ無味乾燥な文体的な特徴の中で、名前を持った人間の登場と恐怖の感情とが、殊更に温度の低い表現に落ちている。
つまり「執行者の存在や、それとの遭遇によって生じる恐怖」は物語を前進させるための装置として配置されているに過ぎません。
にも関わらず「キタガワ」なる固有名を与えられている。その過剰さが違和感を生むのでしょう。ここにもひとつの「磁場」がある、と言えます。
続いて九段目「圧縮」に目を移してみましょう。
ここで起きていることは、この作品における唯一の本質的な不合理です。
それ以外のことは現実的に(小説内のリアリティーとして)起き得るとしても、この「圧縮」だけは説明が付きません。
ここに最大の「磁場」があります。
つまり読解の方法としては、この「圧縮」にフォーカスすることになります。それが典型的な構造読みとなるはずです。
しかし私は別の読みを採用します。
普段はまあ、あまりやりません(笑)
テキスト外の誘惑に身を委ねるのです。
この作品の内部では語られていない領域に想像の羽を広げてみましょう。
「捕獲」され「圧縮」された後、この世界の外では何が起きているのか。いないのか。
十段目に「家族と連絡を取ること」も出来ないと
あります。これを「行方不明」の状態と解するならば、この学校ではそれが既に何度か起きていると推定できます。この異常事態は、如何にして放置され正当化されているのでしょう。
無論、合理化の線がない訳ではありません。例えば、現実には誰も失われてはおらず、分離され分割された別々の「わたし」が、それぞれの日常を生きているのかもしれない。
ひとりの「わたし」は従来通り家族と共に、分離されたもうひとりの「わたし」は「圧縮」され地下室に閉じ込められている。
そのようなことはテキストのどこを探しても書いてありませんので、ある意味「不当な」解釈でしょう。
しかし面白い。
思えば、小説の余白とは、このような空想へと読者を誘うための「空地」に他なりません。
あるいはもっと出鱈目に、この世界では、人はしばしば(定期的に)行方不明となり、予告なく帰還する、などと考えることも出来るでしょう。
こうしてみると、この小説が、予め「外部の不在」を前提とした小説であることにも気付かされます。
案外と『変身』『不思議の国のアリス』『一九八四年』や映画『CUBE』などと近いところにあり、これらの作品を好む読者との相性も良いのではないかと想像するのですが、如何でしょうか。
以上で私の読みは終わりです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
(おわり)

