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哭きの禿2026:一%上がってもデッドクロス……四二七六点の底値幻想

    朝方三九六二円の地獄から奇跡の反発。しかし最後にカクリと落ちた。その裏でOpenAIは二二・五兆円の値引き、空売り筋は九〇〇〇億円の含み益。そして週明け、上がっても死神がやって来る

    文・武智倫太郎(週刊バブルウォッチ編集長)

    底値を拾ったつもりの金曜日

    十月二十三日、金曜日。

    ソフトバンクグループ(SBG)の株価は、朝から実に景気の悪い始まり方をした。

    前日の終値は四三〇五円。その前日には六・八六%も下落しており、すでに多くの投資家が、そろそろ底値ではないかと期待し始めていたところである。

    ところが、午前九時十二分に四〇〇〇円で寄り付くと、わずか四分後の九時十六分には三九六二円まで売り込まれた。前日終値からの下落率は約八%。とうとう四〇〇〇円の大台まで割り込んでしまったのである。

    六月二日の年初来高値は九〇七四円だったから、三九六二円という株価は、高値から五六%以上も下落した水準に相当する。

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    ソフトバンクグループ(株)【9984.T】

    それも無理はない。前日の米国市場ではNASDAQ総合指数が二・六%下落し、フィラデルフィア半導体指数も六・七%急落している。ソフトバンクグループの虎の子であるArmも大幅安となり、AI関連銘柄に対する売り圧力が一段と強まっていた。

    人工知能の未来が輝けば輝くほど、なぜか株価の方は暗くなる。これが最近のAI相場の何とも奇妙なところである。

    ところが、ここからソフトバンクグループの株価が猛烈に切り返し始めた。

    四〇〇〇円を回復し、四一〇〇円を超え、四二〇〇円台へ戻っていく。朝方の安値で悲鳴を上げていた投資家にとっては、まさに地獄に仏である。午前九時十六分に三九六二円で買えた人なら、大引けまでに大きな含み益が生まれる可能性が見えてきた。

    そして午後三時二十二分。

    株価は四三二〇円まで上昇した。

    朝の安値から三五八円、率にして約九%の反発である。しかも前日終値の四三〇五円まで突破して、一時はプラス圏に浮上したのだから、これを見た投資家が『いよいよ底打ちだ』と考えても不思議ではない。

    ここまでの値動きだけを眺めれば、まるで絵に描いたような底打ち反転である。

    朝方のパニック売りをこなし、四〇〇〇円割れで買いを集め、午後には前日終値まで奪還した。ローソク足で見れば、始値四〇〇〇円に対して終値は四二七六円だから、二七六円幅の大きな陽線となっている。

    ちなみに、こういう場面では『長い下ヒゲ陽線が出現した』などと解説したくなるが、実際にローソク足を計算してみると、下ヒゲは三八円しかない。長かったのは下ヒゲよりも陽線の実体の方であり、朝方の安値から終値まで三一四円も戻したという事実こそが、この日の反発の大きさを物語っている。

    株式投資の入門書なら、このあたりで『大陽線は反転の兆し』などと説明するところだろう。

    ところが、そう簡単には終わらなかった。

    大引け直前に四三二〇円まで上昇した株価が、最後にカクリと落ちたのである。

    終値は四二七六円。前日比二九円安、〇・六七%の下落だった。

    わずか八分ほど前に付けていた高値から、四四円も押し戻されたことになる。大引けの板寄せを含む終盤の値動きであり、この四四円だけで特定の大口投資家が売り抜けたなどと断定することはできない。

    それでも、何とも嫌な引け味である。

    朝方の暴落から立ち直り、ようやく前日の終値を超えたと思ったら、最後の最後でまたマイナス圏に引き戻されてしまった。

    『助かった……』と思った瞬間に、誰かが背中を軽く押したような相場だった。

    それが金曜日の午後三時半なのである。

    四千万株近い信用買い残が見ている底値幻想

    ここで、一つ厄介な問題がある。

    今日の値動きは、買い方にも売り方にも、それぞれ都合よく解釈できてしまうのだ。

    買い方から見れば、三九六二円という安値から三〇〇円以上も戻したのだから、底値で大口の買いが入ったように見える。四〇〇〇円割れで投げ売りした投資家の株を、誰かが喜んで拾ったのかもしれない。

    一方、売り方から見れば、四三二〇円まで戻しても前日の終値を維持できず、結局はマイナスで引けたということになる。

    『底値で買えた』

    『まだ戻り売りが出ている』

    どちらの説明にも、それなりの説得力がある。

    もっとも、信用買いを抱えている投資家にとっては、そろそろ底値だと思いたくなる事情があるだろう。

    十月十六日時点のSBGの信用買い残は三九五六万一〇〇〇株、信用倍率は一一・三七倍に達していた。信用買い残は前週から約三六三万株も増加しており、株価が下落している最中にも信用買いで勝負を続ける投資家が増えていたことになる。

    信用買い残のすべてが含み損になっているわけではないが、六月の高値から半値以下にまで下落した相場である。高値掴みした投資家の中には、相当な評価損を抱えている者もいるはずだ。

    しかも、信用取引では『いつか戻る』という希望だけで勝負を続けられるとは限らない。保証金が不足すれば追証が発生し、資金を用意できなければ、本人の意思とは関係なく建玉を処分される可能性がある。

    だから、今日のように朝方の暴落から九%も反発すると、つい期待してしまうのである。

    『ここが底や……』

    『ようやく流れが変わった……』

    『月曜日から反撃開始や……』

    しかし、ここで週刊バブルウォッチの愛読者の皆様には、金曜日のSBG株だけでなく、前日の米国市場で起きていたことにも注目していただきたい。

    日本の個人投資家が四〇〇〇円割れで『いよいよ底値や』と喜んでいる間に、アメリカではまったく別の連中が、AIバブルの下落から巨額の利益を得ていたのである。

    AIデータセンター株の空売り筋、九〇〇〇億円の含み益

    十月二十二日、ロイターは、AIデータセンター関連企業の株価下落によって、空売り投資家が十月だけで約六〇億ドルの含み益を得ていると報じた。

    一ドル一五〇円で計算すれば、約九〇〇〇億円である。

    空売りというのは、株式を借りて市場で売り、株価が下がったところで買い戻すことによって、その差額を利益にする取引である。信用買いとは逆に、株価が下落すれば利益が増える仕組みになっている。

    分析会社ORTEXによると、コアウィーブ(CoreWeave : CRWV)の空売り筋は十月だけで約一七億ドル、ネビウス(Nebius Group:NBIS)では約二九億四〇〇〇万ドルの含み益を得たという。

    コアウィーブの株価は十月に約三〇%下落し、浮動株に対する空売り残高の比率は二三・七%に達している。ネビウスでも同じ比率は約二〇%に上昇している。

    ただし、この六〇億ドルは確定利益ではない。あくまでも取材時点での評価益であり、株価が反発すれば減少する。また、ネビウスの空売り筋は年初来では約三三億三〇〇〇万ドルの含み損を抱えているとされ、空売りすれば誰でも儲かるような相場ではない。

    それでも、実に皮肉な構図である。

    日本ではSBG株を信用買いした個人投資家が、株価が半値になったところで底値を探している。

    一方、アメリカではAIデータセンター関連株を空売りしていた投資家が、今月だけで九〇〇〇億円近い含み益を得ているという。

    同じAIバブルを見ていながら、片方は『いつ反発するのか』と祈り、もう片方は『まだ下がるのか』と期待しているのである。

    麻雀なら、同じ卓を囲んでいるのに、片方は役満の聴牌を喜び、もう片方はその当たり牌が山に残っていることを知っているようなものだ。

    しかも、この空売り筋が問題にしているのは、AIの性能ではない。

    データセンターを建設するために借りた金を、実際に稼いだ現金で返せるのかという、実に古典的な問題なのである。

    OpenAIの値札が、一五〇〇億ドル安くなった

    ここで、さらに興味深いニュースが飛び込んできた。

    十月二十二日、英Financial Timesは、OpenAIが進める最大三〇〇億ドルの新規資金調達について、想定企業評価額を従来の一兆四〇〇〇億ドルから、一兆二五〇〇億ドルへ引き下げたと報じた。

    差額は一五〇〇億ドル。

    一ドル一五〇円で換算すると、実に二二兆五〇〇〇億円である。

    数字が大きすぎて実感が湧かないかもしれないが、企業の値札を二二兆五〇〇〇億円も下げたという話である。

    もっとも、これは資金調達交渉における想定評価額の修正であって、実際の市場取引で二二兆五〇〇〇億円の資産価値が消滅したという意味ではない。SBGが同額の投資損失を計上したという話でもなく、最終的な資金調達条件はまだ確定していない。

    それでも、一兆四〇〇〇億ドルという評価額を提示していた企業が、投資家の反応を踏まえて一兆二五〇〇億ドルまで条件を修正したという報道は、これまでのAI投資熱を考えると見逃せない。

    OpenAIは依然として非常に高い企業評価額を提示しており、その成長期待が消滅したわけではない。しかし、少なくとも資金を出す側が、提示された値段を何でも受け入れる状況ではなくなってきた可能性がある。

    これを『哭きの禿』の卓に置き換えると、なかなか味わい深い光景になる。

    禿は〖OpenAI〗という發の牌を握りしめている。

    『これが一兆四〇〇〇億ドルの發や……。この牌が育てば、まだまだ勝てる……』

    ところが、対面の金貸しが、申し訳なさそうに計算書を差し出してきた。

    『孫はん、えらい申し訳おまへんけど、その發、ちょっと値札を直させてもらいますわ』

    『何やて?』

    『一兆四〇〇〇億ドルいう話でしたけど、今度は一兆二五〇〇億ドルでお願いしたいんですわ』

    『一五〇〇億ドルも値引きするんか!』

    『まあ、そう怒らんといておくんなはれ。何しろ今は買い手も慎重になっとりましてな。売り手がどんだけ高い値段を付けても、買うてくれる人がおらんかったら商売になりまへんさかい』

    もちろん、これは架空の会話であり、実際の交渉に登場した発言ではない。

    しかし、金融市場の仕組みとしては、まさにこの通りなのである。

    自分がいくらの価値があると信じているかということと、第三者が実際にいくら出資してくれるかということは、まったく別の問題なのだ。

    そして、SBGのようにOpenAIへ巨額出資している企業にとって、未上場企業の評価額をめぐる交渉は、今後の保有資産価値や追加投資の判断を考えるうえでも無視できない。

    MetaまでCDS一一四・七九bp――金貸しの視線はAI全体へ

    しかも、今回の信用不安は、コアウィーブのようなネオクラウド企業だけに限られているわけではない。

    十月二十二日、ロイターは、Metaの五年物CDSスプレッドが一一四・七九ベーシスポイントに達し、過去最高を記録したと報じた。

    CDSとは、企業などが債務不履行に陥った場合の損失を移転する信用デリバティブの一種である。スプレッドが拡大することは、一般に市場がその信用リスクに対して、より高い対価を要求するようになったことを示している。

    114.79bpは年率換算で約1.148%に相当するスプレッドだが、これをそのままMetaの倒産確率と解釈してはいけない。

    Metaは巨大な広告事業を持ち、十分な収益基盤を維持している企業である。今回のCDS上昇だけで、経営危機だと断定するのは明らかに行き過ぎだろう。

    それでも、同社が発表した二〇二六年の設備投資計画は、一三五〇億ドルから一四五〇億ドルという途方もない規模に達している。

    しかも、二〇二六年第3四半期には、二一億二〇〇〇万ドルのフリーキャッシュフロー赤字を計上した。

    売上高が急成長していても、AI向けの設備投資がそれ以上の速度で現金を必要とする場合には、フリーキャッシュフローが悪化することがある。Metaの場合、その現象が実際の決算数字として表れたのである。

    そして、こうしたニュースを眺めていると、前に登場したシカゴの金貸し、マージン・コールマンの顔が浮かんでくる。

    『孫はん、最近はえらい景気のええ話が多うおますなあ。OpenAIは一兆ドル超、Metaは年間一四五〇億ドルの設備投資。皆さん、ずいぶん大きなお金を動かしてはります』

    『AIはこれから世界中の産業を変えるんだ!』

    『そら結構ですな。ところで、設備投資に使うたお金は、何年で戻ってきますの?』

    『将来の需要は指数関数的に増える!』

    『ほう。ほな、利息も指数関数的に減ってくれたらええんですけどなあ』

    金融市場がAIへの期待を放棄したとは、まだ言えない。しかし、将来の成長率を語るだけでなく、設備投資の回収期間や借入金の条件を確認し始めたことは、以前と異なる変化として注目してよいだろう。

    三五億ドルを借りて、さらにGPUを買い続ける

    さらに十月二十二日には、AIクラウド企業のネビウスが、シティグループから三五億ドルの融資枠を確保したと正式に発表している。

    約五二五〇億円である。

    こちらもなかなか興味深い話だ。

    融資期間は三六四日。初期の金利条件はTerm SOFRに二・七五ポイントを加えた変動金利で、適用スプレッドは条件に応じて最大三・五〇ポイントまで上昇する。

    つまり、二・七五%という固定金利で借りられるわけではない。SOFRという基準金利に上乗せする方式であり、基準金利が変われば資金調達コストも変動する。

    ネビウスは、この資金をデータセンターの開発やGPUの調達などに使用すると説明している。

    同社は四〇〇億ドルを超える長期顧客契約を資金調達の裏付けの一つとして挙げているが、その契約額すべてが現金として手元に存在するわけではない。また、三五億ドルの融資枠を確保したことは、同額の借入金を直ちに全額引き出したという意味でもない。

    この融資が確保されたこと自体は、同社にとって資金調達手段が増えたというプラス材料である。ただし、三六四日という期間を考えれば、来年以降の資金調達や借り換え条件も、当然ながら重要になってくる。

    ここに現在のAIデータセンター投資の特徴が見えてくる。

    巨額の長期顧客契約がある。

    その契約に基づいて、さらに計算能力を提供する設備を建設する。

    設備を建設するために、また資金を調達する。

    そして、設備が完成して十分な収益を生むまでの間にも、資金調達コストは発生する。

    この循環が順調に回っている限り、事業は成長できる。しかし、電力供給や設備建設が遅れたり、GPUの収益性が想定より低下したりすれば、収益と資金支出の時間差が大きくなる。

    マージン・コールマンなら、ここで間違いなく尋ねるだろう。

    『孫はん、GPUは何年で元が取れるんでっか?』

    『技術革新によって計算需要は飛躍的に増える!』

    『そら結構な話です。ほな、三六四日後にも同じ条件で借りられますの?』

    『…………』

    『借り換えいうんは、次の金貸しが貸してくれるから成立するんでっせ。次の金貸しが何%を要求してくるかまでは、今の契約書には書いておまへんのや』

    さて、ここまでの話を整理すると、今回のAI関連企業の売り相場は、単純に半導体株が高すぎたという話だけでは済まなくなっている。

    OpenAIでは、新規出資に際して想定評価額を修正したという報道が出た。Metaでは、設備投資の拡大に伴って信用リスク指標が上昇した。AIデータセンター関連株では空売り筋が巨額の含み益を得る一方、ネビウスは新たな融資枠を確保して設備投資を続けようとしている。

    株式市場、信用市場、設備投資、借り換え。

    それぞれ異なる市場で起きている出来事だが、いずれもAIに対する将来期待を、どのような資金調達構造で現実の収益へ変えるのかという問題につながっている。

    そして、このような状況で迎えるのが、十月二十六日、月曜日なのである。

    二十五日線と七十五日線――死神の待ち牌

    ここで、十月二十三日の終値を使って、二十五日移動平均線と七十五日移動平均線を計算してみよう。

    二十五日移動平均線は五七三〇円。

    七十五日移動平均線は五六七六・三六円。

    その差は、わずか五三・六四円しかない。

    二十五日線が七十五日線を下回ると、一般にデッドクロスと呼ばれる。株価の中期的な上昇基調が弱まり、下降方向へ転じたことを示すテクニカル指標の一つである。

    実はソフトバンクグループでは、十月五日に二十五日線が七十五日線を上抜けるゴールデンクロスが発生したばかりだった。

    それから、わずか三週間。

    もう反対方向のデッドクロスが目前に迫っているのである。

    『そんなもの、月曜日に株価が上がれば回避できるだろう』

    そう思った方もいるかもしれない。

    では、実際に計算してみよう。

    十月二十六日、月曜日。

    仮にSBG株が金曜日の四二七六円から一%上昇したとする。終値は約四三一九円になる。

    普通なら、一%も上昇すれば少しくらい安心したくなるところだろう。

    ところが、この終値を使って移動平均線を計算すると、二十五日線は約五六五一・五九円、七十五日線は約五六五一・六九円となる。

    一%上昇しても、計算上は二十五日線が七十五日線を下回ってしまうのである。

    差はわずか〇・一円程度なので、チャートの丸め方によってはほとんど重なって見えるだろう。それでも、単純移動平均を終値から計算した場合のデッドクロス成立ラインは四三二二・五円。つまり月曜日に四三二二円以下で引ければ、二十五日線は七十五日線を下回る。

    金曜日の終値は四二七六円だから、四十六円程度上がっても届かない。

    『下がったらデッドクロス』という話ではない。

    上がってもデッドクロスなのである。

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    SBGデッドクロス目前

    ここまでくると、もはや株価を下げるために悪材料を探してくる必要すらない。

    OpenAIが評価額の目標を修正しようが、MetaのCDSが上昇しようが、ネオクラウドの空売り筋が巨額の含み益を得ようが、あるいは来週月曜日にAI業界から何か明るいニュースが飛び込んでこようが、一定の終値条件を満たせば、デッドクロスは機械的に成立してしまう。

    もちろん、デッドクロスが株価を下落させる原因になるとは限らない。移動平均線は過去の株価を反映した遅行指標でもある。

    だが、この局面において重要なのは、過去の高い株価が計算から抜けていく速度に対して、現在の株価があまりにも低いという事実である。

    三%上がっても、翌日には逃げられない

    では、月曜日に三%上昇したらどうだろう。

    四二七六円の三%高は、約四四〇四円である。

    ここまで上昇すれば、月曜日のデッドクロスは一応回避できる。計算上、二十五日線は約五六五五・〇一円、七十五日線は約五六五二・八三円となり、まだ二十五日線が約二・一八円だけ上に残るからだ。

    禿も、ようやく笑顔を取り戻すかもしれない。

    『見たか……三%も上がったやないか。死神なんぞ来えへんわ……』

    ところが、翌二十七日、火曜日。

    月曜日の四四〇四円から二%下落したとしよう。株価は約四三一六円となる。

    これを再び計算すると、二十五日線は約五五八〇・三四円、七十五日線は約五六三〇・六六円。

    今度は二十五日線が七十五日線を約五〇円も下回る。

    立派なデッドクロスである。

    しかも、ここで驚くべきことに気づく。

    金曜日の終値は四二七六円。月曜日に三%上昇し、火曜日に二%下落した場合、火曜日の株価は約四三一六円となり、金曜日よりまだ約〇・九四%高いのである。

    金曜日より株価が上がっているのに、デッドクロスが成立する。

    これが移動平均線の恐ろしいところである。

    株価の下落を知らせるために、死神が月曜日の朝から新しい悪材料を用意する必要すらない。すでに過去数週間にわたって積み上げられた下落の記録が、時間の経過とともに移動平均線へ反映されていくのだ。

    ここまで来ると、チャートを見ている個人投資家の方が気の毒になってくる。

    『今日は上がった』

    『昨日より高い』

    『先週の金曜日よりも高い』

    それでも、画面にはデッドクロスという不吉な印が表示されるかもしれないのである。

    ただし、この印そのものが翌日の株価を下落させるわけではない。デッドクロスは、すでに起きた値動きを遅れて確認する指標でもある。

    重要なのは、そこに至るまでの下落が、短期間の一時的な調整だけでは片付けられなくなっていることだ。

    そう、デッドクロスとは……

    ――この局面、禿にはまだ流れが戻っていなかった。

    朝方、三九六二点まで追い込まれたところから、自力で四三二〇点まで戻した。

    見事な反撃だった。

    四〇〇〇点割れで投げ売りした他家の牌を拾い、危険牌を切り抜け、ようやく反撃の形が見えてきたところである。

    しかし、大引けで四二七六点まで押し戻された。

    その時、禿はまだ知らなかった。

    卓の向こうには、もう一人の親が座っていたのである。

    二十五日移動平均線。

    七十五日移動平均線。

    二つの移動平均線。

    一見すると何の変哲もない数字だが、その裏には過去二十五営業日、七十五営業日の終値が一枚ずつ積み重なっている。

    移動平均線というのは、毎日新しい終値が入る代わりに、古い終値が一枚ずつ抜けていく仕組みである。

    来週月曜日の二十五日線では、九月十五日の終値六二七九円が計算対象から外れ、代わりに月曜日の新しい終値が入る。

    七十五日線では、七月三日の六一六九円が抜ける。

    火曜日には、二十五日線から九月十六日の六一八三円、七十五日線から七月六日の五九七九円が、それぞれ抜けていく。

    つまり、二十五日線は過去の高い終値を次々に捨て、現在の低い株価を新しく抱え込んでいく。七十五日線も下がるが、その動きは二十五日線より緩やかである。

    だから、現在の株価が少し上昇した程度では、二十五日線の急降下を止められない。

    禿は二枚の牌を見つめた。

    『おかしい……今日は戻したはずや……』

    親は答えなかった。

    『月曜日に三%上げたら、助かるんやろ……?』

    親は無言のまま、火曜日の計算書を差し出した。

    そこには、二十五日線五五八〇円、七十五日線五六三一円という数字が並んでいた。

    『……何や、これは』

    ――デッドクロスとは、死神が突然現れる現象ではない。

    すでに背後まで近づいていた死神の影が、ようやくチャートに映る現象なのである。

    六月には九〇七四点あった。

    十月二十日には四五二〇点で半値を割り、二十三日には一時三九六二点まで追い詰められた。

    それでも禿は、ArmとOpenAIの役満手を捨てていない。

    株価が戻ればNAVが増える。保有資産の評価が改善すれば、借入余力が拡大する可能性もある。OpenAIの評価額が上がれば、また次の資金調達が可能になるかもしれない。

    だから禿は、まだ勝負を続ける。

    『四二七六点……まだ十分に戦えるやろ……』

    親は牌を一枚切った。

    DEAD CROSS。

    禿はその牌を見つめた。

    『……もう来たんか?』

    親は、ようやく口を開いた。

    『いや、まだや。月曜日の終値を待っとる』

    ここが恐ろしい。

    市場には、もう一度大暴落する必要さえないのである。

    一%上がっても、デッドクロス。

    三%上がっても、翌日に少し押し戻されればデッドクロス。

    その一方で、AIデータセンターへの巨額投資は続いている。ネビウスは新たな融資枠を確保し、Metaは年間一四五〇億ドルに達する可能性のある設備投資計画を掲げ、OpenAIは一兆ドルを超える企業評価額で新たな資金調達を進めている。

    そして、株価が下落すれば空売り筋が利益を得る一方、高値で信用買いした投資家は追証の心配をしなければならなくなる。

    同じAI市場に、成長を信じて巨額投資を続ける者、将来の収益性を疑って株を売る者、借入金に対する利息を受け取る者、そして株価が底を打つことを祈る者がいる。

    それぞれが異なる時間軸で、異なる数字を見ているのである。

    もちろん、デッドクロスが成立したからといって、その後も株価が必ず下がるわけではない。むしろ大きな下落の後には、急激な買い戻しが起きることもある。今回のように空売り残高が積み上がった市場では、想定外の好材料によって買い戻しが集中する可能性もある。

    しかし、金曜日の四二七六円を見て『底値を確認した』と安心している投資家がいるなら、少なくとも週明けのチャートは確認しておいた方がよいだろう。

    今日のような急反発は、底値形成の第一歩かもしれない。あるいは、さらに深い下落へ向かう途中の、一時的な踊り場かもしれない。

    第一の底、第二の底、第三の底。

    バンジージャンプなら、通常は一番下まで落ちた後、ゴムの反発で上へ戻ってくる。しかし、株式市場のバンジージャンプでは、最初の底だと思ったところから、もう一段下へ落ちていくことがある。

    しかも、どこが本当の底なのかは、落下している最中には誰にも分からない。

    ここで禿が、最後の勝負に出た。

    『リーチや……。次こそ自摸る。OpenAIが戻れば、Armも戻る。まだ役満はある……』

    親は微動だにしなかった。

    禿が待っているのは、OpenAIとArmの反発。

    だが、親が待っているのは、月曜日の終値である。

    禿には、どの牌が山に残っているのか分からない。

    しかし、親には一つだけ、すでに分かっていることがあった。

    月曜日に四三二二円以下で引ければ、デッドクロスが成立する。

    その数字は、OpenAIの評価額にも、MetaのCDSにも、GPUの残価にも左右されない。

    過去の終値と、月曜日に確定する新しい終値だけで決まる。

    金曜日の最後にカクリと落ちた四四円。

    それは単なる大引けの値動きかもしれない。

    しかし、週明けのデッドクロスを目前にしたこの局面では、何とも嫌な余韻を残した。

    禿は最後まで、役満の夢を見ていた。

    そして親は、まだロンとも言っていない。

    底値は誰にも分からない。だが、デッドクロスの計算は、もう終わっている。

    参考資料

    ※本記事の移動平均線は、2026年10月23日までの終値を使用した単純移動平均による試算です。10月26日以降の数値は仮定した株価を使用したシナリオ計算であり、実際の株価やデッドクロスの成立を保証するものではありません。企業評価額の交渉報道、CDSスプレッド、融資枠、空売りの含み益はそれぞれ性質が異なり、直接比較したり合算したりすることはできません。作中の麻雀表現と架空の会話は金融風刺です。

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