
「空いたままの席」|喫茶店|地図にない灯り

夕暮れの商店街に、
オレンジ色の光が差し込んでいた。
久しぶりに訪れた喫茶店は、
昔と何も変わっていなかった。
入り口のベルの音も、コーヒー豆を挽く香りも、
窓際の木のテーブルも。
変わったことといえば、向かい側の席に、
誰も座っていないことくらいだ。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
カウンターの向こうから、店員さんが顔を上げた。
私は少し驚いて、それから笑った。
「覚えていてくれたんですか?」
「ええ。いつもおふたりで、
楽しそうにお話しされていましたから」
店員さんは、懐かしそうに目を細めた。
「今日はおひとりなんですね」
そのひと言に、
私は返事をするのを忘れてしまった。
そうだった。
いつも、ふたりだった。
仕事の愚痴を言い合った日。
どうでもいい話で、
コーヒーが冷めるまで笑い続けた日。
ショーケースのケーキを前に、
どれにするか決められず、
結局ふたりで違うものを頼んで半分こした日。
あの人は、私が何かを悩んでいると、
決まってこう言った。
「とりあえず、ケーキ食べようよ」
悩みの答えなんて、すぐには出なかった。
でも、不思議とケーキを食べ終わるころには、
少しだけ気持ちが軽くなっていた。
あの人は、そういう人だった。
「ブレンドコーヒーをお願いします」
私はいつもの席に座った。
しばらくして運ばれてきたコーヒーから、
白い湯気が立ち上る。
ひと口飲むと、懐かしい苦みが広がった。
向かい側の席に目を向ける。
そこには、もう誰もいない。
あの人とは、別々の道を歩くことになった。
大げんかをしたわけでも、
嫌いになったわけでもない。
ただ、忙しくなって、連絡が少しずつ減って。
いつかまた会おうね。
その約束だけが、宙に浮いたままになっていた。
最後に会った日、
あの人はいつものように笑っていた。
「またね」
私は、その言葉を疑いもしなかった。
だから今でも、ときどき思う。
あの日、もう少しだけ長く話していたら。
帰り際に、もう一度振り返っていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
カップを置くと、小さな音がした。
窓の外では、商店街の明かりがひとつ、
またひとつと灯り始めていた。
「……あの」
私はカウンターの店員さんに声をかけた。
「このお店、ケーキの種類が増えましたね」
店員さんは、ぱっと笑顔になった。
「そうなんですよ。新しいものも入ったんです。
よかったら、見ていかれますか?」
私は席を立って、ショーケースの前に移動した。
いちごのショートケーキ。
チョコレートケーキ。
季節の果物がたっぷりのったタルト。
どれもおいしそうだった。
昔なら、私はきっと、あの人に相談していた。
「どれにする?」
「こっちもおいしそう!」
「じゃあ、半分こしようよ」
そんな声が、今にも聞こえてきそうだった。
私は少しだけ笑った。
「今日は、このタルトにします」
席に戻ると、店員さんが新しいお皿を運んできた。

フォークを入れると、サクッと小さな音がした。
ひと口食べる。
甘酸っぱい果物の味が、口いっぱいに広がった。
おいしい。
思わず、そうつぶやいた。
誰かに伝えたくなるようなおいしさだった。
でも今日は、
その言葉を自分の中にしまっておいた。
あの人がいなくなったことは、
きっと、これからも寂しい。
あの席が空いていることに、
慣れない日もあるだろう。
それでも。
楽しかった時間まで、なくなったわけじゃない。
あの人と笑い合ったことも、
励ましてもらったことも、
ケーキを半分こしたことも。
全部、今の私の中に残っている。
コーヒーを飲み干し、
最後のひと口のタルトを味わった。
窓の外は、
すっかり夕暮れから夜へと変わっていた。
私はコートを手に取り、席を立った。
「ごちそうさまでした。また来ますね」
「お待ちしています」
入り口のベルが、軽やかに鳴った。
外へ出ると、少し冷たい風が頬をなでた。
私は商店街の明かりを見上げ、
それから歩き出した。
今度は、別のケーキも食べてみよう。
いつか誰かと、
このお店に来るのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、
私は少しだけ足取りを軽くした。
空いたままの席は、そこにある。
けれど、
私の明日まで空っぽになったわけじゃない。
#地図にない灯り

今日は、雪綴ゆきさんの、こちらの企画で
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