
【掌編改訂】 月夜のベンチで/あの“やらかし親子”が三度目の笑撃/シロクマ文芸部
月を見ることが沈黙を招くとは─
娘春海はテーブルを人差し指でトントンと叩く。
「ベンチに座るのはいいでしょう」
「デートで立ち話もなんだからな」
父寅男は口をへの字にして屁理屈をつく。
「なんか失礼なこと言ったんじゃないの」
「神に誓って言ってない」
「まさか月がどうのこうのとか」
「そりゃおまえ、月が綺麗ですねぐらい言うだろ」
春海が思いっきりお茶を吹き飛ばした。
「きったねえな、なんだよ。なにがおかしいんだよ」
「いくらなんでもストレートすぎるし、まだ早すぎるでしょ」
数日前、寅男はマッチングアプリ・銀の出会いで知り合った女性とデートをした。LINEで何度かやり取りはしたものの、デートとなると亡き妻と東山動物園でボートに乗って以来、何十年もしていないので、今時の恋の手ほどきを春海に受けていた。寅男はその報告をしているのだが、どうも歯切れがよくない。
「相手の人、何て名前?」
「なんでおまえに教えなきゃいけないんだよ」
「面倒臭いでしょうよ、相手の人、相手の人って言ってたら」
「また言うだろ、公平とやらに」
「言わないわよ、とやらにって…仮にも義理の息子よ」
「瑠璃子さん」
「あら、名前で呼びあってたの。じゃあお父さんのことはなんて」
「もういいだろ」
「言うまで聞くよ」
「トラくん」
再び、春海がお茶を吹き出した。
「早くお茶を飲んじまえって、ドリフ連発かよ」
ごめん、ごめんといいながら春海が寅男の顔を拭く。
「やめろ雑巾は」
「それもう男はつらいよだわ」
「だから言いたくなかったんだ」
「あのさ、瑠璃子さんだっけ、本好きなんだよね」
「はい、そうです」
「夏目漱石とかの文学作品が」
「ナツメ──そういやあの猫元気か」
二年程前、寅男は春海が拾ってきた仔猫を“ナツメ”と命名した。
孫が産まれてからは春海の同僚に引き取られていった。
「それ知っててつけたんでしょ」
「何を」
「だから夏目漱石を」
「いや、おれ夏目雅子のファンだったからさ」
「そっちか。猫の名前にしちゃ大女優に失礼だわ」
なぜあの状況で夏目雅子が浮かんだのかは、
きっと本人もわからないだろう。
「そのナツメと夏目漱石と夏目雅子がどう関係してるんだ」
「少なくとも猫と女優は瑠璃子さんには関係してないわね」
あの時、春海は寅男が猫をナツメと命名したのを、てっきり夏目漱石の名作を知っているものと思っていた。それをふまえて"吾輩はナツメである"と言ったつもりだったが、寅男が聞いていなかったというより、親子でナツメ違いをしていたのだった。
──ということはあの有名な逸話を知らなかったってこと?
春海は寅男がそれを口にした場面を妄想すると、会ってもいない瑠璃子に申し訳ないような気がした。
📼Playback
春海はスマホを取り出し、あるアプリを開いた。この時代遅れの頑固親父に一般常識を学ばせるには娘が口で言うより最先端の文明を導入するに限る。
「チャッピーに聞いてみようよ」
「ちゃっぴい?ああ、あの犬小屋の上で器用に寝てる犬か」
「それはスヌーピー。ピーしか合ってないでしょ」
物知らずのくせに高等な切り返しだけは長けている父である。
「ここに知りたいことを入力するとチャッピーが答えてくれるのよ」
「ChatGPのことをチャッピーというのか、ふ〜ん」
「さあ入力してみて。LINEできるんだからこれぐらいやれるでしょ」
「嫌な言い方するね、おまいさんは」
寅男は不貞腐れて手を伸ばしたが、画面寸前ではたと止まってしまった。
「ところで何て聞けばいいんだ、英語なんてできないぞ」


なんでお月さんきれいですねが、
I LOVE YOUになるんだ。
尾崎豊かよ─
寅男は春海のスマホを握りしめ、わなわなと震えていた。
身の危険を感じた春海はスマホを見捨ててそそくさと家を出た。
*
それから数カ月が経った。
寅男は読書の秋だからかナツメ事件の反動だからか、海外の本を読むようになった。感情に流されず冷徹な文体で描くハードボイルド小説が肌に合い、最近はレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を読み始めたところだった。
来客があった。スコープを覗き込むと魚眼レンズに映っている滑稽な顔は公平だった。そういえば春海たちが遊びに来る予定を忘れていた。ドアを開けると春海の姿はなく、公平が孫の手を引いていた。
「春海はどうしたんだい」
「車にこの子の忘れ物をしたみたいで」
三歳の孫がトコトコと近寄ってきて足にしがみついた。
その刹那、あの時の記憶が蘇った。
そういえばこの子の名前は─
「夏芽ですよ、ナ・ツ・メ。いやだなお義父さん、忘れちゃったんですか」
公平が夏芽をソファーにいる寅男の隣に座らせると、テーブルの上にある本に目をくれた。
「今度はハードボイルドですか。やっぱりお義父さんには夏目漱石が好きな人よりもこっちを読む人の方が似合うと思いますよ。春海もそう言ってましたよ」
以前なら、相変わらず気の利かない義息とおしゃべりな娘だと気分を害していたが、ハードボイルド小説の影響なのか、人の言葉に対してあまり感傷的にならなくなっていた。
春海が小ぶりなトートバッグを持って家に入ってきた。中にはおもちゃやタオルと一緒に、寅男に読ませるつもりなのか絵本が何冊か入っている。
「お父さん、悪いんだけどさ、夏芽を見ててもらえないかな。公平と買い出しに行きたいの」
寅男が頷くと夏芽は母親似の猿顔をくしゃくしゃにして喜んだ。手には件の絵本を抱きしめていた。
「よかったね、夏芽」
「ねえ、ママ。この人がクソジジイなの」
──寅男、男はタフでなければ生きていけない
「顔がゴリラみたいだよ」
──寅男、男は優しくなければ生きる資格がない
その後、寅男は"ナツメ一家"に惨殺され、即席ハードボイルドに長いお別れを告げた。
✒️絵面より 渇いた文が 好きだった