
花のをすくに[弐、または梔子(くちなし)]#11
十一 どうだん稲荷
朝の祭原家に、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
二日酔いの頭痛を抱えた克生は布団を深く被り直したが、その後も二度三度、複数人の悲鳴が続き、やかましい。
観念して起き出すと、彼は寝間着の浴衣姿で霊舎へ向かった。
まだ忌中なので、父・景克の霊璽と遺影は仮霊舎に祀られている。後飾り祭壇というやつだ。
霊璽とは仏教で言う位牌のことで、見た目もよく似ている。景克のものは木曽檜の白木材に、鏡付きの鮮やかな錦で覆っていた。
それが、真っ二つに割れている。
厚みのある檜材が、黒曜石のようになめらかな傷口を見せて祭壇の下に転がっていた。どんな力を加えればこうなるのか、克生には検討もつかない。
入り口でたむろしていた使用人たちが、室内に入るのも恐れはばかるようにしていた理由が分かった。そして、もっと驚くべきことがある。
三段ある祭壇の頂上に飾られた遺影が、景克の姿だけ焼けたように真っ黒に潰れていた。写真全体や額が煤けていたら、誰かが焼いたと思えるのに。
(親父は地獄に堕ちたのか?)
あるいは、自分のせいで――考えかけて、克生は思考を止めた。
脳に錐を突き立てられるように、ズキン、ズキンとくり返し頭が痛む。二日酔いのせいだ、それ以外理由があって堪るか。
「……森之進は」
昨夜はしこたま酒を飲ませて酔い潰したから、まだ寝ているだろう。と思いきや、使用人から「もうお帰りになられました」との返事があった。
そういえば神社にとって、週末はかき入れ時だ。
森之進が宮司を務めるどうだん稲荷は、朝六時半から拝観可能となっているので、それに合わせて出たのだろう。
「すぐ呼び戻せ! 犯人が誰かは知らんが、遺影は片付けて、霊璽も作り直しだ。あいつには神主として立ち会ってもらう」
自分の怒鳴り声が頭にきんきんと響く。克生はしばしぐったりと壁にもたれかかると、身だしなみを放り出して食事を優先した。
旬には少し早いシジミがたっぷり入った汁を二杯ほど飲むと、どうにか宿酔の責め手が緩んでくる。そういえば、昨夜は吐くまでに至らなかった。
(ああ、そういや慈愛がやたら水を飲ませてきたな……)
無愛想な弟だが、何だかんだ兄の世話を焼くのは可愛い所がある。あいつの神経質さや心配性な所も、いざとなれば役に立つものだ。
人心地がついて、克生は身支度を整えた。顔を合わせると、母の美智代も一件をすでに知っていたようで、不安な顔をしている。
「あの人は〝をすくに〟に旅だったのよね? どうしてこうなるの……」
仲が良いとは、とても言いがたい夫婦だった。そんな夫でも、死後このような怪異に巻きこまれると、動揺を隠せないのだろう。
母を守らなければ。
克生は、自分よりずっと小柄な彼女の手を両手で包みこんだ。
「心配しないでくれよ。森之進がもうすぐ来るから、仮霊舎のことはあいつと片付けておく。これからは俺が当主なんだからさ、母さんは大船に乗った気でいてくれよ」
手の中に感じる母のぬくもりと、上下する細い首を見ていると、彼女の老いを感じて堪らなくなる。
そういえば、妻の百合子は結局葬儀に出席しなかった。
俺に恥をかかせやがって、という憎悪と共に、母のように淑やかな女性はなかなか見つからないな、と克生は胸中ため息を吐いた。
◆
『請願成就 信仰の力で明るく幸せな人生を送りましょう どうだん稲荷』
神社の前には空き地があり、ちょっとした遊具なども置いてある。
「←どうだん稲荷🅿」と案内板がついたすべり台を過ぎて自転車を止めると、絵馬の形をした看板が号の目に入った。
狐と、注連縄を巻いた樹のイラスト付きだ。
一夜明けて日曜日、緊急の呼び出しがあれば別だが、駐在所は休みだ。もちろん事件があれば別だが、空いた時間は有効に活用したい。
神主の妻は祭原の長女で、神主自身もあの家と付き合いが深い。祭原慈愛や「兄さま」について、何か話を聞けないものかと足を向けた次第だ。
時刻は朝十時過ぎ、昨夜はひどく疲れたが、睡眠も気力も充分だ。
境内に足を踏み入れると、外から見た印象より広く立派だった。朱い鳥居の前は何度か通ったことがあるが、小さい印象があったので驚きだ。
普段、号から見えていたのは大鳥居と、その先にある拝殿までで、後ろに控える大きな石段と本殿までは見通せていなかった。
先の遊具でも子供たちが遊んでいたが、境内にもちらほらと参拝客の姿が見える。参道には神社の由緒が書かれた立て札があった。
『どうだん稲荷
御祭神 倉稲魂命
天鈿女命
猿田彦命
大己貴命
少彦名命
御祭日 二月初午ノ日』
由緒書きによると、『祭原の祖先が病で寝込み、もうダメだと思った時夢の中に空飛ぶ白蛇が現れ「我が姿を餅でかたどれ」と命じ、それに従って食べたらみるみる快癒した。以後屋敷にどうだん稲荷として祀ったが、祭原の分家がこの地に広まるにつれ、新たな信仰の場所として神社が建立された』とのことだ。
(慈愛が言っていた騰蛇ってのが夢に現れた白蛇で、あれは騰蛇に違いないと「騰蛇稲荷」としたら、いつの間にか名前が変わったってことか? でも、なんでお稲荷さんになるんだ? 神主さんに聞いてみるか)
拝殿には味のある筆書きで「御祈祷奉仕受付→」との看板があり、示された方向にはちょっと上等なバス停留所、といったおもむきの「御祈祷待合所」があった。どれどれ、と近づくと黒壁に掲示板がある。
草刈りなど地域のお知らせに混ざって、神主宅で開かれるピアノ教室の張り紙があった。生徒募集中らしい。
受け付けにある『御祈祷のご案内』によると、家内安全、病気平癒、恋愛成就、良縁、子宝、安産、金運、学業、とその内容は多岐に渡る。
『御祈祷 受付
本祈祷 五阡円~
上祈祷 七阡円~
大祈祷 壱萬円~
随時ご奉仕申し上げます』
他、『御朱印受け承ります 初穂料三〇〇円』『幸せを呼ぶ どうだんおみくじ 初穂料七〇〇円』……「商売やってんなー」と言うのが号の感想だ。とはいえ、神社に来たならお参りの一つもするのが礼儀だろう。
号は手水舎で手を洗い、本殿の賽銭箱に五円玉を入れて鈴を鳴らした。作法通りお辞儀を二度、柏手を一度、もう一度。
――カンッと甲高い音がして、箱から賽銭が飛び出した。
額を直撃した力は思いのほか強く、号はのけぞった。無意識に落ちてきた賽銭を受け止めると、今しがた七輪で焼いていたように熱い。
そんなバカなと思っていると、世界がぐるりと回った。足裏から地面が欠ける感触に肝が冷える間もなく、背中が石段を滑り落ちる。
柔道の受け身を取って頭だけは守ったが、十数段ほど落ちるのはさすがに厳しい。周囲が騒がしくなる中、号は歯を噛みしめてしばし痛みに耐えた。
「貴方! 大丈夫ですか!?」
最初に声をかけてきたのは、神主の森之進だ。白衣に紫の袴姿だったから、号は顔も覚えていない彼を判別できた。
「頭は打ってませんから、大丈夫です、はは」
「打っていない? 本当に?」
「いや……ちょっと打ったかも……」とりあえず全身が痛い。
参拝客も集まってきて、号は森之進に肩を貸され、社務所の一室に寝転がされた。枕とマットとタオルケット、冷たいお茶があっという間だ。
何が起きたのだろう。入れたはずの賽銭があんな戻り方をするなんて、あり得ない。自分は、ここの神さまを怒らせることをしただろうか?
号は子供のころから、地元の神社には毎年詣でていたから、作法を間違えていないとは思うが……こっちではやり方が違うのだろうか。
三十分ほどして、育乃が冷たい麦茶のお代わりを持ってきてくれた。
「駐在さん、具合はどうですか。これ、お口に合うかしら」
「わざわざ、すみません」身を起こす。「いやあ、お恥ずかしい」
麦茶には、手作りとおぼしきフルーツポンチが添えてあった。色とりどりのカットフルーツや、紅白の白玉団子が澄んだサイダーに浮いている。
切子硝子の器が、窓から差しこむ日を受けてキラキラしていた。
「ここに来て一年経ちますし、町の歴史とか、神社仏閣ってやつを少しは勉強しようと思ったんですけれどね。いただきます」
とりあえずこう言っておけば、何だかんだ訊いても不自然ではない……だろうか。号がスプーンですくったキウイは、星形にくり抜かれていた。
「このフルーツポンチ、美登里ちゃんのために?」
「二人で作ったんですよ。夫が忙しいから、デザートでねぎらおうねって」
ずく、と胸に釘を押し込まれるような衝動がある。
ひびきが生きていれば、号もどこかでこんな未来があったのではないか……それは今考えることではない。
自分は何とか祭原家や、あの口裂け男と繋がる話を聞き出すのだ。
「ごめんなさい」
不意に育乃が頭を下げた。
「先日あなたからいただいた金魚、死なせてしまったんです。私も美登里も、水や餌やりには気をつけていたのだけれど……」
「いや、そんなに謝らなくて大丈夫ですよ! 美登里ちゃんがまだ欲しがっているなら、もらいに来て下さい」
そういえば昨夜、樹海で吐いた金魚は、どこへ消えたのやら。それから、世間話や神社の由緒を再確認した所で、「そういえば」と号は切り出した。
「祭原のご兄弟は克生さんと慈愛さんでしたが、他にもお兄さんっておられましたか? 特に、慈愛さんが親しく付き合っているような」
つ、と育乃が眼差しで線を引くように目を細めた。その線には相手を測る目盛りがついており、こちらの意図を慎重に伺っているようだった。
「いえ、特には居ません。駐在さんは、どうしてそんなことを?」
甘い顔立ちを十全に活かして、育乃は愛想良く振る舞っている。それでも、号の勘と観察力は眼差しの変化を見逃さなかった。
「慈愛さんが、とても背の高い男性といっしょにいる所をお身かけしまして。兄さ……んと呼んでおられたから、あんなに目立つ方、祭原さんにいたかなあ、と」
「もしかして、身長が二メートルを超えそうな?」
「そうです、そうです。心当たりが?」
当たりだ。思わず身を乗り出したくなるのを堪えて、号は育乃の言うことに神経を傾けた。彼女は口を覆うが、その隙間からかすかに「帰ってきたんだ」と漏れるのを拾う。
手を下ろした時、育乃は陶磁器のようにひんやりとした面持ちになっていた。今までの温かな様子とは、打って変わった真顔だ。
「駐在さん、その人は本家と色々あって、あまり表に出せない方なんです。出来たら、他の方に訊ねたりせず、秘密にしていただいて良いですか?」
「……分かりました」
号が他愛のない世間話に話題を変えると、育乃もまた柔和さを取り戻す。
缶詰の蜜柑、桃、酸っぱいキウイ、パイン。果物の甘みがサイダーと共に舌の上で弾けて、白玉団子にぐにゃりと混ぜ合わされる。
祭原があの化け物を認識し、隠していると分かっただけでも大きな収穫だ。彼らが隠しているものへの明快な手がかりが見つかった。
フルーツポンチを食べ終えると、号は丁寧に神社を辞した。