
花のをすくに[弐、または梔子]#12
十二 兎を追い、草を刈れ
夕暮れを控えて、帰夫妻は居間で顔を見合わせていた。壁には森之進と育乃のツーショット、娘の美登里を加えた家族写真がいくつも飾られ、育乃が作ったフェルト人形などの手芸小物が目立つ。
代々どうだん稲荷の神職を世襲する帰家は、祭原の本邸よりは小さいものの、年季の入った日本家屋だ。黒光りする梁や柱は、百年以上も変わらない重厚な佇まいを見せている。
同じ木と紙の家屋でありながら、陰気な祭原家とは真逆に、家族の温かみが内側から照らしていた。しかし今日に限っては、夫妻は神妙な面持ちだ。
森之進は、薄い眉根を寄せながら顎をなでる。
「〝口無し様〟が餐原町に帰ってきたのか……」
一人娘はまだ遊びから帰ってこない、その隙に終わらせたい話題だった。
「駐在さんが見たのは別人だ、という可能性もあるんじゃないかな」
自分でも信じてはいない夫の言葉を、育乃は首を振って否定する。
「間違いないと思う。父さんだって突然すぎるし、もしかしたら……」
祭原景克は勤務中、院長室で倒れていた所を克生に発見された。
直接の死因は、心臓と直結している上行大動脈が縦に裂けたため――つまり大動脈解離だ。七十代は充分に発症リスクが高く、景克はかねてから原因になりやすい高血圧も抱えていた。
突発的ではあるが、その死に不自然な所はない。
だが、祭原家に伝わる霊術の力も秘密も帰家も共有しており、口無し様の存在も知っている森之進は、妻の想像を否定しきる材料を持たなかった。
「アレが戻ってきたら、どうだんさまは……どうなるの?」
育乃が不安に思うのは自明の理だった。
何が起きるかは、森之進にも正確に予想できるわけではない。ただ、口無しを閉じこめるに値するだけの危険性は、祖先がさんざん説いている。
妻を心配させたくはないが、無責任に大丈夫と請け負うわけにもいくまい。森之進は考えあぐねたが、「分からない」と答えた。
「育ちゃん、危険だから君はしばらく家から出ないで。私は克生と話すよ」
今日はあいつと話してばかりいるな、と森之進は内心苦笑してしまう。もともと予約されていた祈祷以外は、祭原の変事にかかりきりだ。
元凶が口無し様であるというなら、納得は出来る。
それにしても、慈愛があれと一緒に居るという話だ。確かに彼は口無し様によく懐いていた、と育乃から訊いているが……やはり記憶がないためか。
祭原慈愛は、口無し様に殺されてよみがえった死者なのに。
※
嘘をつかれた。
嘘をつかれた、嘘をつかれた、私に嘘をついた、しげちゃんが私を騙した。ずきりと、一瞬気が遠くなるほど鋭い頭痛が育乃を襲う。
三十半ばにもなって稚気だとは分かっていても、欺かれたという怒りで頭の中がいっぱいになると、そのまま爆発しそうだ。
駐在の前だから必死で押し殺したけれど、彼が帰るなり育乃は押し入れの布団に頭を突っ込んで号泣した。そうしないと、家の中の物を叩き壊してしまいそうで、誰にも声を聞かれたくなくて。
人を信じられない自分は醜い。だから疑わないよう、いや、取るに足りない嘘を認められるよう努めて、考えて、それでも美登里は友だちの雪ちゃんと喧嘩した原因があの子のトロール人形を壊したからだってことを黙っていたし許せなくて叩いてしまったけれどやっぱり悪いことをしたのは美登里だしあれはいけない嘘で
――ああ。
電話のため夫が離れると、育乃は急いで自室に戻ってまた布団を被る。
口無し様が帰ってきたという一大事に集中していた心が、また手負いの獣のように暴れ出していた。
息を吸う、吐くの動作も急ぎすぎるとやり方を忘れる。生ぬるい汗がこめかみを伝って、脳が沸き立つような感覚で頭を掻きむしりたい。
しげちゃん、どうして嘘をついたの。口無し様を待っているなら待っているって言ってくれて良かったのに。もちろん私はそれを聞いたら、もうやめなさいって言ってしまったでしょうね。気がつかない姉でごめんなさい。でもあの時にはもう、彼は帰ってきていたんでしょう? 父さんが死んだんだから。自由になった口無し様と一緒になって、どうするつもりなの。
(しげちゃんと話さなきゃ)
森之進に相談すべきだ、と理性が小さく囁いた。むしろ夫には気づかれたくない、難なく無視できる声を後に、育乃は手早く支度する。
そっと家を抜け出し、スクーターに乗って帰家を出た。
◆
夕闇に浮かぶ祭原の屋敷は、泥船に似ている。
小舟ではなく豪華な屋形船であるが、中も外もべっとりと黒い影がまとわりついて、およそ人の住み処に思えない。
建物の一部は経年劣化により改築されてはいるが、その冥さは新旧を問わず。克生は、屋敷の新棟に自室を構えていた。
部屋に入ると、まずトロフィーが陳列されたガラス棚が目に入る。首を巡らせれば、額縁に入った賞状や高級時計、鹿頭の剥製のお出ましだ。
マガジンラックには自動車雑誌や格闘雑誌が詰めこまれ、ゴルフ道具一式などが主人の趣味を表している。
さらにポケベル全盛のこの時代に、携帯電話movaが。その名の通り、自動車電話やショルダーホンとは比べものにならない、わずか230グラムというスリムさだ。
その最新通信機器が克生にもたらしたものは、歓迎できない報せだった。
「口無し様が戻ってきたって? あの野郎、なんで今さら……!」
『仮にも化現だ、呼び捨ては良くない』
ため息交じりに、通話相手の森之進がたしなめる。
「どうせ蔑称だろ、クチナワナシ、蛇も食わない、ってな」
〝口無し〟という名はそれ自体が呪いだ。
梔子の名にはいくつかの由来があり、蛇ぐらいしか食べない果実をつける木=〝クチナワ(蛇)ナシ(果実のなる木)〟が縮んだという説、実が熟しても裂けないから口がない説などがある。
この地では、クチナワナシを「蛇も食べない」と伝えているため、名付けに選ばれた。蛇ですらお前を食わない、だから誰も食べないように、と。
「で、慈愛がお供か……駐在はどこで二人を見たんだ?」
『あいにく、そこまでは。彼には改めて聞きに行くよ』
赤い革のアンティークチェアに腰かけながら、克生は足を組み直した。
「任せた。とりあえず俺たちは、しばらく知らない振りで過ごす。十六年前の二の舞はご免だ、人を集めて、口無しに対応出来る陣容を整える」
『ああ。またしばらく、忙しくなるね』
また足を組み変える。書斎机を指でコツコツ叩きながら話題を変えた。
「墓の方はどうだ?」
『見た感じ異常はなかったよ。改めて掘り返してみるかい?』
「今はこっちが優先だ、そこまではいい」
それから二、三軽く打ち合わせをして電話を切ると、克生は椅子を蹴倒す勢いで立った。拳を振り上げ、無意味に音を立てて天板を打つ。
追われる獣の焦燥感と、恐怖が上げる悲鳴だ。
昨夜は自分が当主だと浮かれていたのに、今や己が不味い状況に置かれていることに、克生は憤るどころではない。
慈愛がどういう奴なのか、自分がどんな仕打ちをしてきたのか。
口無しの帰還という知らせは、克生がそれらをまざまざと思い出すのに充分だったからだ。
あの陰気な男は必ず復讐に来る。
やっと親父が居なくなって我が世の春という時に、やられて堪るか。向こうがその気なら、こちらも迎え撃ってやる。
指の関節をぽきぽきと鳴らし、克生は地面を踏みつけるような足取りでウォークイン・クローゼットに近づいた。音高く開けて、中に入る。
クローゼットの奥には、壁に固定された銃保管庫があった。
克生は狩猟免許を持っており、自分で狩った獲物を業者に依頼して、いくつか剥製を飾っている。鹿飾りなど、特に自慢の逸品だ。
保管庫の鍵を開けると、中には銃身と銃床を分解された猟銃と空気銃。実包(弾薬)は離れの装弾保管庫に入っている。
手入れが必要だ。
「悪いことをしなさい」、と母は克生に教えた。
蟻を潰したり、泥遊びするみたいに、小さな悪いことを、たくさんしなさい。そうすれば、本当にやって善いことと悪いことの区別がつくから。
――母さんの言うとおりだ。
戦前、滋賀では学校行事としてしばしば兎狩りが行われていた。特にさかんだったのは南部の野洲川流域で、当初は労働学習の一環だったらしい。
冬になって雪が積もると、小学校の三年生以上は竹の棒を持って参加した。狩りは耐寒訓練として、近畿の他地方でも行われていたという。
神島郡でも、昭和四十年代までこの行事は続き、克生は兎狩りに参加した最後の世代だった。当時の興奮を、今も鮮烈に覚えている。
狩りは子供の行事なので、銃を使ったりなどはしない。竹藪や林を横切るよう二重に張った網へ、よってたかって獲物を追いこむのだ。
役割分担を決め、道具を持ち、息を殺して兎の巣を囲む。
さながら戦争だ。合図が出ると、追いこみ役が声を上げ、竹藪を棒で叩いて兎を追い立てた。兎が横へ逃げないよう止める役目の者、藪から網へ誘導する者も順次大声を上げ、手の届く範囲を竹の棒で叩く。
ワアワアという子供たちの声に、竹がぶつかるパンパンという乾いた音は、やはり戦場を思わせた。
手入れを終えた克生は猟銃の具合を確かめ、担ぎ、構えた。
(もし俺を殺すなら、兎のように追い立てて、雑草のように間引いてやる)
そういえば、あのとき網に絡まって捕まえられた兎はどうしただろう。
克生は最初に追い出す役で、その年は五匹も獲れた。いつもなら三匹か四匹なので、多すぎるからと業者に渡して処分したはずだ。
まさしく、雑草のように。