
花のをすくに[弐、または梔子]#13
十三 乃ち育め、森のしげみ
祭原家には複数の広間があるが、板間の一つにアップライトピアノが置かれている。ピアノと言われていかにも連想する曲線的な形ではなく、箱のように縦長へ伸びる形だ。母の美智代が嫁入りに持ってきた道具を、娘の育乃もたいそう気に入っている。
物静かな母は、あまり自分の意見というものを口にしない。夫の景克が何を言っても「はい、あなた」の五音で済ませてしまう。
若い時分は、人形のように美しかったのだろう。廊下を歩くとき、人と会話するとき、箸の持ち方、口を開いて食べ物を入れる所まで何もかも綺麗。
箱入りのお嬢様だったというのも納得がいく、完璧な所作は人形じみていた。娘から見ても、人間味が欠けていると思うほどに。
そんな母だが、ピアノを触るときだけは、人の体温を思い出すのだ。
鍵盤を一つ弾いただけで、複雑な音色が彼女を輝かしく彩って、内心の喜びも悲しみも伸びやかに教えてくれた。
嬉しいときや明るい気分の時は、よりそれを際立たせる鮮やかな演奏。辛いときは静かに降り注ぐ雨のように、そっと包みこむ演奏。
泣くのも笑うのも、母はすべて鍵盤に乗せてしまう。それが育乃は嫌いではない。母がピアノの前に座ると、必ず傍に行って演奏に耳を傾けた。
「育乃も弾いてみる?」
初めてそう言われた時は、心臓が下からとくとくと突き上げられて、足が浮いてしまうかと思った。つやつやした白と黒の鍵盤は、服のボタンみたいに触り心地が良さそうだ。そっと触ると、浅すぎて音が出ない。
ぐっと押しこむと、ポーンと筒を抜けるような音がした。
筒は水晶で出来ていて、虹色の艶を持ち、通る空気をより澄んだものに、より輝くものに色づける。フルートやヴァイオリンでは、こうはいかない。幼児が触っても素敵な音が出る鍵盤を、育乃はしばらく夢中で叩いた。
「母さんね、ひどいオンチなの」
娘が一通り鍵盤を叩いて満足すると、美智代はそう笑いかけた。
「周りの人みたいに、怒ったり、笑ったりがほんとうに苦手。いつも下駄の鼻緒が切れたまま、足を引きずって皆の後についていこうとする感じよ」
母はいたずらっぽく微笑んで「今のは『セロ弾きのゴーシュ』だけどね」と付け加えたが、育乃が宮沢賢治を知るのはずっと後のことだ。
「でもわたくしは、ピアノだけはきちんと弾けるの。面白いでしょう?」
父は娘の育乃には興味がなく、構うことは滅多にない。
長男の兄は跡継ぎであることを期待され、父は毎日厳しいノルマ達成を課し、失敗しては激しく折檻し、また罵倒した。
母は泣いた兄を慰めるのに一生懸命で、育乃と触れあう機会は限られる。祭原において、ピアノはほぼ唯一母と娘を結びつける機会だった。
おもちゃのピアノをもらって無我夢中で遊び、小学校時代は母がレッスンしてくれたものだ。
「この楽器はね、一人でオーケストラが出来るの。ピッコロより高い音も、コントラバスより低い音も自由自在。だってこれ一台で、人間が聴くことが出来るほとんどすべての、音楽的な音を表現できるのだもの」
音符が瑞々しい果実のように実りゆき、次々と音楽の森を広げる楽器。ああ、だからお母さんはピアノが好きなのかもしれない、と思ったことを育乃は覚えている。
母はピアノの前に座って、孤独と静寂を演奏で埋め尽くすのが好きなのだ。腕前を上げるにつれ、育乃もその気分が分かるようになってきた。
昨日は迷った指先が、今日は正しく鍵盤を選ぶ。押しこみの浅さ、強さが適切な加減を覚える。毎日どこかしら上達するのが楽しくて、ピアノを弾いていると心に溜まった物、つかえている物が吐き出せるみたいだ。
――月日は流れ、育乃が十二歳の時、祭原家に慈愛が加わることになった。
父の隠し子が来ると聞いた育乃の感想は『どうしてわざわざ引き取るの?』だ。隠し子、つまり浮気相手と作った子ということではないか。
相手は病気で亡くなったらしいが、その子は放っておけば良い、と育乃と克生の間で意見は一致した。祭原の子供は、すでに自分たち兄妹がいる。
男だからというだけで、父はその子を連れてくるらしい。絶対追い返してやると二人で決めて――克生はその子に会うなり、鼻血が出るほど殴った。
まだ相手は七つか八つの小さな子だ。もともと暴力が得意ではない育乃は、たちまち意地悪する気がしぼんでしまっていた。
それなのに、克生は竹刀まで持ち出して何度も叩き始めるのだから、彼女はしばらく、頭の芯が痺れたように立ち尽くしていた。
とっさに助けに入って、どうして? と己に問いかけると、もう答えは出ていた。守らなくちゃ、この子はこれから大変なことになるからと。
事実その日から、克生は鬼か何かのように残酷になったものだ。
母はこの頃から塞ぎこむことが増えて、以前のようにピアノを教えてくれることもなくなった。部屋に閉じこもり、食事さえも一人で取ってしまう。
克生が母を守ろうと、躍起になって慈愛を責め立てるのも分からないではない。黙殺してしまえば良いのに、育乃は兄の行為を無視できなかった。
ピアノを弾いているから、人より耳が良いのか。
それとも、別の原因があるのか。どれだけ眩い音符と演奏で空気を充たしても、慈愛の泣き声が聞こえる気がして。
だん、と鍵盤を叩いて不協和音を出し、育乃はすっくと立ち上がった。廊下をうろつき、あちこちの部屋の襖を開き、少しずつ声へ近づいていく。
ある部屋で、つっかえ棒をされた押し入れを見つけた。中には両手両足をロープで縛られ、口にガムテープを貼られた慈愛が転がっている。
八月の昼下がり、汗でびっしょりになった少年の姿は、育乃が初めて見る物ではなかった。慈愛は最初殴られては泣いていたが、だんだんと我慢強くなって、怪我をさせられても黙って睨みつけることが多くなった。
だから克生は、別のやり方で苦しめようとしたという訳だ。よく色々思いつくものだ、と育乃は呆れながら口のガムテープに手をかける。
「ごめんね」
痛いと思うけれど我慢してね、と声をかけ一気に剥がす。それから手のロープをほどきにかかった。
……思い返せば、育乃自身も〝父さんが不倫して作った子〟が嫌で、克生が慈愛をいじめることに、少し気が晴れていたのかもしれない。
兄がやり過ぎだったのは事実だから、そのぶん育乃はあの子を守っていた。そんな己はどっちつかずで、半端で、卑怯だと思う。
それでも、当時の育乃は慈愛が確かに可哀想だった。
「姉さん、ありがとう。後は自分でやるから」
言って足のロープにかかる慈愛は、何かもじもじとして恥ずかしそうだ。
――ああ、そういうこと。
育乃はいったん部屋を出て、使用人に湯を沸かすよう頼んだ。戻ってくると、慈愛は立ち上がって手足をさすっている。
押し入れの板には、大きく濡れたシミができていた。慈愛のズボンにも。
「しげちゃん、お風呂入ろ」
閉じこめられている間に彼が漏らしたことを指摘せず、育乃は異母弟の腕を掴んで浴室へ行った。途中でお手伝いさんに声をかけ、タオルと慈愛の着替えを用意してもらう。彼は真っ赤になって、ずっとうつむいていた。
脱衣所で裸になると、育乃の胸から腹には蛇が巻き付いたような、うろこ状の痣がある。祭原一族において、徴と呼ばれるものだ。
霊術は役に立つが、これのせいで自分も兄も、学校の健康診断は祭原の病院で受けさせられた。徴は家族以外に見せてはならないそうだ。
バスタオルを体に巻いて、育乃は慈愛を風呂に入れた。
家の大浴場ではなく、使用人用の小さなものだから、湯を張るのも早い。広さも子供二人には充分だ。
(徴も、霊術の素質もなかったしげちゃんを、父さんは〝できそこない〟って呼んだ。霊術が使えるかもしれないからって、引き取ったの? 父さんはこんな小さな子を、何だと思っているんだろう……)
慈愛は黙ってうつむいている。恥ずかしがっているのか、耳まで真っ赤にしている彼の背中を流し、二人で湯に浸かった。
(フリンした父さんはキライ。しげちゃんをいじめる兄さんも、あの子をもく殺した母さんも、ひきょうで弱虫の私もキライ。でも、私は自分が知っている人たちみんなに、幸せになってほしいって思っている。
おこるのも、にくむのも、きらうのも、とてもつかれて苦しいもの。どうして父さんは、みんなを裏切ったりなんてしたの? どうして人はかんたんにウソをつくの?
そのために私たち兄妹も、しげちゃんも苦しむ。ウソが人をこわしてしまう。悲劇の物語は、いつだってきちんと話し合わず、真実をいつわり、かくすから起こる。ウソと裏切りは、決してゆるしてはいけないんだ)
育乃は兄の友人である森之進にも、しばしば相談した。
どうだん稲荷に隣接する小さな公園で、ブランコに腰かけながら愚痴とも独り言ともつかぬことを言う。
この会話をした頃、育乃は中学のセーラー服を着ていた。季節は秋で、神社の前に広がっている田んぼのあぜ道に、しおれた彼岸花が広がっていた。
「森之進さん、私……どうしたらいいかな。兄さんにしげちゃんと仲良くして欲しい。最低でも、いじめるのを止めさせたいのに、私じゃダメなの。兄さんは跡継ぎだから、家のお手伝いさんも父さんの次ぐらい従うし……」
学ラン姿の森之進は、困ったように腕を組んで言う。
「私からもさんざん、弱いものイジメは格好悪いぞと言っているんだが。聞くような奴じゃないからな……」
兄は学校ではたいそう女子にモテていた。彼女や取り巻きと遊んで家を空ける時間が増えると、それだけ慈愛の被害が減る――ように見えて、細かく嫌がらせを仕込むあたりが、まことに性根が悪い。
「あいつが君をいじめていた時は、美智代おばさんに叱られるのが一番効いていたが。慈愛くんの味方には、なってくれそうもないからね」
嘘と裏切りを正す力が、賢さが欲しい。育乃がいくら渇望しても、結局解決してくれたのは時間だった。
兄の慈愛に対する虐待は、彼が中学の時にぴたりと終わったのだ。
その代わり、兄は女の子と付き合ってはすぐ別れて、女遊びが激しいなんて噂されている。まさか不倫した父を見習おうとしているのか? と育乃はますます呆れて。
いや、慈愛に暴力を振るい始めた時から、彼女自身はすっかり兄を見放していた。後々、己の仕打ちも忘れて弟に馴れ馴れしく接する所も含めて。
克生がやったことはすべて知っている。
克生の行いををすべて覚えている。
たとえ忘却の彼方におしやろうと、
嘘偽りで塗り固めようとも、
無意味なことだ。
「……だって、神さまはすべて見ているものね」
日曜日の昼下がり、和洋折衷のリビングで育乃は言葉を吐き出した。応接セットのソファに腰かけた体を、クッションにもたれかけさせる。
とても、疲れていた。色々なことが脳裏をよぎるが、すべては整理済みの記憶となって、感情から切り離された心の一部にしまい込まれていく。
「私がいなくなっても、大丈夫?」
天井を見上げる目を手で覆いながら彼女は問うた。正面、一人がけのソファを使う慈愛に向かってだ。もう自分には、ここに居る意味がないから。
「美登里ちゃんのことは、心配しないで」
「うん、さっきも聞いたけれど……でも、仕方ないよね。しげちゃんはそういう所では、絶対に嘘はつかないでしょ? 真面目なんだから」
呼吸はゆっくりとして深く、落ち着いていた。育乃はもたれるのをやめると背を曲げ、膝の上で軽く指を組む。
「私はしげちゃんを守ることも出来なかったのに、もっと酷いことになるなんて思わなかったな。同じこと愚痴ってごめんね。これで最期だから」
ふう、と息を一つ吐いて育乃は目を閉じた。
「痛くない?」
「一瞬で終わりだよ」
「そう。じゃあ……おやすみなさい、慈愛」
「おやすみ、姉さん」
何気ない日常をよそおった、これ以上なく下手な芝居だ。二人とも動きがぎこちなくて、表情は強ばっている。けれど、それは迷いのためではなく。
慈愛はソファを立ち、柏手を打って空気を入れ換えた。
一度、そして二度。
「御子クチナシの大前に、祭原慈愛かけまくも恐み白さく」
大きな口を縫う糸がちぎれ飛んだ。