
『罪と罰』のラスコーリニコフがラザロになるとき
亀山郁夫『『罪と罰』ノート』
『『罪と罰』を読まない』でペテルブルクはモスクワより古い歴史ある街だと書いたのだが、ちょっと違ってヨーロッパに似せて作った人工都市だったということだ。むしろモスクワの方が伝統ある街だったのだ。だからそこに生まれたのがラスコーリニコフと言う若者だったのかもしれない。
『罪と罰』で思い出すのは太宰治の『人間失格』で葉蔵の恋人が手籠めにされた時に「罪」の反対は「罰」ではなく、イロニーとなっているとか言うセリフが印象的で、それは反語ではなく同一語として言葉の世界そのものなのか?と思ったものだが、ドストエフスキーはそこは精神というような心を描いていたからこそ、ラスコーリニコフは改心したのであって改心できなかったのが大場葉蔵なのかもしれない。大場葉蔵が東京という西欧の真似をした人工都市というのも、ペテルブルクと近いのかもしれない。当時のペテルブルクは人工都市故の男女比が極端に男性が多く、女子は娼婦となるものが多かったという。それがソーニャであり、マグダラのマリアに例えられる。一方『人間失格』のヒロイン良子は純粋さだけの人を疑わない女だけど汚されてしまう。
また一方に日露戦争の敗戦国のしてのロシアと戦勝国の日本という違いがあったのかもしれない。太宰の『罪と罰』はラスコーリニコフの『罪と罰』のようには救えなかった。
それは信仰心の問題であるようにも感じる。当時のロシアは刑法も新法へ変革の過渡期であった。新法ではフランスの陪審制が導入されて、ドストエフスキーもその思考に近かったという。だからラスコーリニコフの罪は二人も殺人を犯しながら死刑にはならずに情状酌量があったのだと思われる。そして妻であるマリアを病死させる。その時フランスで治療するのだが、フランス人の金に対しての欲深いさに幻滅したという(バルザック的なランス人?)。その反動が理想の小説を書かせたのかもしれない
ドストエフスキーは妻マリアを無くして賭博に走り、さらに悪徳な出版社との契約を結んでしまう。それは今までの著作権をすべて引き渡し、さらに新作は借金の方にされていた。その時に依頼した速記者が後に結婚するアンナであり、その前にロシア皇帝の暗殺未遂事件などもあり、ドストエフスキーは絶望の最中の中で希望の伴侶を得たのである。
ラスコーリニコフは意志の人と信仰の人という宙吊り状態に置かれるのだが、それは作者の意図したことで、そのことは『『罪と罰』を読まない』でも「ふと」が多すぎると指摘されていだ。それは意志的な思考を持つラスコーリニコフが運命的な偶然性に縛られるのだ。もともとラスコーリニコフは験を担ぐ人で歩数でその日の運勢など占ってしまう人だった(この数値化するといのは、村上春樹の小説に通じる)。たから思想的に無神論を装うがその深層では運命を信じる人なのだ。そこに殺人事件では自分の思い通りにならなく何者(神)に操られていたいるという意識を持つようになる。そこにソーニャが現れるのだ。ソーニャは神を信じる人でラスコーリニコフとは無関係な人なのにその運命を背負うのだ。つまり共犯者になることで彼女の信仰を分かち合う。それはラスコーリニコフの恋でもあるのだか、そのことほど運命的に感じることはないのである。つまり彼は神に落ちたというよりも恋(ソーニャ)に落ちたのだ。
ソーニャと殺されたリザヴェータの同一化はリザヴェータが神がかり的な人だというのもある。それは『カラマーゾフの兄弟』の血統だった。
その岐路に立つのが「ラザロの復活」の話なのだ。
それかまイエス・キリストではなくラザロということが重要なのだ。イエスだっら優生思想の持ち主と変わらず単独者としての英雄物語なのだが、凡夫であるラザさえ復活するのだ。それは一殺人者であるラスコーリニコフが復活するということである。その仲立ちをするのはマグダラのマリアとしてのソーニャなのだ。
つまり英雄ではなく一般人が復活するという話に大衆は惹かれるのだ。そして何よりもソーニャも罪人であるということだった。それはソーニャは公的な娼婦として黄色の札を下げており、それはソーニャも罪人ということなのだ。つまりラスコーリニコフも罪人でありソーニャも罪人であるならば復活できるのはふたりで罪を乗り越えた時であるというここに神の前の共犯関係が存在するのである。そしてそれは恋でもあった。まさに犯罪小説にして恋愛小説であると言うエンタメだったのだ。そしてラザロの復活は様々な画家によって描かれているのだった。