メインコンテンツへスキップ
見出し画像

随想馳日◆2020年10月 京都市京セラ美術館開館記念展 探訪記「河井寛次郎編」

    ※本稿は2020年10月、アメブロの本宅にて上梓したものをリライトしたものである。たまたま本宅についた足跡から読み直してみると、なんとも酷かったのでリライトし、ここにあげ直した次第。
    何処のどなたかは存じませんが、その足跡。愛してるよ♬

    ◆

    東山はまだ青々としていた。
    色づきまではあと2週間というところだろう。
    街なか流れる疎水支流がはこぶ早朝の清々しい空気。
    匂い立つ日曜朝の暮らしぶりを想わせる味噌汁の匂いがスキっ腹に堪えた。

    日曜の早すぎる朝というやつは旅をする者にとって格別なるごちそうと成り得ることは知っていたが______。

    朝餉の支度に余念なしを想わせる匂いが流れくる方向に顔を向ける。
    油汚れでドロドロになった換気扇がカシャカシャと。
    なにかを引っ掛けながら廻る音に行き着く。
    だが所謂駆動音は聞こえてこない。
    カシャ‥‥‥‥カシャ‥‥‥‥カシャ

    最初のうちこそ首筋を引っ掛かれるような塩梅の悪さを感じていた。
    次第にそのリズムに脳がシンクロをはじめる。
    するってぇと。
    それにあわせてリズムを入れ出す。
    タクツタクツ、カシャ、タクツタクツ、カシャ……
     それにしても腹が減る。

    サラサラとした穏やかな流れの音にくるまれ味噌汁の香りは川面と一つになる。朝飯はどうするか______ 。
    空腹をやり過ごしながら"生活道路"を拝借。
    北へ東へまた北へ~と歩みを進める。

    画像


    画像

    車の行き来はほとんどなく。道路の真ん中に立ちながら写真を撮れるほど静かだった。住民たちが目にしたなら"観光客"の悪行に眉根を寄せること間違いなかろう。

    中略

    2020年10月 の小さな旅の目的は、京都市京セラ美術館・開館記念展へとゆくことだった。

    そもそもである。芸術とは何かと問うてみれば
    草の下に云う術(すべ)を以てして哲を説く~というのが素人のわたしの観方でもある。是は、表現者は表現者の秘するところを表現することがダイナミズムということと決着している。

    今回の主たる目的でもあった、河井寛次郎という芸術家が取り組んだ世界は「三次元」を軸とした死生観をも内包したところに存在する宇宙(哲学)にある。私が河井に持ち続ける印象であり、河井作品に対して私が持つ美の容の一つだ。

    本を読んで勉強することはその筋の人々にお任せしておこう。わたしはわたしの言葉で河井を紡いでみたい。

    さて、河井の作品を称える例えとして「用の美」という言葉がある。これは、民藝という言葉に繋がってくるのだが、日常の中にあって、民衆の生活の中にあって、「用いられることを真とする芸術・尊しとした芸術」としての評価が「用の美」へと繋がって行った結果だろう。

    民衆の日常とは信仰に始まり、死生観へと続く。
    ご仏前に灯をともし、手を合わせる。田畑の実りを願い供物をささげ、収穫においては感謝をもって次の年を願う。膝がいたけりゃ身代わり仏の膝を撫ぜ、足がいたけりゃ擦った手を我が足にもってゆき擦る。
     数多患い事からの解放を頼み手を合わせ、極楽を願う。
    分かることは、これを書いている世代の者ぐらいまでは、理解も追いつけてもらえようか。

    その暮らしぶりの中に染み込んだ"用の美"が河井の作品を称えた言葉なのだろう。が、その"用の美"という言葉ですら、河井自身が自ら自分の作品を称してつけたものではないということを押さえておかねばなるまい。

    河井が言う「民藝」という世界と、"用の美"が同じものであるのかは________さて、河井のみが知るところ~という話である。

     河井寛次郎という芸術家が取り組んだ世界は、三次元を軸とした死生観をも内包したところに存在する宇宙(哲学)にある。

     さて、今回、京都市京セラ美術館を訪れ、主たる目的だった河井の作品「白地草花絵扁壺」に触れて感じたことをお伝えさせて頂くのであれば、このスットコドッコイ~ということに始末をみる。
    ご気分を悪くされる御仁には申し訳が無い。

    しかしだ。そもそも三次元の芸術作品を壁一列に陳列することほど馬鹿馬鹿しいことはない。ましてや作陶作磁作品となれば、表現は作品全体に及ぶ。

    それを、回転ずしのベルトコンベアーの上に乗せ、コンベアーを止めた儘、正面だけをご覧ください、さて最初は「ハマチでござい」次は「イカでござい」皆さん大好き「サーモンでござい」と云わんばかりの陳列とあっては、些かどうなのだろう。

    珠玉の作品たちから何をどう感じ取れと云われるのか。

    河井の作品の醍醐味は、シンメトリーと歪み。表と裏、両脇にある。それを正面一方向からしか見られないというのは、作品に対しての敬意が覗われないのである。

    河井寛次郎の染付は、表裏、両脇、上下、観る角度によって様々に映る。それが河井の民藝であり哲学なのだ。

    三次元作品を二次元で表現するという愚かさ。
    河井が用の美、民藝の中に身を投じた理由を、現代の展示で図らずも知った思いではある。

    画像
    「白地草花絵扁壺」 昭和14年作

    この作品の読み方に、もしも興味をもたれた人は以下のLinkを参照してほしい。けして無駄な時間を費やしたと想わせることはないはずである。
    ただし、自らの小宇宙に芸術文化を愛する心を内包した者にとっては~ ということなのだが。

    了


    文 飛鳥 世一


    この記事が参加している募集

    あなたへのおすすめ