
『羅生門』をもう一度読み直す。――下人は、本当に「悪人」なのか【前編】
芥川龍之介の『羅生門』。
高校生の頃、国語の授業で読んだことがある方も多いのではないでしょうか。
荒廃した京都。
仕事を失った一人の下人。
羅生門の楼上で死人の髪を抜く老婆。
そして最後には、老婆の着物を奪って闇の中へ消えていく下人。
物語そのものは短く、登場人物も多くありません。
しかし、改めて読み返してみると、単純な「善」と「悪」だけでは片づけられない、人間の姿が描かれていることに気づきます。
特に私が気になったのは、物語の中で下人の価値観が大きく変化していくことです。
最初の下人は、悪事をすることをためらっています。
ところが、老婆の話を聞いたあと、下人は老婆とほとんど同じ論理を使って、自分の行為を正当化するようになります。
今回は、そんな下人の変化を中心に、『羅生門』をもう一度読み直してみたいと思います。
最初の下人は、まだ「悪」を選んでいない
物語の冒頭で、下人は羅生門の下で雨やみを待っています。
しかし、彼には帰る場所がありません。
数日前まで仕えていた主人から暇を出されてしまったからです。
仕事を失い、この先どうやって生きていけばいいのか分からない。
そんな状況に置かれた下人が考えるのが、
「盗人になるか、それとも飢え死にするか」
という選択です。
生きていくためには、何かをしなければならない。
しかし、盗人になることには抵抗がある。
だからこそ、下人はすぐに決断できません。
ここで重要なのは、下人が最初から「悪人」として描かれているわけではないということです。
むしろ、
「悪いことをするしかないのかもしれない」
と考えながら、それでも最後の一歩を踏み出せずにいる人物として描かれています。
下人自身も、
「どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。」
というところまで追い詰められています。
それでも、盗人になることを決断できない。
この迷いこそが、物語の最初の下人なのだと思います。
羅生門の上で、下人は「悪」を見つける
そんな下人が、羅生門の上に人の気配を感じます。
そこで下人は、梯子を上って楼上へ向かいます。
そこで目にしたのが、死骸のそばにいる老婆でした。
老婆は、死人の髪の毛を抜いています。
荒れ果てた羅生門。
積み重なる死骸。
その中で、死人の髪を抜く老婆。
下人にとって、それは明らかに異様な光景でした。
そして、この瞬間に下人の心に変化が起こります。
少し前まで自分自身が、
「盗人になるか、飢え死にするか」
と悩んでいたにもかかわらず、今度は老婆の行為を「悪」として見るようになるのです。
つまり、それまで「悪事をするかもしれない側」にいた下人が、突然、
「悪事をしている人間を裁く側」
へと立場を変えます。
ここは、『羅生門』を読むうえで非常に興味深いところだと思います。
下人は、自分自身も生きるために盗みを働く可能性を考えていました。
ところが、目の前に自分よりも「悪そうに見える」人間が現れると、自分の問題はいったん脇に置き、その人間を裁く側に回るのです。
「悪いことをしている人間」を見つけると、人は裁く側に立てる
この場面を読んでいると、現代の私たちのことも少し考えてしまいます。
誰かが悪いことをした。
そのことを知ったとき、
「これはひどい」
「こんなことをするなんて許せない」
と思うことがあります。
もちろん、誰かを傷つけたり、法律に反する行為をしたりした場合、その行為について責任を問われることは必要です。
しかし、それとは別に考えたいのが、
「悪いことをした人間を見つけたとき、私たちはどこまでその人を裁くのか」
という問題です。
現代では、インターネットを通して誰かの失敗や問題行動が一気に広まることがあります。
そして、その情報を見た人たちが、その人物を批判する。
もちろん、その批判がすべて間違っているわけではありません。
ただ、『羅生門』を読みながら考えさせられるのは、
人は他人の「悪」を見つけた瞬間、自分を「裁く側」に置くことがある
ということです。
下人も、まさにそうでした。
ほんの少し前まで、自分自身が盗人になるかもしれないと悩んでいた。
それなのに老婆を見た瞬間、
「悪いことをしているのは自分ではなく、この老婆だ」
という立場に移ってしまいます。
しかし、老婆にも「理由」があった
ところが、老婆はただ悪事をしていたわけではありません。
下人に問い詰められた老婆は、自分が髪を抜いている理由を説明します。
髪を抜いて、鬘にしようとしていたのです。
もちろん、死人から髪を抜くという行為を、簡単に正しいとは言えません。
下人が怒るのも当然でしょう。
しかし、老婆には老婆なりの理由がありました。
老婆が髪を抜いていた女も、生前には蛇を切って干したものを、干魚だと言って売っていた。
つまり、その女も人をだまして商売をしていたのです。
しかし老婆は、その女の行為を完全な悪だとは考えていません。
なぜなら、その女もまた、
そうしなければ飢え死にしてしまうからです。
そして、老婆自身も同じでした。
髪を抜いて売らなければ、自分も生きていけない。
だから、
「仕方がない」
のだと言います。
ここで、物語の見え方が少し変わってきます。
下人から見れば、老婆は「悪いことをしている人間」です。
しかし老婆から見れば、自分は「生きるために仕方なく行動している人間」なのです。
「悪い。しかし、仕方がない」
老婆の論理を簡単にまとめるなら、
悪いことなのかもしれない。
しかし、生きていくためには仕方がない。
というものです。
これは、「悪いことをしてもいい」という単純な主張ではありません。
老婆自身も、自分の行為が正しいとは言っていません。
ただ、
「生きるためには、そうするしかない」
と考えている。
ここに、『羅生門』の面白さがあります。
もし自分が食べるものもなく、仕事もなく、このままでは生きていけない状況に置かれたら、どうするのか。
食べるために盗むことは許されるのか。
自分が生きるためなら、他人を犠牲にしてもいいのか。
そして、
「仕方がない」という言葉は、どこまで自分の行為を正当化できるのか。
『羅生門』は、こうした問いに答えを出してくれません。
だからこそ、読む側が考えることになります。
そして、この老婆の言葉こそが、次の場面で下人の運命を大きく変えることになります。
次回予告
中編では、老婆の「生きるためには仕方がない」という論理を聞いた下人が、なぜ突然、老婆の着物を奪う側へと変わったのかを考えます。
そしてそこには、
「他人の悪は見えるのに、自分の悪には理由をつけてしまう」
という、人間の非常に複雑な心理が見えてきます。
中編へ続きます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!