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正論マンと言われた話

    友人から、

    「お前は正論しか返さないからもういいわ」

    と言われた。

    少し笑った。

    というのも、前にも似たようなことを言われたことがある。

    「正論しか話さないから反論の余地がなくて、会話に面白みがない。でも、ある種そこが面白い」

    なかなかひどい評価である。

    でも、たぶん間違ってはいない。

    俺は会話をするとき、かなり早い段階で結論に行こうとする。
    相手が何かを話す。
    そこに問題がある。
    原因がある。
    構造がある。
    矛盾がある。
    改善できる余地がある。

    そう見えた瞬間に、俺の頭は勝手に処理を始める。

    「それはこういう構造だよね」
    「原因はたぶんそこだよね」
    「それならこうした方がいいよね」
    「でもそれって、そもそも前提が違うよね」

    悪気はない。

    というより、俺の中ではそれがかなり自然な会話の形だった。

    でも相手からすると、そうではないらしい。

    たぶん多くの人にとって会話は、情報を交換するためだけのものではない。
    気持ちを共有したり、少し愚痴を言ったり、わかると言ってもらったり、正解にたどり着く前にその場に一緒にいてもらうためのものでもある。

    俺はここがかなりズレている。

    俺にとって会話は、基本的に「情報交換」と「認識更新」だ。


    知らなかった情報が増える。
    見えていなかった構造が見える。
    自分の考えが修正される。
    相手の視点によって、自分の世界の解像度が上がる。

    それがかなり楽しい。

    だから俺は、会話の中で反論されることもそこまで嫌いではない。
    むしろ、ちゃんとした反論ならありがたい。
    自分の認識が更新されるからだ。

    逆に、俺が何かを考えたいときに、感情に寄り添われすぎると少し困る。

    「大丈夫?」
    「それはつらかったね」
    「無理しないでね」

    もちろん優しさとしてはありがたい。
    でも、俺が欲しいのはそこではないときがある。

    「いや、今ほしいのは共感じゃなくて、構造なんだよな」

    と思ってしまう。

    でも、だからといって感情共有がいらないわけではない。

    ここが少し面倒くさい。

    俺も30回に1回くらいは、ちゃんと感情トークがしたいときがある。
    ただ話を聞いてほしいときもある。
    わかると言ってほしいときもある。
    解決策ではなく、そのまま受け取ってほしいときもある。

    だから、感情トークを否定しているわけではない。
    むしろ、その価値もわかる。

    問題は、俺の会話の初期設定がそこではないということだ。

    多くの人にとって会話の初期設定は、感情共有なのかもしれない。
    まず受け取る。
    まず共感する。
    まず同じ場所に立つ。
    そこから必要なら、原因や解決策に進む。

    でも俺の場合は逆だ。

    まず構造を見る。
    まず前提を見る。
    まず原因を見る。
    まず結論を見る。

    そして必要なら、感情に戻る。

    順番が違う。

    この順番の違いが、「正論しか返さない」という印象になるのだと思う。

    正論そのものが悪いわけではない。
    でも、正論は出すタイミングを間違えると、相手の感情の逃げ場を潰す。

    相手はまだ怒っている。
    まだ悲しんでいる。
    まだ整理できていない。
    まだ自分でも何を言いたいのかわかっていない。

    その状態で、

    「それは君にも原因があるよね」

    と言われたら、たとえ正しくても腹が立つ。

    正しい。
    でも、今じゃない。

    たぶん俺は、その「今じゃない」を飛ばしがちなのだと思う。

    この話をしていたとき、ASDの話にもなった。

    俺は、自分のこの会話のズレにはASD傾向も関係しているのではないかと思っている。
    もちろん、これは診断の話ではない。
    ただ、感覚としてかなり近いものがある。

    すると友人からは、

    「でもASDには見えない」

    と言われた。

    極端に空気が読めないわけでもない。
    人に寄り添えないわけでもない。
    だからASDっぽくは見えない、と。

    それを聞いて、少し違和感があった。

    たぶん、そのASD理解は少し浅い。

    ASDというと、「空気が読めない人」「人の感情がわからない人」「配慮できない人」みたいに雑に扱われがちだ。

    でも、実際にはそんなに単純ではないと思う。

    人の感情に配慮できない人が、すべてASDなわけではない。
    ただ無神経な人もいる。
    相手の気持ちを考える気がない人もいる。
    自分の快適さしか見ていない人もいる。

    逆に、ASD傾向があっても、人の感情にかなり配慮する人もいる。
    むしろ配慮しすぎる人もいる。

    違いは、自然に空気を読むというより、手動で解析している感覚に近い。

    今これは愚痴なのか。
    解決策がほしいのか。
    正論を言っていい場面なのか。
    ここで踏み込むと傷つけるのか。
    今は黙って聞いた方がいいのか。

    そういうことを、かなり意識的に処理している。

    外から見ると普通に会話しているように見えるかもしれない。
    でも内側では、かなり演算している。

    だから「ASDには見えない」は、必ずしもASD傾向を否定する材料にはならないと思う。

    むしろ、普通に見えるように学習してきた結果として、そう見えているだけかもしれない。

    ただ、この話で大事なのは、自分がASDかどうかではない。

    診断名を盾にしたいわけではないし、
    「俺はこういう傾向だから仕方ない」と言いたいわけでもない。

    大事なのは、会話の目的が人によって違うということだ。

    ある人にとって会話は、感情を共有するもの。
    ある人にとって会話は、関係性を確認するもの。
    ある人にとって会話は、安心するためのもの。
    そして俺にとって会話は、情報を交換して認識を更新するもの。

    もちろん、どれが正しいという話ではない。

    ただ、目的が違えば、正しい返答も変わる。

    相手が感情を共有したいときに、構造分析を返すと冷たく見える。
    自分が情報を更新したいときに、感情だけ返されると物足りない。

    どちらも悪意ではない。
    ただ、会話OSが違う。

    たぶん俺は、会話を少し「問題解決」に寄せすぎている。
    相手はただ聞いてほしかっただけなのに、俺は勝手に解いてしまう。

    でも、俺にとっては、それが誠実さでもあった。

    適当に共感するより、ちゃんと考えたい。
    曖昧に流すより、構造を見たい。
    その場を丸く収めるより、認識を一段進めたい。

    そう思っている。

    ただ、それがいつでも相手にとって優しさになるわけではない。

    正論は強い。
    強すぎる。

    強い言葉は、場を終わらせる。
    結論は、会話の余白を奪う。
    正しさは、ときどき人がまだそこにいたい感情の場所を壊してしまう。

    だから最近は、少しだけ考える。

    これは解くべき話なのか。
    それとも、ただ一緒にいるべき話なのか。

    正論を捨てる必要はない。
    でも、正論を出す前に、相手がまだ人間でいられる時間を少し置いた方がいいのかもしれない。

    「それはだるいな」
    「まあ腹立つのはわかる」
    「で、これは愚痴? それとも解決したいやつ?」

    これくらいでいいのだと思う。

    俺はたぶん、これからも正論を言う。
    構造を見るし、結論にも行く。
    会話を情報交換と認識更新として扱う癖も、そんなに変わらないと思う。

    でも、それでいいとも思っている。

    問題は、正論を持っていることではない。
    それをいつ抜くかだ。

    人間関係は、論破ゲームではない。
    でも、嘘の共感だけでできているわけでもない。

    感情だけでも足りない。
    正論だけでも足りない。

    だから俺は、自分の会話OSを少しずつ調整していくしかない。

    俺にとって会話は、情報交換と認識更新だ。
    でも、たまに感情共有もしたくなる。

    たぶん相手も同じだ。

    ただ、その比率と順番が違うだけなのだと思う。


     
     
    気になったことを考えたり、調べたり、作ってみたりするのが好きです。 なんでもない出来事に引っかかって、余計なことまで考えがち。 ここには、そのとき思ったことを好き勝手に書いています。 たまに毒もはきやす。

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