
ロックンロールの文脈から見る「I LOVE HIP HOP」①──Dragon Ashとヒップホップの関係を巡るとても長い論考
「I LOVE HIP HOP」と歌われた曲を、ロックンロールの文脈から見る、とはこれ如何に?…というまるで謎かけのようなこの記事のタイトル。
この一見「なんだそりゃ?」と矛盾を感じるような違和感こそが、この「I LOVE HIP HOP」という楽曲のユニークさと革新性、そしてミクスチャーロックの旗手としてのDragon Ashの当時の歩みを象徴していると言えるかもしれない。
「I LOVE HIP HOP」のインパクトとユニークさとその賛否
Dragon Ashが1999年5月にリリースした「I LOVE HIP HOP」。
この曲は同日発売された「Grateful Days」と共に大きな話題を呼び、「Grateful Days」はDragon Ash初のオリコン1位、「I LOVE HIP HOP」は4位を獲得。
98年の「陽はまたのぼりくりかえす」リリース後、少しずつ話題を集めていたDragon Ashだったが、この「Grateful Days」と「I LOVE HIP HOP」というシングル2曲が大ヒットすることで、メジャー音楽シーンの中でさらなる旋風を巻き起こすことにつながっていった。
作詞作曲を行うボーカルの降谷建志(Kj)は当時のインタビューで、この2曲をシングルとして同時発売することにした経緯について以下のように語っている。
──そもそもこのアイディアはどういったところから出てきたんですか?
Kj:んーとね…まあ「I LOVE HIP HOP」には悪いんだけど、「Grateful Days」を出したいから。
あれをリード曲にするためには色々しがらみがあるわけじゃないですか。
アッパーではないし、フィーチャリングだし、って言われると思うんですよね。
それを理解した上で「じゃあアッパーなのをもう1枚出せばいいんじゃない?」っていう。それで解消したいと。
そしたらもうミクスチャーにしなくていいっていうか、理解させるのに2枚同時に聴ければ──1曲にまとめずにっていうことですよね。
──まず「Grateful Days」があったっていう感じ?
Kj:あった。そうそう。
「Grateful Days」をリードシングルとして出したいがために、アッパーな曲である「I LOVE HIP HOP」を同時リリースすることにしたという経緯は、今から振り返ればとても興味深いものがある。
そしてこの2曲のヒット後、1999年7月に発売されたアルバム「Viva la Revolution」は180万枚もの売り上げを記録し、Dragon Ashは一躍時代の寵児として圧倒的な人気を得ることとなり、新しい世代を代表するロックバンドとしての地位を確立した。
Dragon Ashはデビュー当時からオルタナやパンクなど様々な音楽性を取り入れた独自の楽曲を表現しており、まるでそれは90年代のユースカルチャーとしての洋邦楽の音楽シーンの多様性を象徴しているかのようでもあった。
(そしてDragon Ashがデビューした1997年にはくるり、ナンバーガール、スーパーカー、トライセラトップス、グレイプバインといった、それぞれそれまでいなかった多様な音楽性をバックボーンに持ったバンドが次々に登場していったのも、この90年代後半の音楽シーンを象徴しているかもしれない。)
90年代という様々な新しい音楽が生まれて活況を呈していた時代に、10代の多感な時期を過ごしていたKjは、ナチュラルに自分が好きな多様な音楽性を吸収しそれを自らの楽曲センスに落とし込んでいっていたと言える。
そんな中でヒップホップやR&B、ファンクといったブラックミュージック的な音楽的要素も多く取り入れたDragon Ashは、前述の「陽はまた〜」や「Let yourself go, Let myself go」といったラップ要素をメインに取り入れた楽曲がヒットに繋がっていくことになった。
そしてこの頃それまで3ピース形態だったバンドに、DJとしてBOTSが正式加入することになる。
バンドにDJがいるという形態も、それまでの日本の音楽シーンではかなり珍しいことだった。
そんな中で「I LOVE HIP HOP」と「Grateful Days」がさらに大ヒットを重ねることで、Dragon Ashといえばラップ/ヒップホップだというイメージが世間では強くなっていった。
当時はヒップホップという音楽が日本ではアンダーグラウンド的でメジャー音楽シーンに定着しておらず、まだまだヒップホップという音楽ジャンルは世間一般レベルでは目新しいものだった。
年月を経てヒップホップがすっかり市民権を得た現在では「ヒップホップが好きだ」と言っても何も珍しがられることはないが、1999年当時の日本では「I LOVE HIP HOP」というこのタイトル自体がまだかなり斬新に響くような状況だったと言える。
そんなわけで、このヒップホップという新しい音楽ジャンルを前面に打ち出したDragon Ashの楽曲は、当時センセーショナルとも言えるようなインパクトを社会に与える事となった。
しかし一方では、この「Dragon Ash=ヒップホップ」と世間のイメージで見なされることになってしまったことから、一部の人々の間ではDragon Ashと「I LOVE HIP HOP」に対する賛否の声が渦巻いていくことになる。
以前、「Grateful Days」について以下のような記事を書いた。
この記事では「Grateful Days」について「この日本という国におけるヒップホップという音楽カルチャーを語るにあたって、様々な意味と論点で試金石であり問題作でもあるような楽曲となってしまった」と書いた。
しかし、ある意味では「Grateful Days」以上に「I LOVE HIP HOP」の方が、当時の日本のヒップホップシーンにとって問題作であったと言えるだろう。
そもそも、この「I LOVE HIP HOP」という楽曲のユニークな点は、「I LOVE HIP HOP」というまるでヒップホップ賛歌のようなタイトルでありながら、楽曲の根本的な部分はロック(パンク)とヒップホップが交差した地点から生まれているという事だ。
それはDragon Ashというバンドが基本的にはロックを出自としている点からも明らかであるし、その楽曲もKjによるロックもヒップホップも等しく聴いていたというその音楽嗜好によって形作られたものだった。
そして当の「I LOVE HIP HOP」自体にも「HIP HOP PUNKS 織り交ぜて今参上」という歌詞が織り込まれている。
また、Kj自身のヒップホップの原体験となったのがBeastie Boysだったという点も大きな点だろう。
Beastie Boysも元々はパンクバンドとして始まりながら、ヒップホップに音楽性をシフトしていったグループであり、「I LOVE HIP HOP」からもビースティの存在とサウンドを参照していることがうかがえる。
さらにまた、そもそもこの「I LOVE HIP HOP」という楽曲の元ネタ・ベースとなっているのが、Joan Jettによる「I Love Rock'N'Roll」だという事もとても象徴的だと思える。
つまり、この「I LOVE HIP HOP」という楽曲はそのタイトルから受ける印象とは違い、そもそもが純粋にヒップホップという音楽カルチャーの文脈だけに根差した楽曲ではないということだ。
そして後述する当時のKjのインタビューの中でも、Kj自身がDragon Ashが純粋なヒップホップの文脈にいないことを明言している。
一方で、当時国内のヒップホップ専門誌「blast 1999年7月号」では、この「Grateful Days」と「I LOVE HIP HOP」の大ヒットを受けて、「We LOVE HIP HOP, too!」というタイトルでDragon Ashについての3本の論説を掲載している。

ちなみにその3本の論説のタイトルはそれぞれ以下のようになっている。
「ドラゴン・アッシュを称える文脈に不快感を覚える」
「『ヒップホップか否か』以前に考えるべき問題はたくさんある」
「『日本語ラップ=カッコ良いもの』とのアピールは収穫」
このような論説が象徴する当時の声とは、ロックを出自とするバンドに「I LOVE HIP HOP」というヒップホップ賛歌のような楽曲を歌われて、さらに世間一般からあたかもそれがヒップホップの代名詞のように扱われてしまった事に対する、戸惑いと反感のような思いだったといえるだろう。
それまでの日本のヒップホップカルチャーが形作られるのを見てきた人達にとってDragon Ashというバンドは、「さんピンCAMP」に象徴される、国内のヒップホップシーンで培われてきた文脈とは別のところから突如として現れたものだった。
そのように突然現れたようなバンドが、自らが愛好し形作ってきたカルチャーの名前を謳い、世間の注目を集めることになったことに対し、憤懣やるかたない思いを抱いた人達が当時のヒップホップシーンに少なからずいたことは想像に難くない。
それはあたかも、自分たちが開墾し耕してきた畑の上で、突如として別の畑からやってきた連中によって、その育てていた作物を奪われるような感覚だったのかもしれない。
とにかく当時の日本のヒップホップシーンはまだアンダーグラウンド的なカルチャーという風潮が色濃く、メジャー音楽シーンのマスレベルまで届くヒップホップの楽曲やラッパーの存在は限られていた。
つまり日本全体の音楽シーンの中でも、ヒップホップにまつわるシーンはまだまだ未成熟であったとも言える。
そんな中で、前述のようにDragon Ashというバンドと「I LOVE HIP HOP」という楽曲は、それ自体がロックとヒップホップが重なり合った地点から生まれた、それまでの日本の音楽シーンでもさらに異質の存在だった。
そしてその楽曲がマスレベルまで届くほどメジャー音楽シーンで売れることになったことで、一部の人達から戸惑いや反感の声が挙がることも当時不思議なことではなかっただろう。
しかし一方で、その他多くのヒップホップカルチャーなどに馴染みの薄い一般層にとっては、そういった音楽ジャンルの隔たりはそれほど関係なく、シンプルにDragon Ashの楽曲のカッコ良さや魅力が伝わった結果大きなヒットに繋がったとも言える。
このように、Dragon Ashという存在をどのような視点・文脈・立場で捉えるかによって、主張・論点・価値観のズレが生じることとなり、「I LOVE HIP HOP」と日本のヒップホップカルチャーについての議論はその後長い間続くことになった。
そして、結果的に当時そのようなDragon Ashを巡る賛否の言説は、奇しくも「Grateful Days」でフィーチャリングされたZeebra擁するキングギドラが、2002年にリリースした「公開処刑」に辿り着くことになるのだった。
「彼らが『I LOVE HIP HOP』っていうタイトルの曲を出してしまったところから、すべてが始まっていると思う」──交錯するZeebraとKjそれぞれの思いと意図
ここからはZeebraが「I LOVE HIP HOP」と「公開処刑」について自伝で語った事と共に、1999年当時にKjがインタビューでDragon Ashとヒップホップの関係についてどのように語っていたのかを見ていこうと思う。
以下では、2008年に発行されたZeebraの自伝から、「『公開処刑』の真相」という章の中でDragon Ashと「I LOVE HIP HOP」について書かれている一部を引用する。
ドラゴン・アッシュがラップを一般的に広めたのは間違いないと思う。でも彼らがやっていることとヒップホップとは違うところがある。
「I LOVE HIP HOP」って曲を出しちゃったがゆえに、多くの人たちはあれがヒップホップなんだって、思ってしまっていた。
ヒップホップシーンを引っ張る人間としては、その誤解を解かなきゃという思いもあった。
もし彼らがオルタナティブヒップホップって言ってくれたら、誰も文句は一言も言わなかったと思う。でもそういうワードは特に出てこなかった。
本人たちもヒップホップ・グループだとは言ってなかったけれどね。
でも「I LOVE HIP HOP」って曲を出したら、そう思われて当然だ。
そこからの色々な流れがあったので、オレが自ら手を下すしかないなと思った。
~
「公開処刑」のリリックで言ってることに尽きるんだけど、彼らが「I LOVE HIP HOP」っていうタイトルの曲を出してしまったところから、すべてが始まっていると思う。
ここでZeebraは、Dragon Ashがラップを一般的に広めたことは認めつつも、「I LOVE HIP HOP」というタイトルの楽曲を出したことについては異を唱えている。
しかし一方で、「彼らがオルタナティブヒップホップって言ってくれたら、誰も文句は一言も言わなかった」としつつも、「本人たちもヒップホップ・グループだとは言ってなかったけれど」と書いている。
そして続けて「でも「I LOVE HIP HOP」って曲を出したら、そう思われて当然だ」としながら、「そこからの色々な流れがあったので、オレが自ら手を下すしかないなと思った」と書いている。
さらに次の項では「『公開処刑』のリリックで言ってることに尽きるんだけど、彼らが『I LOVE HIP HOP』っていうタイトルの曲を出してしまったところから、すべてが始まっていると思う」としている。
また引用部以外の記述からは、ZeebraがDragon Ashに抱いた違和感が「I LOVE HIP HOP」という楽曲だけから生じたものではなく、その前後からのKjのラップスタイルやステージアクションなどの類似を含めた複合的なものだったことが分かる。
(※「公開処刑」に至る経緯を考える上でも重要な「Summer Tribe」を象徴とする一時期のZeebraとKjのラップスタイルなどの類似、そして模倣とオリジナリティについての話はまた別の論点が含まれるため、ここでは深く触れずにまた別の記事で改めて考えてみたいと思います。)
一方で引用部の記述から見えてくるのは、一つにはやはりDragon Ashという存在をどのような文脈で捉えるのかということに関係してくる話だと言える。
そして「彼らがオルタナティブヒップホップって言ってくれたら、誰も文句は一言も言わなかった」という言葉は、当初から純粋なヒップホップではない事を明言していれば問題はなかったという意味としてもとれる。
そしてこの話は、現在でも時折繰り返される「Dragon Ashはヒップホップか否か」という論争とも深く結びついていると言えるだろう。
またZeebraの自伝には、先ほどの引用部に続く項で「公開処刑」とDragon Ashについて以下のような記述があることも加えておく。
ただ、オレとしてはあの曲を出す目的は、溜飲を下げるとか、「見たかこの野郎!」みたいに発散することではなかった。
いい加減に気づけよって事だ。
~
しばらく時間がたって、彼らが新しい作品を発表したとき、わかってくれたのかな、オレの思いがちょっとは届いたのかなと思った。
それは彼らがそれまでの流れを払拭するような作品、自分たちのオリジナリティある音楽を作ろうとしていると感じたから。
もちろん手放しで拍手する状況ではないんで、何もしなかったけど、普通に良かったなとは思った。
その後の彼らの活動のスタンス、いいんじゃないかなって思っている。
ラップをやるのは構わない。こっちにはわだかまりは一切ない。
もう終わったことだと思っている。
もともとTMCみたいなことをやるのは、最初はうれしいなと思ったし、応援していたんだよね。
当時、まだメジャー・デビュー前だったリップ・スライムやラッパ我リヤをフックアップして、やってくれてるスタンスはすごく評価してたし、上手くやってほしいな、頑張ってほしいなっていう気持ちはあった。
では、ここからは当のKj自身がDragon Ashとヒップホップの関係についてどのような認識を持っていたのかということを、当時のインタビューを振り返りながらみていこうと思う。
以下は、Dragon Ashに対する賛否の声が挙がる中で、「Grateful Days」と「I LOVE HIP HOP」、アルバム「Viva la Revolution」がリリースされた前後の1999年に行われたインタビューから、Kjが自身の音楽性や音楽シーンについてどのように捉えているかを抜粋したものとなっている。
なんかやっぱり「Buzz Songs」ん時っていうのは…まあ今もそうですけど、やってる事が好きな事だから人にヒップホップと思われようが、パンクと思われようが、ミクスチャーって言われようが全然知ったこっちゃないっていうか、何とも思わなかった。
どう聴くであれ、ドラゴンアッシュを聴いてくれて好きって言ってくれんだったら、どっか共通項があるわけですから。
だから「Buzz~」の頃は全然よかったんですよね、だからどういう捉え方でドラゴンアッシュを見てても全然構わなかったんですけど。
なんか…もう最近は売れ過ぎちゃったから、「日本のヒップホップ」って言われたらドラゴンアッシュしか知らないような中高生って凄くいると思うし。
で、流行で聴いてる人も半分ぐらいいると思うんだよね、こんだけ売れるってことは。
だから凄い多くの人の耳に入って、知識のない人の耳にも触れて──嬉しい事なんすけど、それで日本でヒップホップが間違った方向になったりとかを、凄い懸念しているところですね。
~
だからいろんなところでそれは言ってるんですけど。
まあドラゴンアッシュはヒップホップ、パンク、スカ、レゲエとかいろいろあるじゃないすか。
でもそのテイストを本当に純粋に継承してるわけではないじゃないすか。
~
それを持ってきてドラゴンアッシュっていう音にしてるから……「うーん、これはヒップホップじゃねえよ」とか「これはパンクじゃねえ」って言われたりすんですけど、こっちも「これがヒップホップだよ!」「パンクだよ!」みたいな感じだとはまったく思ってなくて。
それは最近すごく頭にありますね。だからヒップホップ・アーティスト、日本にもたくさんカッコいい人がいるじゃないすか。そういうのをもっと雑誌でも取り上げるべきだし。
ブルーハーツってさ、「パンクで日本人は?」とかって言われたら、「ブルーハーツ」ってきっとみんな言うじゃん。
そういうのをきっと──結構あれって純粋なパンクだと思うの、手法とか。
でも今って多分、「ヒップホップは?」って言って、日本の全国の人に聞いたらきっと「ドラゴンアッシュ」って言うのが一番多いと思うんだ。
でも俺らって純粋なヒップホップじゃないし。まあミクスチャーじゃない、言っちゃえば。好きな部分とって、自分達らしく楽しくみたいなさ。
~
だからさ、今の俺らはポップスだよね。
パンクが好きな、ヒップホップが好きな人にとっては耳に入らない音楽。
最大公約数が一番大きいっていうか。そういうのがポップスだと思ってたんだけど。
でもさ、ヒップホップもパンクも、最大公約数めちゃめちゃ取れる音楽なんだよね、ほんとは。そういうの、めちゃめちゃ証明したかったし。
ブルーハーツがパンクでは証明してるし。
~
だから俺はね、ヒップホップの最大公約数を上げたくて今、やっている。
パンクでブルーハーツが証明したことを、ヒップホップでドラゴンアッシュが証明したい。
~
俺は自分がヒップホップじゃないと思ってるから。そう言える自信はないね。根拠も。でもそう言えるようにはなりたい。
「これがヒップホップだ、聴けよ」つって。それは言いたいし。
「これがドラゴンアッシュなんだ」って言ってれば、単純に今は楽だし。いがみ合いもなく済むでしょ。
「ドラゴンアッシュはああいう音楽だから」っていう、特別扱いされてるからさあ。
ヒップホップとしても成功したいし、パンクとしても成功したいんだよね。音楽として成功したいのが当面の目標かな。
ちょっとアルバムとか録り出してるけど、カッコいいっすよ。「何だ、おい!」って感じだよ(笑)。
もうベクトルがどこに向いてんのかわかんないようにしたいんだよ、俺、ここまで来たんだからさ。
…だからロックだけ聴いてる人はわかりづらいとは思う、次は。
でも、「Grateful Days」とか「Let yourself~」ってさ、ヒップホップとかロックとかそういう概念じゃなくて、曲としていいじゃん。
そういうので勝負したい。
~
フージーズとかビースティに誰もジャンルって訊かないじゃん。そうしたいんだよね。
その上で「いいねドラゴンアッシュ」みたいな。そういうとこの勝負だよ。
だから結局ヒップホップを広めたいんじゃなくて、ロックを広めたいんじゃなくて、自分がいいと信じているものを認められたい。ないしは広めたいだけなんだよね。
だからそうじゃない人たちの勢力をもっと押しやりたいよね。あわよくば押し出したいよ、メディアから。
だから、「メディアとしての、宣伝塔としての降谷建志」っていうのは、嫌じゃない全然。
むしろホントに使いたい人がいるんだったらガンガン使ってくれて構わないと思う──それが音楽のためならね。
~
確かにちょっと前では想像つかない。俺、ラップだもんね。
ヒップホップ畑の人がそう思ってなくても、やっぱり降谷建志っていうのはヒップホップって思われてる。
それは自分がそういう音をやっているわけだし、言い訳できないとこだと思うのよ。
それには曲で応えるのかな。歌詞でとかね。
でもまだ凄い埋もれてるヒップホップの人達はいっぱいいるし、ロックの人達もいっぱいいるから、そういう宣伝塔になれるんだったらなりますって。
それがTMCだったりとかするわけだし。
ここに挙げたインタビュー内で太字で強調した部分は、すべてこの論考記事の要点と結びついていると言える。
まずは、この当時のKjのインタビューから読み取れる内容を箇条書きにしてまとめると以下のようになる。
Dragon Ashがヒップホップやパンクなど、何と呼ばれるか自体はもともと気にしていなかった。
自分たちが好きな音楽をやっていて、それを聴いて「好き」と言ってもらえるなら、どのように捉えられても構わないと考えていた。
しかし、Dragon Ashが売れたことで「日本のヒップホップ=Dragon Ash」と受け取られることへの責任を意識するようになった。
多くの人にヒップホップが届くことを嬉しく思う一方で、自分たちだけがヒップホップの代表のように認識されることには危機感を持っていた。
Dragon Ashは、ヒップホップやパンクなどの音楽を「純粋に継承」するのではなく、好きな要素を自分たちなりに取り入れてDragon Ashという音にしていた。
そのため、自分たちから「これがヒップホップだ」「これがパンクだ」と主張するつもりはなかった。
一方で、ヒップホップやパンクの「最大公約数」を広げることには強い意欲を持っていた。
ブルーハーツがパンクを大きな規模へ広げたように、Dragon Ashによってヒップホップもより多くの人に届くようにしたいと考えていた。
ジャンルを名乗ることよりも、「曲として良い」と認められることを重視していた。
ヒップホップかロックかという分類ではなく、フージーズやビースティ・ボーイズのように、ジャンルを超えて「いいね、Dragon Ash」と評価される音楽を目指していた。
最終的な目的は、特定のジャンルを広めることではなく、「自分がいいと信じているもの」を広め、認めてもらうことだった。
そのためなら自分自身を「宣伝塔」として使ってもらうことも受け入れ、まだ知られていないヒップホップやロックのミュージシャンを広める役割も引き受けようとしていた。
以上のように、当時のKjの発言から見えてくるものの中で最も重要なのは、Kj自身が「Dragon Ashは純粋なヒップホップではない」とはっきり自覚し発言していた点だろう。
さらに「だからさ、今の俺らはポップスだよね。パンクが好きな、ヒップホップが好きな人にとっては耳に入らない音楽」という認識まで持っていたことが分かる。
なので、上記のZeebraの自伝から引用した「もし彼らがオルタナティブヒップホップって言ってくれたら、誰も文句は一言も言わなかったと思う」という点に関しては、少なくともインタビュー内ではKjは当時一貫して自分達を純粋なヒップホップだとは考えていないことを明言し続けていたと言える。
また、この当時のインタビューについて一つ前提となるのは、この頃のKjがまだ20歳そこそこの若者だったということだ。
なのでこれらのインタビューから一貫して感じられるのは、野心に満ちた20歳の若者が自分が作った音楽、そして自分が良いと思う音楽をどのように社会に届けるかについて、精一杯に現状認識をしながら奮闘している様子でもある。
なので、Kjが当時「ヒップホップ・ロックを広めたいんじゃなくて、自分がいいと信じているものを認められたい・広めたいだけ」、「『Grateful Days』とか『Let yourself~』ってヒップホップ・ロックという概念じゃなくて、曲としていい。そういうので勝負したい」という認識を持っていたことはとても重要なことだ。
Kj自身にとっては、ジャンルの隔たり自体はそもそも問題ではなく、シンプルに自分が好きで良いと思った音楽が認められ、広められることを願っていたことが分かる。
そして一方で、Dragon Ashが売れたことによって「Dragon Ash=ヒップホップ」と見なされ、「ヒップホップはDragon Ashしか知らない人達が多くいる」ことに対する危惧を抱いていたことも重要な点だ。
だからこそ、「日本にもたくさんいるカッコいいヒップホップアーティストをもっと雑誌でも取り上げるべき」、「まだ埋もれてるヒップホップの人達の宣伝塔になれるんだったらガンガン使ってくれて構わない」という言葉から、自身の活動を媒介にしてでも日本にもっとヒップホップが浸透していくことをKjが願っていたことも分かる。
これは上記のZeebraの「もともとTMCみたいなことをやるのは、最初はうれしいなと思ったし、応援していた」という言葉とも重なっている。
そして、このようなZeebraとKjの当時のことついての言葉を並べて感じるのは、当時の2人の思いや意図は少なからず重なり合っていながらも、結果的に大きくすれ違っていくことになってしまったということだ。
なので1999年時のKjのインタビューを見た上で「公開処刑」後の余波を振り返った時に、個人的に最も皮肉で悲劇的に映るのは、日本のヒップホップシーンの活性化を共通して願っていたKjとDragon Ashが、結果的にヒップホップシーン自体から距離を置かざるをえない形になってしまったことだ。
「公開処刑」から20年以上が経過した現在でも、時折「公開処刑がなかった世界線」についての話がSNSで取りざたされている。
そして「『公開処刑』が無ければDragon Ashとヒップホップシーンは、それぞれどのように関り日本の音楽シーンの中で活性化していけたのか」といった事についての話がSNS上で繰り返しなされているのも、この「公開処刑」の影響がいかに大きなものだったかを物語っているのかもしれない。
Zeebra自身も「Dragon Ashがラップを一般的に広めたのは間違いないと思う」と書いているように、当時のDragon Ashの楽曲が日本のマスレベルの一般層まで受け入れられたことで、ラップ/ヒップホップのカッコ良さや魅力を知ることになった人は当時多くいた。
そしてKjが当時「宣伝塔になれるんだったら使ってくれて構わない」と語っていたように、結果的にDragon Ashの楽曲をきっかけにヒップホップの魅力を知った人達が、よりコアなヒップホップアーティストを聴くようになることもあった。
なので、結果的に「公開処刑」によってDragon Ashが日本のヒップホップシーンと距離を置くことに繋がってしまったことは、多くの音楽リスナーの間でも少なからず戸惑いや反感のような思いがあったことだろう。
そしてまた、インタビュー内でKjが「ブルーハーツがパンクで証明したように、自分はヒップホップの最大公約数を上げたくてやっている」と、ブルーハーツの存在を参照しているのも重要な点だ。
ブルーハーツはKj自身が音楽を始めるきっかけになった存在であり、「音楽をやっていることのすべての初期衝動になっている」と語るほど影響を受けている存在だ。
なのでこの記事のタイトルが「ロックンロールの文脈から見る『I LOVE HIP HOP』」となっているように、次の記事では当時のDragon Ashと「I LOVE HIP HOP」について語る甲本ヒロトの言葉をみながら、さらに別の視点から話を深めていこうと思う。