
【明治文豪、令和を歩く】第22回:ちいかわビギナー
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店の奥まった席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、湯気の立つカップを前に向かい合っている。

……おい、荷風君。さっきから隣の席の若い女性が、鞄にぶら下げている妙な白くて丸い人形を撫で回しているのだがね。あれは何だ? 熊か? それとも餅か?

ああ、あれですか。先生、ご存じありませんか? 『ちいかわ』というやつですよ。『なんか小さくてかわいいやつ』の略だとか。
わたくしも浅草の仲見世あたりを冷やかした時に見かけましたが、今や猫も杓子もあの奇妙な生き物の虜になっているようですな。

『なんか小さくてかわいいやつ』か……。そのまんまのネーミングだな。
しかし、その顔を見てみたまえ。眉間に皺を寄せて、何やら泣き出しそうな、あるいは怯えているような顔をしている。可愛らしいというよりは、どこか薄幸な感じが漂っているが。

先生、そこなのです。わたくしが聞き及んだところによりますと、彼らの世界は見た目に反して、実に世知辛いものだそうです。
彼らは毎日、草むしりをしたり、怪物――『討伐』とか申しましたが――と戦って小銭を稼ぎ、それで酒を飲んだりラーメンを啜ったりして暮らしているのだとか。まるで、その日暮らしの裏長屋の住人そのものではありませんか。

ほう、労働をしているのか。あのナリで?
それは驚いた。てっきり現代人が好む、ただ愛玩されるだけの無為徒食のペットかと思ったが……。草むしりをして日銭を稼ぐとは、まるで私の『道草(※)』の健三か、あるいは貧乏書生のような生活じゃないか。
……そうか。現代人は、あのキャラクターの中に『ファンタジー』を見ているんじゃない。自分たちの『写し鏡』を見ているんだな。

左様でございます。わたくしが思いますに、あれは現代の『戯作(げさく)』ですな。
可愛らしい皮を被ってはいますが、その実、描かれているのは不条理な暴力や、貧困、そして『強くなりたい』『認められたい』という哀れな欲望です。
昔の読本(よみほん)に出てくる妖怪変化の世界よりも、彼らの世界の方がよほどタチが悪い。いつ理不尽な目に遭うかわからない不安の中で、それでも『さすまた』という粗末な武器を手に震えながら立っている。その姿に、現代のサラリーマンたちは涙を流して共感しているのでしょう。

『さすまた』か……。竹槍でB29に挑むようなものだな。
しかし、どうも解せん。私が『吾輩は猫である(※)』を書いた時は、猫の目を通して人間社会を風刺したが、この『ちいかわ』とやらは、風刺される側の人間が、自ら進んでその哀れな境遇を愛でているわけか。
これは一種のマゾヒズムではないのかね? 自分が牛と競争して腹を裂く蛙のような目に遭っているというのに、それを客観視して『かわいい』と慰めている。これは、精神の逃避か、それとも諦観か。

諦観でしょうなあ。
わたくしが『すみだ川(※)』で描いたような、滅びゆくものの美しさとはまた違いますが、現代人は『弱さ』や『不完全さ』を肯定されたがっているのです。
昔は『坂の上の雲』を見上げるような、立身出世の物語が好まれました。しかし今は、草むしりの検定試験に落ちて泣いている姿に癒やしを感じる。
『私も辛い、お前も辛い、だから一緒に泣こう』という、傷の舐め合いのような連帯感。わたくしには、それがどうも、爛熟しきって腐りかけた果実のような、甘ったるい頽廃(たいはい)の匂いに感じられますよ。

君の言う通りかもしれん。
だが、その『検定に落ちて泣く』という話を聞くと、私などは少し彼らに同情したくなるよ。競争社会の呪縛は、あんなメルヘンの世界にまで浸透しているのかと思うとね。
現代という時代は、人間から『隠れ家』を奪ってしまった。現実が辛いから物語に逃げ込んだはずなのに、その物語の中でさえ、彼らは労働し、資格を取り、承認欲求に苛まれている。
……荷風君、私はなんだか、その『ちいかわ』というやつが、神経衰弱にかかった現代人の魂が具現化した幽霊のように見えてきたよ。

幽霊、ですか。ふふふ、確かに。
東京という巨大な墓場を彷徨う、白くて小さな幽霊たち。そう思うと、あの間の抜けた顔も、なにやら哲学的な虚無を湛えているように見えてくるから不思議です。
ま、わたくしとしては、あんな得体の知れぬ生き物よりも、吉原の路地裏で三味線を弾いている猫の方が、よほど情緒があって好きですがね。