
【明治文豪、令和を歩く】第31回:連なるマクドナルド
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店の奥まった席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、湯気の立つカップを前に向かい合っている。

荷風君、先ほどから表の通りで、赤と黄色の派手な看板を掲げた店に、若い人々が吸い込まれるように入っていくのを見かけますが……。あれが噂に聞く『マクドナルド』というものですか。西洋の食事を、まるで工場の製品のように素早く供する場所だと聞きましたが。

ええ、先生。私もこの現代の銀座を歩くたび、あの看板の色彩の俗悪さに、思わず目を背けたくなります。かつて私が巴里や米国の田舎で見た、あの素朴な、あるいは洗練された食の情趣は、あそこには微塵もございません。あれは食事というよりは、空腹を埋めるための『作業』、あるいは文明という名の巨大な歯車に注される油のようなものでございますよ。

作業、か。確かに。僕がロンドンで下宿していた頃、不味い牛肉を無理に胃に流し込んでいた時のことを思い出します。しかし、あの一種異様な合理性はどうだね。注文すれば瞬時に紙に包まれた塊が出てくる。それを人々は、まるで新聞を読む合間に煙草を燻らすような軽薄さで口に運んでいる。かつて『三四郎』たちが上野の精養軒で、慣れぬナイフとフォークに苦心しながら、西洋という巨大な理想を咀嚼しようとしていたあの頃の、滑稽でいて切実な緊張感はどこへ行ってしまったのか……。

左様でございますね。私がかつて明治の末に『プランタン』というカッフェーを創設した頃、私たちはそこに一種の芸術的香気を求めたものでした。しかし、マクドナルドにあるのは、化学的に製造された色付葡萄酒のような、どこか空々しい味ばかりです。あの店内の椅子を見たまえ。客が長居をせぬよう、わざと座り心地を悪くしてあるという噂さえあります。情緒も、余韻も、すべてを効率という名の下に削ぎ落とした、実に現代的な、石版刷りの雑誌の表紙のような風景ではありませんか。

しかしね、荷風君。僕はこの『マクドナルド』という現象の中に、現代人の抱える深い『神経衰弱』の影を見る気がするんだ。彼らは、ゆっくりと食事を味わうだけの精神的な余裕を失っている。だからこそ、あの記号化された、どこで食べても同じ味がするという『安心』を求めて群がるのではないかね。個性が消滅し、すべてが平均化された世界……。それは僕がかつて『現代日本の開化(※)』で予言した、外発的な開化の、一つの極致かもしれない。

(窓の外を眺めながら)先生の仰る通りかもしれません。米国の田舎で私が食べた、あの薩摩芋のふかしたのや、樽漬けの林檎のような、土の匂いのする美味は、もはやこの都会のどこを探しても見当たりません。人々は、マクドナルドの黄色いMの字を、あたかも文明の灯台であるかのように信奉している。あれは、かつての江戸の菓子や果実が持っていた、季節の移ろいや俳諧の興とは正反対の、乾燥した虚無の味でございます。

ははは、君にそう言われると、あのハンバーガーというやつが、何だか恐ろしい毒薬のように思えてくるね。だが、まあ、たまにはあの騒々しい店内に身を置いて、その俗悪さを観察するのも、現代の世態を識る上では悪くないかもしれない。……いや、やはり止めておこう。僕の胃袋は、あんなハイカラな代物を消化できるほど、若くはできていないからね。荷風君、やはり私たちは、もう少し珈琲の香りの残る、静かな場所へ移るとしよう。