
環境と責任
尋ねられもしない敗因を、実に詳細に報告する者がいる。
ただし、その話の主語は一度も自分にならないのだ。
「相手が強すぎた」
「味方が頼りなかった」
「環境が悪かった」
なるほど、言い分はあるだろう。
勝負とは、いつでも公平な条件で行われるものではない。実力以外の要素が結果を左右することもある。
しかし、環境が悪かったという説明と、自分に落ち度がなかったという結論は、必ずしも一致しないのだ。
それでも、彼の敗因分析は実に徹底している。
自分以外のあらゆるものを検証し、最後まで自分だけは検証の対象に加えない。
「環境」という言葉は、随分と便利な免罪符である。
さて、そんな人物を見つけては、冷笑を浴びせる者もいる。
「だから勝てないんだよ」
「弱い奴ほど他責する」
「発言権などないのに」
彼らの実力は、確かに優れているのかもしれない。積み重ねた努力も、勝ち取った結果も、それ自体は正当に評価されるべきだ。
ところが、いつの間にか話は勝敗の分析から、人間の格付けへと移ってゆく。
負ける奴は努力が足りない。考え方が甘い。だから見下されても仕方がない。
そして、その格付けの権利が自分にあることに疑問を持たない。
勝負の上手さを競っていたはずが、いつの間に人間の優劣まで決める競技になったのだろうか。
どうやら、勝利を人間の価値にまで両替できると思っているらしい。
その両替所は、本人の頭の中にしかないというのに。
そして、この二種類の人間が出会うと、実に興味深いことが起きる。
敗れた者は、勝者の傲慢な態度を見て「強い奴はこれだから」と自らの反省を忘れる。
勝った者は、敗者の言い訳を聞いて「弱い奴はこれだから」と自らの侮蔑に磨きをかける。
互いの言動が、互いの偏見を裏付ける証拠となるのである。
もっとも、当人たちは満足しているのかもしれない。
片方は敗北の責任を引き受けずに済み、もう片方は勝利の快感を他人への優越感にまで延長できる。
どちらも、相手が期待どおりに愚かでいてくれる限り、自らの正しさを疑わずに済むのだから。
敗者は自分の判断を顧みず、勝者は自分の振る舞いを顧みない。
自分以外のあらゆるものを検証し、最後まで自分だけは検証の対象に加えない。
実に仲のよい対立である。
冗談と保険|知者の泉
笑いを取ったのは自分だが、その代償を支払うのは他人らしい。