
雷神、主を諫む|第2章 丹生島
断章
怒るのは、たやすい。
声を荒らげれば、相手は黙る。黙れば、こちらは勝った気になる。だが、黙った者の胸の内までは、変えられぬ。
わしは若いころ、ずいぶん怒鳴った。戦場でも、評定の席でも。怒鳴って、勝って、何も残らなんだことが、幾度もある。
年を取って、ようやく分かった。
本当に言わねばならぬことは、低い声で言うものじゃ。
相手が耳を澄まさねば聞こえぬほどの、低い声で。
一
それより半月ほど前。
日向、務志賀。
川の流れが海に注ぐあたりの、なだらかな丘の上に、新しい町が生まれかけていた。
切り出したばかりの白木の柱が、冬の日に、まぶしく光っている。槌の音が、朝から晩まで、絶えることがなかった。丘のいちばん高いところには、南蛮寺の礎石が据えられ、その上に太い木の十字が、空に向かって立てられていた。
宗麟は、毎朝、その十字の前に立った。
ここに、誰もが飢えず、誰もが祈れる国をつくる。身分も、家柄も、問わない国を。
夢ではなかった。今、目の前で柱が一本ずつ立ち、屋根が一枚ずつ葺かれていく。宗麟は、その音を聞きながら、胸の奥が、少年のように熱くなるのを感じていた。
霜月の、ある朝のことだった。
丘の下の道を、一頭の馬が、狂ったように駆け上ってきた。
乗っていた武者は、鎧が裂け、顔の半分が血で黒く固まっていた。馬から転げ落ちるように降りると、宗麟の足もとに、這うようにして、うずくまった。
「……耳川にて」
声が、出なかった。武者は、何度も、唾を飲み込んだ。
「お味方、総崩れにございます」
槌の音が、止んだ。
丘の上の、すべての音が、消えた。
宗麟は、武者の顔を見下ろしていた。何を言われたのか、すぐには、分からなかった。
「……佐伯は」
ようやく、声が出た。
「討死」
「吉弘は。田北は。斎藤は」
武者は、名を呼ばれるたびに、首を横に振った。
宗麟は、一歩、後ずさった。
足もとが、ぐらりと揺れた気がした。いや、揺れたのは、足もとではなかった。
振り返った。
丘の上に、白木の十字が立っていた。冬の空を背にして、何も知らぬげに、まっすぐに。
その十字が、急に、ひどく遠いものに見えた。
「お屋形様。島津が、ここへも参りまする。すぐに、豊後へ」
家臣が、宗麟の袖を引いた。
宗麟は、動かなかった。
十字を見上げたまま、小さく口が動いた。
祈りの言葉ではなかった。
死んだ家臣たちの名だった。一人ずつ、一人ずつ、宗麟は、その名を口の中で呼んでいた。
その日のうちに、宗麟は、務志賀を捨てた。
建てかけの柱も、運び込んだ南蛮の品々も、すべて置き去りにして、豊後へ逃げ帰った。
背後で誰かが火を放ったのか、丘の上から、細い煙が、一すじ、空へ立ちのぼっていくのが見えた。
宗麟は、二度と、振り返らなかった。
*
輿は、冬の道を南へ下った。
立花山を発って四日目、山を一つ越えるたびに、空気が変わった。筑前の海風が消え、豊後の山の匂いがしてくる。
筑前の平野を抜けると、道は筑後川に沿って、東の山あいへ入っていく。
川をさかのぼった先に、日田の盆地がある。四方を山に囲まれた、すり鉢の底のような土地だ。朝は、盆地いっぱいに霧が溜まり、昼近くまで晴れない。輿の上から見下ろすと、白い霧の海の中に、家々の屋根が島のように浮かんでいた。
日田を過ぎると、また山だった。
玖珠の高原に出ると、空が急に広くなる。台地の上に、頂を刃物で切り落としたような、平らな山がいくつも並んでいた。冬枯れの芒の原を、冷たい風が渡っていく。
さらに東へ進むと、由布の山が見えてくる。二つの峰を持つ、堂々とした山だった。その麓を回り込み、長い坂を下りきると、ようやく豊後の海が開けた。
府内は、その海に注ぐ大きな川の河口に広がる町である。
平らな土地に、町家がびっしりと並んでいる。かつては南蛮の船が出入りし、異国の品があふれた港町だった。だが今、道雪が通り過ぎた府内の町は、どこか、くすんで見えた。
府内から臼杵までは、海沿いの道を、さらに南へ一日あまり。山が海に迫り、道は岬を越えるたびに、上ったり下ったりを繰り返した。
道雪は、簾を上げたまま、外を見ていた。
道の脇を、ぼろをまとった男たちが、北へ向かって歩いていく。槍を杖にしている者がいる。片腕を布で吊っている者がいる。耳川から逃げ帰った兵たちだった。
誰も、輿を見上げなかった。
輿の脇を歩く六助が、小声で言った。
「殿。ああいう者らが、この十日、ずっと続いちょるそうです」
「数えたか」
「数えきれません」
道雪は、黙って簾を下ろした。
昼過ぎ、小さな村で輿を止めて、休んだ。
村の入り口に、焼け焦げた寺の門だけが残っていた。耳川の前から焼けていたのか、それとも別の戦で焼けたのか。道雪には分からなかった。
茶を運んできた村の老婆が、輿の家紋を見て、顔をこわばらせた。
「大友様の、お侍で」
「そうじゃ」
老婆は、湯呑みを置くと、しばらくためらってから、言った。
「日向で、お寺をたんと焼いたっち、聞きました」
六助が、はっとして老婆を見た。
「それで神仏の罰が当たったんじゃっち、言う者もおります。わたしは、そげなこと、言いませんけど」
※〜っち=〜と。〜だそうだ
老婆は、それだけ言うと、逃げるように奥へ引っ込んだ。
道雪は、湯呑みを手に取った。茶は、ぬるかった。
「殿」
六助が言った。
「気にせんでください。年寄りの、たわごとです」
「たわごとではない」
道雪は、茶を飲み干した。
「あれが、豊後の声じゃ」

二
臼杵に着いたのは、それから二日後の昼だった。
潮の匂いがした。
臼杵の海は凪いでいた。三方を水に囲まれた丹生島の城だけが、冬の光の中で黒かった。夏に来たときは、あれほど明るく見えた城だった。
臼杵の町は、湾の奥の、わずかな平地に身を寄せるように広がっている。背後には、低い山々が屏風のように連なり、町を三方から囲んでいた。
町の家並みは、海に向かって開けていた。寺の屋根があり、南蛮寺の十字があり、異国の言葉で書かれた看板を掲げた店まであった。港には、唐の船や南蛮の船が、帆をたたんで停まっていた。
その港の目の前に、丹生島が浮かんでいる。
島といっても、町からは、目と鼻の先だ。潮が引くと、西側の浅瀬が現れて、歩いて渡れるほどになる。島はまるごと切り立った崖で、その上に石垣と櫓が、海を見下ろすように積み上げられていた。
道雪は輿の上から、石垣に据えられた砲を見た。国崩し。お屋形様が南蛮から買い求めた、誇りの品だ。二門あるはずのそれが、一門しか見えなかった。もう一門は、日向へ運ばれたまま、戻らなかったという。
南蛮の船に載せるために造られた大砲で、南蛮人は「フランキ」と呼んでいた。砲身の尻から弾を込め、火薬を詰めた筒を差し替えれば、続けざまに撃てる。その音は雷のようで、城の石垣さえ崩すほどの力があるという。
人はそれを、国崩しと呼んだ。
雷神と呼ばれる男が、雷のような大砲を見上げている。道雪は、そのことに気づいて、少しだけ口の端を曲げた。
城の中は、静かだった。
廊下ですれ違う家臣たちは、皆、目を伏せていた。誰かが死んだ家の静けさだった。いや、家中の半分が、誰かを失っていた。
広間の手前で、輿は止まった。
道雪は、自分の足で畳に上がった。左足が、思うように動かない。六助が肩を貸そうとして、手を振り払われた。
「ここからは、わし一人じゃ」
宗麟は、窓際に座っていた。
襟元に、小さな十字の飾りが光っている。この夏に受けた洗礼の印だ。
痩せた、と道雪は思った。
夏に会ったときの、少年のような目は、どこにもなかった。頬がこけ、目の下の隈は、墨というより、痣のようだった。
「道雪」
それでも宗麟は、少年のような声で言った。
「遠いところを、よう来てくれた。足は、どうじゃ」
「足の話は、あとにいたしましょう」
道雪は、座った。
「耳川のことを」
宗麟の笑みが、消えた。
道雪は、数えた。
田北殿。吉弘の若殿。斎藤。佐伯。軍配者の角隈石宗まで。
「一人ずつ名を挙げれば、一晩かかります」
声は低かった。怒鳴らなかった。それが、かえって広間を冷やした。控えていた小姓が、息を詰めるのが分かった。
「止めたはずでござる。日向は遠い。兵糧は伸びる。何より、殿ご自身が、あの戦に何を見ておられたのか」
宗麟は、答えなかった。
「家中では、田原紹忍殿ひとりを責める声がござる。采配を誤った、腰抜けじゃ、と」
道雪は、首を横に振った。
「紹忍殿の責めは、ござる。陣を率いた者は、皆、同じ罪にござる。若殿も、同じ。じゃが、いちばん重いのは」
道雪は、言葉を切った。
宗麟が、顔を上げた。自分の名が出るのを、待っている顔だった。
「殿を止められなんだ、わしでござる」
宗麟の目が、わずかに見開かれた。
長い沈黙があった。
遠くで、砲の台座を磨く音がする。
宗麟は、窓の外を見た。
「……あの者たちは、わしの夢を、信じてくれた」
「信じさせたのが、罪でござる」
宗麟の肩が、わずかに揺れた。
それきり、何も言わなかった。言えなかったのだろう。
道雪も、それ以上は言わなかった。言うべきことは、言った。あとは、この人が自分で抱えるしかない。
三
道雪は、膝を立てた。
立ち上がるのに、時がかかった。宗麟が、思わず腰を浮かせる。
「よい」
手で制して、道雪は背を向けた。
戸に手をかけた時、言った。
「夜は、早う休まれよ」
返事はなかった。
廊下へ、一歩、踏み出した。
「……母か、お主は」
かすれた声だった。
道雪の手が、止まった。
母。
実の母の顔は、もうおぼろだった。物心つくころには、いなかった。覚えているのは、継母の声だ。臼杵の家から嫁いできた人だった。
病の父に代わって、幼い自分を育ててくれた人だった。厳しく、そして温かかった。叱るときは、いつも低い声だった。
この臼杵の潮の匂いは、あの人の着物の匂いに、少し似ている。
一拍、置いた。
「母上なら、もっと早う、叱っておりましょう」
そう言って、廊下へ出た。
背後で、宗麟が、ほんの少しだけ笑った気配がした。
それが泣き声に聞こえたのは、気のせいだったろうか。
四
その夜、道雪は、城下の宿に泊まった。
六助たち定衆は、土間で車座になって、粥をすすっている。疲れきった顔の中で、若い者が一人、こっそり六助に尋ねた。
「六助さん。殿は、お屋形様を、叱りなさったんですか」
「声は、聞こえんかった」
六助は、粥の椀を置いた。
「じゃけど、出てこられたときの殿の顔は、叱った人の顔ではなかった。叱られた人の顔じゃった」
若い者は、よく分からないという顔をした。六助も、それ以上は言わなかった。
道雪は、奥の部屋で、障子を細く開けていた。
冬の夜気が、流れ込んでくる。
海の向こうに、丹生島の城が、黒く浮かんでいた。
その一角に、灯りがともっていた。
亥の刻を過ぎても、子の刻を過ぎても、灯りは消えなかった。
道雪は、しばらくそれを見ていた。
ふと、遠い昔のことを思い出した。
三十年あまり前、府内の港に、南蛮の船が初めて着いた年のことだ。船には、見たこともない髪と目の色をした商人たちが乗っていた。
先代のお屋形様、義鑑様に、こう進言した者がいた。あの異国の者どもを殺して、積み荷を奪ってしまえばよい、と。義鑑様は、その気になりかけていた。
そのとき、まだ十六の若殿が、父の前に進み出た。
欲にかられて、罪もない者を殺してはなりませぬ。遠くから商いに来た者たちは、むしろ守るべきでございます。
若殿は、父をまっすぐに見て、そう言った。声が、少し震えていた。
義鑑様は、苦い顔をした。だが、最後には、商人たちを殺すのをやめた。
道雪は、そのとき、広間の末席にいた。三十をいくつか過ぎたばかりだった。
震える声で父を諫めた少年の顔を、道雪は、今も覚えている。
あの方も、かつては、諫める側だったのだ。
誰よりもまっすぐに、主の過ちを正そうとした少年だった。
その少年が、今、城の灯りの下で、眠れずにいる。
道雪は、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
眠れないのだろう。死んだ者の名を、一人ずつ数えているのだろう。それが、あの人なりの弔いなのかもしれない。
それでも。
「……早う休めと、言うたであろうが」
誰にも聞こえない声で、道雪は、つぶやいた。
灯りは、明け方まで消えなかった。
史実メモ
耳川の敗戦を知った道雪は、宗麟とその子・義統、そして合戦を指揮した重臣を厳しく批判したと伝わります。批判の場所や言葉は記録に残っておらず、道雪が臼杵を訪ねる場面は創作です。
耳川の戦いの前、大友軍が日向の寺社を壊したことが記録されています。キリシタンだった宗麟の意向が影響したとする見方があります。
戦場で大友軍を率いた総大将は田原紹忍(親賢)で、宗麟と義統は戦場にいませんでした。
宗麟が一五七六年に手に入れた大砲「国崩し」は二門とも十門ともいわれます。耳川の戦いに持ち出されたという説、延岡に残されたという推測もありますが、確かではありません。
道雪は幼くして母を亡くし、継母(臼杵鑑速の姉)に育てられました。継母の人柄の描写は創作です。
宿の場面、六助と若者の会話、城の灯りは創作です。
一五四五年、府内近くの港にポルトガル商人が来たとき、十六歳の宗麟(義鎮)は、商人を殺して財産を奪おうとした父・義鑑に「欲にかられて罪もない外国人を殺してはならない」と進言して、父をいさめたと伝わります。道雪がその場にいたという描写は創作です。
耳川の戦いのとき、宗麟は日向の務志賀に本陣を置き、キリスト教にもとづく理想の町づくりを進めていたとされます。敗報を受けた宗麟は、豊後へ引き揚げました。務志賀で敗報を聞く場面の細部は創作です。
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