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【その剣、とこしえに國を護る礎となれ~宮簀媛~】⑧全12話

    神話に刻まれなかった、ある妃の『拒絶』と『覚醒』の物語。本作は全12話の連載小説です。(毎日20時更新)


    第8話 神の子、地に立つ




    まもなく、夜が明ける。

    剣を前に、宮簀媛は一人、部屋にいた。
    涙を流すことは、許されない。
    未練も、許されない。
    剣を持たず出立するという、あの御方。
    だがそれを、あの供の者たちが許すはずなどないだろう。

    ーーふん。

    なら、夫の手を煩わせるまでもない。
    我が確かに預かったのだと、己が皆に見せつけ、胸を張り見送るまで!

    「白菊」
    宮簀媛の声が、屋敷に細く鋭く響いた。
    やがて、白菊に持ってこさせた布を剣に巻き付けてあの婚礼衣装に身を包むと、白菊の手を借りずに独り紅をさした。

    震える指先を抑え、唇に引いた一筋の紅。
    それは散りゆく花のような儚さと、決して折れぬ刃の鋭さを同時に宿しているようだった。


    ーー泣くものか。
    泣いてたまるものか。
    この熱い熱い胸の内……今伝えずして、いつ明かす!
    夫がいつしか果てる時、最後に瞼(まぶた)に浮かぶおなごになろうぞ!

    胸に、剣を抱いた。
    ーーふ。ほんに、不思議な温さよ。
    宮簀媛は、そっと顔を寄せた。

    歩みを進める衣の裾には、淡い花のような赤が密かに滲んでいる。
    宮簀媛は静かな笑みを浮かべていた。
    これは、二つの孤独が結ばれた証である。
    恥じるものではない。
    世が何と忌(いま)おうとも、これこそが私と夫の、運命の幕開けの衣なのだ。

    表がにわかに騒がしくなった。
    数人の供が、あわただしく声をたてている。
    剣を持たぬと夫が責め立てられているのだと、すぐに分かるほど。

    ーー今だ。

    「待たれい!」
    居住まいを正した宮簀媛がいよいよ、表に姿を現した。

    「奥! 見送りは無用と申したはず!」
    叫び、日本武尊は振り返った。
    そして、その瞬間。
    日本武尊は、目を奪われた。

    純白の婚礼衣装。
    赤子のおくるみを抱くかのように剣を抱いた宮簀媛が、そこにいた。

    「……奥」

    しん。

    喧騒が一転した。
    水を打ったような静けさだった。
    居合わせた者たちも皆、言葉を失った。

    庭火の残り火が、ぱちりと爆ぜた。

    宮簀媛は深く息を吸い込むと、心に決めた覚悟のまま声を上げた。

    「殿! 殿の総ては、我が確かにお預かりいたしました。
    ご存分に! ご存分に立ち向かうが良い!」

    宮簀媛が抱いている布の端からは、剣の柄が覗いている。
    数拍ののち、我に返った父親が割って入った。

    「何を手にしている! それはタケル殿の剣ではないか! そなた、いよいよ血迷ったか!」
    宮簀媛の父親がにじり寄った。

    「いいえ! これは、殿と私との御子にございます! 私は、神の御子を授かりました。ゆえ、たとえ父親であろうとも、口出しご無用と存じます!」

    まさかの言葉だった。
    ーーこれは、まことに我が娘か……。

    何か言いかけた父親の言葉を、宮簀媛はひと睨みした。
    強い目だった。
    父親は、次の一手を打つことが出来ないでいた。

    その様子を目で認めると、宮簀媛は夫に向き直った。

    「殿。この子は、私が確かにお預かりいたしました。御父上に恥じないよう、立派に育ててご覧に入れます。この子は、日の本に平安をもたらす、豊かな御子になりましょう」

    宮簀媛は言葉を続けた。

    「皆の者、よおく聞けい! 我は殿より、殿の総てをお預かりした。
    よいか! これより直ちに、国を臨む熱田の岬に社を建てるのじゃ! この御子は、そこで千年、二千年、いや、とこしえに国を護る神となられますぞ!」

    「奥、良くぞ申した!」
    間髪入れず、夫は応えた。

    「皆の者に告ぐ! 我が妻は、即ち我(われ)自身であるぞ! この旨、しかと心得よ! この地は、日の本の総ての拠り所となろうぞ!」

    この言葉が放たれた瞬間、何かが降り立ったかのように、空気が「ぴしり」と鳴った。

    日本武尊はそれを確かめると、オオタカに向かった。

    「聞いたな。傷も曇りも許さぬ。そなたは、我が妻と我らの子に力を尽くせ。よいな」
    オオタカは目を伏せたまま頭を下げた。

    「参る!」

    身を翻し、日本武尊は旅立った。
    宮簀媛はその姿を深く深く、胸に刻もうとした。
    涙は邪魔だ。
    決して、決して零してなどやるものか!


    日本武尊は、これに手を挙げて応えた。
    ーーすまぬ。これ以上は、そなたの姿を見ていられぬ……。

    戦う星の元に生まれた我が身。
    見えない何かと戦いながら生きてきた宮簀媛。
    その姫に、自分はあまりにも過酷な戦いを突きつけてしまった。
    だが、姫は見事に受けて立ったのだ。
    美しかった。
    すさまじいほどに、美しかった。


    ーー歩もう。
    今度は、私自身の力で。
    さもなくば、あの姫の覚悟があまりに不憫である。

    日本武尊は、昇りゆく陽の中にゆっくりと溶けていった。



    「……行ったか」    
    宮簀媛はとうとう涙を流さなかった。
    白菊も、主とともに耐えた。
    「オオタカ」
    「はい」
    不意に呼ばれて、オオタカはかしこまって答えた。

    「大儀であった。休ませたいところだが、もう一つ頼みがある。我に、短刀をひと振り打ってはくれぬか」
    「お伺いいたします。奥方様、それは何に使われますか」
    オオタカは伏したまま尋ねた。

    「ん? 髪を落とすのよ。畏れ多くも、この子は神の御子。神に仕えるには、俗世から離れるのが習いと聞いたのでな。分かったなら、すぐに打て」
    「……は」
    オオタカは低く答えた。

    ーー今でなくては覚悟も鈍ろう…。
    オオタカには、宮簀媛の胸の内が痛いほど分かっていた。

    「すぐに炉へ戻り、打ち上げます。しばし」
    「すまぬな。さあ、者共、炉の奥の林を切り開け。神の子は、そこに座(おわ)す! 我も共にそこに移る。良いか!」

    もはや有無を言わさぬ口調であった。
    宮簀媛の父親が何かを言おうとしたが、母親はそれを押しとどめた。

    「殿。こればかりは私も姫の味方にございます。何も感じませぬか。私は今、同じおなごとして、姫の気持ちが良く分かります。これほどまでに結びついた絆を、親の我らが解く訳にはいきますまいぞ」
    「しかし……。これでは、あまりに姫が不憫ではないか!」

    父親は、親としての情けで激しく揺れていた。
    「いいえ。姫も、タケル殿も、まことに見事にございますよ。我らが子の、なんと誉れ高いことか」
    「……しかし」
    もはや、父親にそれ以上の言葉はなかった。

    「あなた様のお気持ち、よおく分かります。ですが、姫は自らの歩みを示しております。己のためではなく、日の本のためにでございます。決して、無謀とは思いませぬ。どうか、どうか、お止め下さいますな」

    もはや呟くしか術がなかった。
    そこに立つ娘の姿を見つめた。
    幼き日の面影は、もう、ない。

    あるのは、一国の安寧を背負わんとする一人の気高い女の姿であった。
    父親は苦しそうに目を細めると、妻に次の言葉を委ねた。
    これを受けると、妻が凛とした声を上げた。

    「よろしいか。この地は今これより、草薙剣を祀る地と相成りました。明日を待てば、得難いご縁に傷が付きましょう。皆の者、良いな。すぐに取りかかりませい」

    ーー草薙の、剣。
    この名が呼ばれた瞬間、オオタカは息を呑んだ。
    ーーかつて、須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から見出したという剣の名前だ。
    あの神剣の名を、奥方様は今、この地に刻まれたのか。

    珍しく、おとなしく夫に仕えていた奥方がこの場を仕切った。
    一同はようやく我にかえり、それぞれの持ち場に向かってバタバタと動き出した。

    「母様……」
    思いがけない母の言葉に、宮簀媛は言葉を失っていた。
    母は、目で力強くうなずいた。

    「姫。母として、おなごとして、そなたを誇りに思います。ここぞと言う時に、人は己を知るものよ。なんとまあ……ご立派になられましたなあ。母は、この上なく嬉しゅう思います。
    そなたはこれより身を清め、若子(わかこ)様に仕える準備をされるがよい。後は、この母にお任せあれ」

    この言葉に、とうとう宮簀媛の緊張の糸が緩んでしまった。

    「おお、良いことじゃ良いことじゃ。おなごはな、御子をなす時、そうして喜ぶものよ。良き母君に、おなりなさりませなあ」
    「……母様!」
    宮簀媛は生まれて初めて、母の胸に飛び込んだ。
    母はそれを受け止めると、しっかりとその肩を抱いた。

    「姫。そなたは私の、大事な娘じゃ」

    「……姫様。若子様のお召し物を、整えてございます」
    傍らで控えていた白菊が、静かに、だが確かな慈しみを込めて告げた。

    後に、身を清めた宮簀媛はなんのためらいもなく、静かに髪を落とした。
    この髪は、社の礎(いしずえ)に埋められたという。

    ◇  


    新しい社の建設現場で、オオタカは槌の音の中に、あの時の「声」を探していた。
    炉を作る時から響いていた、剣の「もう一つの意志」。

    ーーあの剣は、迷い、愛し、不自由を選ぼうとする主の心を分かち合おうとしているのかもしれぬ。

    剣は、タケル殿と共に旅に出るものとばかり思っていた。
    だが、あの剣は自ら、ここに留まることを選んだように思う。

    姫と共に、この国を護る「柱」となるために。


    不便さをも愛おしむという、神の慈しみ。
    オオタカは、それがようやく分かったように思う。

    ふと気づけば、あの強風はピタリと止んでいた。
    凪いだ海は鏡のように天を映し、西へと傾き始めた陽光が、舞い上がる木屑を鮮やかに透かし、黄金に輝かせている。
    まるで、新たな聖域に満ち満ちている光の粒のようであった。

    カーン……!
       カーーン……!!

    乾いた槌の音が辺りに響く。
    オオタカの目の縁に、いま、初めての涙が溢れた。

    「オオタカ様!  これでどうでしょうか!」

    若い職人の声が響く。
    オオタカは小さく舌打ちをした。

    「様なんて、つけるんじゃねぇ……」

    つぶやいて、オオタカは鼻をすすり、呼ばれた方向へ歩いて行った。



    第9話「雨の杜、慈雨の契り」はこちらからご覧ください↓


     
     
    地域などに伝わる史実等を基に執筆し、それらを自ら語り伝えるというスタイルで活動している、お話しライブライターの微将蓮です。 苦難を受けた先人たちの知恵や覚悟を「今と未来」に伝えるために、願いと祈りと願い込めて作品を作っています。ライブ原稿、そして小説を綴っています。

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