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【その剣、とこしえに國を護る礎となれ~宮簀媛~】⑨全12話

    神話に刻まれなかった、ある妃の『拒絶』と『覚醒』の物語。本作は全12話の連載小説です。(毎日20時更新)

    第9話 雨の杜、慈雨の契り



    「白菊、不思議なこともあるものよ」
    宮簀媛は、傍らにいる白菊に声を掛けた。
    「どうされました」
    白菊は折り目正しく答えた。
    「雨の音がする」
    「雨、でございますか」

    白菊は戸の開かれた庭を眺めた。雲ひとつない秋空が広がり、潮の香を含んだ風が、新しい社を吹き抜けている。

    「そうじゃ。しとどに濡れるような、重い雨音が耳の奥で響いておる」

    すでに季節は移り、木々はすっかり色づいている。
    社はあれよあれよと言う間に築かれ、宮簀媛は剣をここに奉じ、白菊と数名の供とで移り住んでいた。

    あの豊かな髪を落とした短刀は、宮簀媛の懐にいつもあった。
    住み慣れた屋敷よりは手狭で簡素な造りではあったが、宮簀媛はここで静かに祈りを捧げていた。

    「奥方様。空はこのように晴れておりまするが」
    「ふ。だから不思議と言っておろうに」
    この頃の宮簀媛の言動には、どこか空虚な印象を受ける。


    白菊の胸が痛んだ。
    ふふ、と宮簀媛は微笑んだ。
    「そなた、我が気でも触れたとでも思っておるのか」
    「とんでもございません」
    宮簀媛はやはり、苛立ちもせずに微笑んでいた。

    「案ずるな。この子は不思議な御子でな。この母にいつも語りかけておるのよ。おうおう、我には聞こえておるぞ。さ、白菊。早めに戸を立てるがよい」

    ーー母。
    この言葉に、白菊は改まった。
    「奥方様……。はい、それではそのように」

    宮簀媛は軽く微笑み、頼んだぞ、とだけ答えた。
    白菊は静かに跪座(きざ)し右膝を立てると、衣の裾を柔らかく抑え立ち上がった。
    全く嫌味のない動き方だった。

    白菊、と宮簀媛はもう一度声を掛けた。
    「叔母さま。感謝します」
    思いがけない言葉に驚いた白菊は振り返った。
    宮簀媛は頭を下げていた。

    「奥方様! なにをなさいます!」
    「若子が教えてくれましてな。そなたは、母様の妹御でいらっしゃると。これまでの無礼の数々、どうぞお許し下さい」

    白菊は慌てて駆け寄った。
    「後生でございます。どうかおやめ下さいませ!」
    「叔母さまが重ねたご苦労を思うと、恥ずかしくてなりませぬ。どうか、我が若子の母としてふさわしくありますよう、良きお導きをお願い申し上げます。この通りです」
    宮簀媛の肩に触れようとした白菊は、思わず手を伸ばした。
    次の瞬間。

    ガラガラガラガラ……!

    突如として天空に稲光が走り、間髪入れず耳をつんざくような雷鳴が轟いた。
    白菊は飛び上がるほど驚き、外に目を向けた。
    空は瞬く間に黒い雲で覆われたゆく。
    湿り気の強い海風が熱を帯びた土の匂いを巻き上げたかと思うと、間もなく大粒の雨が大地を叩きつけた。
    肌を刺すような冷たい飛沫が、ひとときの白菊の涙を隠すように吹き込んでくる。

    宮簀媛は、ゆっくりとした口調で言った。
    「のう。若子が申したとおりじゃろう」


    「奥方様」
    激しく雨打つ庭から、オオタカの控えめな声がした。
    「おお、よいところに。オオタカ、手を貸して下さらぬか。急ぎ戸を立てねば」
    「ご安心を。後はこちら側だけにございます」
    まだ乾かぬ瞼をそのままに、白菊は答えた。
    「何と、相変わらず手の早いことよ。男手はやはり心強いものですな。ただ、ここは女ばかりの社です。つまらなくはございませんか?」
    白菊は深く安堵してオオタカに話しかけた。
    その語り口は、昔からなに一つ変わらない。

    「なんの。港に行けば、あらよっと見事に手のひらを返した輩ばかり。薄気味悪い呼び名がついて、近頃ますます居心地が悪うございます」
    「ほんに、オオタカは」
    二人の会話を笑いながら聞いていた宮簀媛が間に入った。

    「殿のお墨付きを頂いた途端じゃものなあ。さぞ尻の座りが悪かろうて」
    「ああ、かゆくてたまらんわ」
    幼馴染みは声を上げて笑った。


    「私は夕餉の支度をして参ります。オオタカ、それでは」
    白菊は優しく席を退いた。


    雨はまだ、ザンザと降っている。
    ーー殿は、濡れてはおるまいか……。
    宮簀媛は夫の旅路を案じた。

    「気がかりであろう」
    宮簀媛の心のうちを思うように、オオタカは語りかけた。

    「そうよのう」
    「は、素直なそなたはなんとも気味が悪いわ」
    「……そうか」
    「まぁ、仕方あるまい」
    「ふふ、そうよのう」


    いつもの手応えがない。
    オオタカは話を変えた。

    「おう、覚えておるか。幼いころに泉を探しに山あいに入って行ったことじゃ。なんでも魔物が住まうとかで、皆が恐れて近づかなかった。二人で探しに行ったなぁ」

    「ああ、あれか」
    宮簀媛の目がパッと輝いた。
    「懐かしい。さんざ叱られたな。そなたのせいで納屋に閉じ込められ、まことに怖い思いをした」
    「行きたいと駄々をこねたのはそなただろう」

    オオタカはカラカラと笑った。

    「魔物が出るかも知れぬと言うに、そなたは怖いもの知らずもほどがあるわ」
    「のうオオタカ。魔物はほんにおったのだろうか」
    「さぁてなぁ。とうにあの御方が討伐なさったかも知れぬぞ」

    ーーそうか、オオタカとも泉の話をしておったのだな。
    オオタカ、その泉、我はもはや見つけておるよ。ゆめゆめ、探しに行くことはないがな。

    分かっていても、オオタカには言えぬ。
    オオタカの寄せる思いに宮簀媛が気づくのは、遅すぎた。
    重なる思い出はやはり、どうしても夫との日々に立ち返ってしまう。


    気がつけばふと押し黙る宮簀媛を見るのは、初めてだった。
    オオタカはまた次の言葉を探した。
    けれど、今は何も見つからなかった。
    これまでになかった沈黙が、漂っていた。

    やがて、強くなった雨音をかき分けるように、白菊の優しい足音が聞こえてきた。

    「奥方様。今宵はオオタカも交えて召し上がりましょうか。このように闇が深くては、私も少々心細く思います」
    「そうじゃな。オオタカ、いかがか」
    「いや、女子ばかりの社に長居をする訳にもいかぬ」
    「そうか。なればいくらか持たせよう。召し上がるが良い」
    「ありがたい」
    オオタカは、庫裏へ向かう白菊に続いた。

    ーー恩にきるぞ、オオタカ。
    宮簀媛は、その背に向けて小さく語りかけた。

    オオタカはバシャバシャと雨音を立てる坂道を下っていった。
    白菊に持たされた包みが濡れないように身をかがめ、足を早めていた。

    「お帰りなさいませ」
    オオタカの住まいの手前で、一人の女の声がした。
    「……タエ?」
    「はい。驚かせてしまい、申し訳ございません。あの、ご迷惑でしょうが、父が……」
    見ると、その手にはささやかな夕餉の支度が整えられている。
    「すまぬ。社からも、今いくらか貰って来たところだ」
    「お社から?  あ、どうしましょう。あの、私、余計な事を」

    ーー父、な……。

    タエの父親は港の職人の長で、オオタカを目の敵にしていた筆頭だった。
    オオタカがタケルの目に留まってからというもの、一番先に手のひらを返したのも、この男である。

    「すみません、持ち帰ります」
    「いや、よい。……ありがとう」
    礼を言われ、タエは素直に頬を染めた。

    港の女の中でも取り分け愛らしいと、評判の良い娘だ。
    タエがオオタカに想いを寄せているのは、誰の目にも明らかだった。
    娘の想いを知ればこそ、父親の当たりが人一倍強かったのも道理であったことだろう。
    だが、なのだ。
    ーー面倒なことよ。


    「……暗くなった。送って行こう」
    「本当ですか?」
    タエは素直に喜んだ。
    オオタカは苦笑していた。

    (……不便なるは人の心。その不便さも、また良きものよ)

    タエを伴って歩き出したオオタカの耳に、ふいにあの剣の声が響いた気がした。
    こうして送ってゆく事が、何を意味するのかは分かっている。
    「夜の雨だ。仕方あるまい」
    雨の音が、余計な言葉をかき消してくれる。
    オオタカは重ねて自分に言い聞かせた。

    「オオタカ様、申し訳ありません」
    歩きながら、タエはそれでも嬉しそうに詫びた。
    「まさか、こんなに急に強い雨が降って来るとは思わなくて」
    「ああ……。いや、奥方様は雨が降るのをご存知だったそうだ」
    「まあ、本当でございますか? やはり姉子(あねご)様は特別なお方なのですね!」

    「姉子様?」
    「はい、港では皆がそう呼んでおります。姉子様は先の事までお分かりになるのですね」
    「……それは何とも分からぬが」
    「きっとそうに違いありません。なんて素晴らしいのでしょう! 私、さっそく父に話して参ります。それではここで。オオタカ様、ありがとうございました!」

    林が切れたところで深々と礼をすると、タエは可愛らしく笑い、港への細い道を駆けて行った。

    オオタカは、後悔に似た想いに襲われていた。
    不用意ではなかったとは思うが、どうにもなにかが一人歩きを始めてしまったような気がしてしまう。
    ーー余計なことにならねば良いが。


    「では奥方様、ごゆるりとお休み下さいませ」
    白菊は寝屋の支度を整えた。
    「のう……」
    「はい」
    「白菊は、淋しくはないのか?」
    「何がでございますか?」
    「このようなこと、母様には話せはせぬ……。
    殿の声も、あの優しい眼も、温(ぬく)い手も、私は今も愛おしく想い出しております。髪を切り落とした時に、いよいよ俗世から離れるのだと覚悟致しました。いくらでも強くありたいものと、今も偽りなく願っております。
    ですが、目を瞑ると浮かぶのは、情けない事に……殿の事ばかりなのです。どこぞから殿がひょいと姿を現しはしまいかとついつい探してしまいます。
    我が子を立派に育てると殿にしっかり申した筈なのに、この身が浅ましい。
    叔母さまも、このような想いをされたのではなかったのでしょうか。お淋しくはなかったのですか」

    素直な心持ちを話す宮簀媛を、白菊は強く抱きしめたい衝動に駆られた。

    「奥方様……」
    白菊は、寝屋に横たわる宮簀媛の手の傍に控えた。
    「奥方様。私は、どなたかに身を寄せるということを知らずに参りました」
    宮簀媛は、え、と短い声をあげて飛び起きた。

    「奥方様。私は、私のしたいようにしたまでです。
    奥方様がお生まれになった時には、すでにあの屋敷に仕えておりました。あなた様と初めてお会いしたあの日の事を、今もありありと思い出せます。
    姉上様がたとは全く違う、こう……不思議な眼をなさっておいででした。その眼差しに私はすっかり魅入られてしまいましてね。この姫さまに是非にお仕えさせて頂きたいと、無礼ながらも申し上げたのです。叶わないならお暇をとまで願い出たのですよ」
    「なぜそこまで私に?」
    「何故でしょうなあ。でも奥方様?  白菊のその勘は当たっておりましょう? 他の誰が、奥方様と諍(いさか)いなく、これまでこうして来れたでしょう」

    ほほ、と白菊は優しく笑った。

    「私は、奥方様のすべてを誇らしく思って来たのです。もし夫が居たなら、間違いなく離縁になっておりましょう。でも奥方様。それよりもっと大切な事もあると、私は知ったのです」
    「叔母さま、それは一体何でございますか!」

    宮簀媛は真っすぐな視線を向けた。

    「そうですなぁ…。強いて申し上げるとするなら、己の幸せなど最後の最後にあればそれで良いと。それまでは、奥方様やお屋敷の皆様がまずはお幸せにあらせられること。さすれば、それが白菊の幸せ。
    このような私をすべて包み込んで下さるようなお方を、私は今も……」

    白菊はちょっと笑って、

    「待っておるのですよ、奥方様。
    ……あの方が、私の行き着く場所に来るか、来ないか。こればかりは神のみぞ知る勝負にございます。
    再びまみえた時、何とつまらない女子よと言われたくないのです。
    それに、それぐらいの方でなければ、この白菊、心動くこともございませぬ。奥方様のお傍で、随分と目を肥やして参りましたゆえ」
    「なんと! それは……殿よりも、オオタカよりもさらに上を行く殿方でなくてはなりませぬな」

    二人は声を上げて笑った。

    「では私も、倣いましょう。いつか殿にお会いできたなら、殿にお褒め頂きたい」
    白菊は優しく笑った。

    「たまにはこうして、おなご同士のお話など致しましょう、奥方様」
    宮簀媛は、白菊の差し出した手をそっと握り返した。その手の温もりに、張り詰めていた心が解けていくのを感じた。

    雨は、物音をすべて吸い込むように、ただ静かに降り続いていた。

    ーー待つことも、我の戦い、か。


    「奥方様、港のものが訪ねて参りました」
    「港の?」
    潮気を含んだ重い風をすくっと切るように、揃えられた宮簀媛の髪が肩で揺れた。

    表に出ると、タエと父親が膝を突いている。
    「姉子様に、是非とも伺いたく参りました」
    父親がもったいぶったように口を開いた。

    ーー姉子様、のう。
    オオタカの言ったように、なんともむず痒い心地じゃな。

    父親は続けた。
    「この娘に縁談をと思っております。付きましては、その行く末をお伺い致したく思い、こうして参内致しました」
    「縁談か、それはめでたい話じゃ。タエも年頃。その器量では引く手あまたであろう。して、相手は」
    「はい、オオタカ様と思っております」
    「オオタカ?」

    顔を伏せたまま、タエは可愛らしく頬を染めた。
    「さようか……。少し待たれよ」
    「は」
    宮簀媛は踵を返すと、白菊を伴って奥へ向かった。

    あつらえた御簾を静かに引き上げると剣を抱き、宮簀媛は目を閉じた。

    薄ぼんやりと、オオタカが見える。
    見たこともないような良い笑顔をしている。
    幾人かの子に囲まれるオオタカの傍らに、幸せそうに微笑むタエの姿があった。

    なぜか、宮簀媛の胸が鋭い棘に触れたようにヒクと痛んだ。
    ーーこれが、我が置き去りにしてきた女子(おなご)の未練、というものか。

    軽く息を吐き振り返ると、剣を抱いたまま、宮簀媛は再び二人の前に立った。

    期待に満ちたタエの父親が、ひどく醜く見える。


    ーーオオタカ様、な。
    軽く感じるめまいの中で、そう思った。



    第10話「冬隣(ふゆどなり)に灯る」はこちらからご覧ください↓


     
     
    地域などに伝わる史実等を基に執筆し、それらを自ら語り伝えるというスタイルで活動している、お話しライブライターの微将蓮です。 苦難を受けた先人たちの知恵や覚悟を「今と未来」に伝えるために、願いと祈りと願い込めて作品を作っています。ライブ原稿、そして小説を綴っています。

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