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「どっちでも、いいと思うけどな」|葬送のフリーレン

    以前に、『葬送のフリーレン』の勇者ヒンメルが『勇者の剣』を抜くことができなかった、というエピソードについて、人間の「理想投影」と「歴史の書き換え」という視点から記事を書いた。
    (「偽物だろうが本物だろうが、関係ない」)

    今回は、そのときに取り上げた勇者ヒンメルのセリフを、また別の角度から読み解いてみたいと思う。

    真の勇者なら抜けるはずだと言われていた『勇者の剣』を抜くことができなかったヒンメルは、その直後に以下のように言った。


    僕は魔王を倒して、世界の平和を取り戻す。

    そうすれば、偽物だろうが本物だろうが、関係ない。

    アニメ『葬送のフリーレン』S1E12 - ヒンメル

    そう。関係ないのだ。

    本来であれば、魔王討伐に打ち勝った剣が、事後に「本物」と呼ばれるべきではないのか。
    もとの剣に付随しているラベルなんて、関係ないのだ。
    偽物だろうが、本物だろうが。

    そしてヒンメルは事実、レプリカの剣で魔王を倒し、「真の勇者」となった。

    偽物でも、本物でも、どっちでもいい。
    信じたい方を、信じればいい。

    この考え方は、『葬送のフリーレン』における信仰や思想のあり方にも通底しているように思う。

    思い出すのは、S1E4『魂の眠る地』だ。

    ヒンメル一行が、アイゼンの家族の墓参りをする回想シーンが出てくる。

    アイゼンは、かつて自分の村が魔族に襲われた時の話をする。

    するとアイゼンの横で、僧侶ハイターがひざまずき、墓に向かって祈りを捧げる。

    無信仰のアイゼンは、祈るハイターを見て「人は死んだら無に返る」だけだ、と言う。

    フリーレンも、「無に返る」考え方の方が伝統的で、彼女自身も天国には懐疑的だ、と話す。

    そこで、ヒンメルがこう言葉をはさむのだ。


    どっちでも、いいと思うけどな。

    アニメ『葬送のフリーレン』S1E4 - ヒンメル


    ヒンメルの、この「どっちでもいい」という言葉は、異なる信仰や信条を、突き放す言葉ではない。

    むしろ、人それぞれの選択を尊重し受容する、という意味の「どっちでもいい」であると私は解釈した。

    そして、ヒンメルの言葉に、ハイターが言葉を重ねる。
    僧侶である彼も「実在するかどうかはどうでもいい」と思っていることを明かす。

    その理由について、ハイターは以下のように説明する。


    でも、たとえ実在しなかったとしても、あるべきものだと思います。

    その方が、都合がいいからです。

    必死に生きてきた人の行きつく先が、無であっていいはずがありません。

    だったら天国で、ぜいたく三昧していると思った方が、いいじゃないですか。

    アニメ『葬送のフリーレン』S1E4 - ハイター


    そして4人は、全員で手を合わせ、墓に向かって祈りを捧げる。

    私が、大好きなシーンのひとつだ。

    異なるものを信仰していようと、無信仰であろうと、関係ない。
    大切な人の思想を尊重し、大切な人の大切な人に想いを馳せて共に祈ることができれば、それでいいじゃないか。

    ヒンメルたちが、そう伝えているように思うのだ。

    信仰も、思想も、生き方も、人それぞれでいい。

    このシーンを見ると、私はいつも願ってしまう。

    「どっちでも、いいと思うけどな」
    そんなふうに自然に言い合える社会が、現実にもあってほしい、と。



    余談になるが、私はこのヒンメルの「どっちでも、いいと思うけどな」というセリフと、4人全員で祈りを捧げる場面が好きすぎて、noteの「ぽていとぽたあと」という名前を選んだ。

    英語の「potato, potahto」にも、「どっちでもいい」「違いを気にしすぎなくていい」という意味がある。

    以下に詳しく書いているので、よければご一読ください。


    🪄


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