
【創作】森の奥の屋敷 (後編)
男は、ようやく都にたどり着いた。
都には大きな寺がいくつもあった。
高い塔がそびえ、
立派な衣をまとった僧侶たちが行き交っていた。
男は胸を躍らせた。
ここならば、きっと仏の道を学べるに違いない。
ところが、そう簡単にはいかなかった。
ある寺では、
すでに弟子が多すぎると断られた。
別の寺では、
修行を始めるには遅すぎると言われた。
ようやく話を聞いてくれた僧も、
男が十年間も下働きしかしてこなかったと知ると、
呆れた顔をした。
「それでは、何も知らぬのと同じではないか」
男は何も言い返せなかった。
寺から寺へと訪ね歩いた。
しかし、どこへ行っても思うようにはならない。
やがて持っていた銭も尽き、男は都を離れた。
どこへ行くという当てもなかった。
あの寺を出さえすれば、道は開けると思っていた。
都へ行けば、立派な師に出会えると思っていた。
自分は、いったい何をしてきたのだろう。
男は山道を歩き続けた。
ある夕暮れ、深い森に差しかかった。
木立の向こうに灯りが見えた。
男は足を止めた。
見覚えのある灯りだった。
近づいてみると、
そこには、あの屋敷があった。
門を叩くと、女が出てきた。
「おや、お帰りなさいませ」
まるで昨日別れたばかりのような顔だった。
男は、
女の顔を見た途端、
何とも言えぬ安堵を覚えた。
「また、世話になってもよいか」
「もちろんでございます」
女はうれしそうに男を迎え入れた。
男は再び屋敷で暮らし始めた。
何も変わっていなかった。
庭には花が咲き、
鳥が鳴き、
女はいつも男のそばにいた。
都で味わった屈辱も、
寺で過ごした苦しい日々も、
ここでは遠い昔のことのように思えた。
男は女と食事をし、
庭を歩き、
とりとめのない話をした。
女はよく笑った。
男も笑った。
季節は巡った。
男は、いつしか日を数えることもなくなった。
ところが、ある朝のことである。
庭を眺めていた男は、ふと思った。
このままでよいのだろうか。
自分は何のために寺を出たのか。
立派な僧になるという志は、どうしたのか。
男はその思いを振り払おうとした。
しかし、一度浮かんだ考えは、日を追うごとに大きくなった。
とうとう男は女に告げた。
「わしは、行かねばならぬ」
女は男を見つめた。
「また、行ってしまわれるのですか」
「うむ。ここにいては、わしは何も成し遂げられぬ」
女は黙っていた。
「都が駄目なら、
ほかの国へ行こう。
どこかに、わしの求める道があるはずじゃ」
すると女が言った。
「私を、また一人にしていくのかえ?」
男は顔を上げた。
女の声が、先ほどまでとは違って聞こえた。
「私は、ずっとそなたを待っていたのじゃ」
女の顔がゆがんだ。
目はつり上がり、
口は大きく裂け、額から二本の角が伸びてきた。
男は飛びのいた。
そこにいたのは、恐ろしい鬼だった。
「お、お前は、何者じゃ!」
女は何も答えない。
「やはり、おかしいと思っておった!
こんな山奥に屋敷があることも、何もかも!」
男は後ずさった。
「お前は鬼か! この化け物め!」
すると女は、低い声で言った。
「そなたは、どうなのじゃ」
「何?」
「自分の姿を見てみるがよい」
男は自分の手を見た。
手がなかった。
代わりに、
鋭い爪のついた大きな足があった。
腕には鱗が生え、
胴は長く伸びていた。
背中がうねり、
長い尾が床を打った。
男は竜になっていた。
「な、何じゃ、これは!」
逃げようとしても、
体が思うように動かない。
女の顔が浮かんだ。
寺の兄弟子たちの顔が浮かんだ。
都で自分を追い返した僧たちの顔が浮かんだ。
どうして誰も、
わしを認めぬのじゃ。
わしは、
僧になりたかっただけなのに。
胸の奥が苦しくなった。
何かが腹の底からせり上がってくる。
男は口を開いた。
その途端、
恐ろしい勢いで水が噴き出した。
水は座敷を満たし、
柱を折り、
壁を突き破った。
女が流されていく。
いつの間にか、
女の角は消えていた。
そこには、
初めて会ったときと同じ女の顔があった。
男は叫ぼうとした。
しかし、
口から出てくるのは
水ばかりだった。
屋敷が崩れた。
庭木が流れた。
女の姿が見えなくなった。
やがて、何もなくなった。
男は泣いた。
声も出さず、ただ泣いた。
ふと、男は目を覚ました。
自分は、
古びた地蔵堂の中に横たわっていた。
外では激しい雨が降っていた。
屋根から雨水が漏れ、
床は水浸しになっていた。
男の衣も、ぐっしょりと濡れていた。
夢だったのか。
男は身を起こした。
胸が苦しく、息が荒かった。
外では雷が鳴っていた。
男は、しばらく地蔵堂の暗がりに座っていた。
やがて、
雨の音を聞いているうちに、
男は眠ってしまった。
翌朝、目を覚ますと、
雨は上がっていた。
木々の間から朝日が差し込み、
鳥が鳴いていた。
男は立ち上がり、
地蔵堂の外へ出た。
森は静かだった。
昨夜の雨で、
道には水たまりができていた。
さて、どちらへ行こうか。
そう思って顔を上げたとき、
男は何かに気づいた。
少し離れた木の根元に、
人が倒れていた。
旅装束を着た女だった。
男は近づこうとして、足を止めた。
見覚えのある顔だった。
あの屋敷の女…….
男は、立ち尽くした。
(おわり)