
【創作】森の奥の屋敷 (前編)
昔、あるところに、男がいた。
貧しい武士の家の七男坊だった。
家には田畑もろくになく、
兄たちもそれぞれ暮らしに困っていた。
男が14歳になったある日、父親に呼ばれた。
「お前を養ってやる余裕は、もうない。寺へ行け」
こうして男は、
山あいにある寺に預けられることになった。
男は、初めのうちこそ落胆したものの、
やがて僧侶になるのも悪くないと思うようになった。
どうせ坊主になるのなら、
立派な坊主になってやろう。
仏の教えを学び、
修行を積み、
いつかは偉い高僧になるのだ。
ところが、
寺で男に与えられた仕事は、
掃除、炊事、薪割り、水汲みといった
雑用ばかりだった。
朝は誰よりも早く起き、
夜は誰よりも遅く寝る。
経を学びたいと願い出ても、
兄弟子たちは相手にしない。
「まずは下働きじゃ。それも修行のうちじゃ」
男はその言葉を信じた。
一年が過ぎ、三年が過ぎた。
しかし、男の仕事は何も変わらなかった。
そのうち、
兄弟子たちの振る舞いも気になり始めた。
檀家から酒をもらってきては、
夜な夜な飲んで騒いでいる。
法事から戻れば、
土産物の自慢ばかりしている。
経を唱える声は立派だが、
どうにも修行をしているようには見えない。
ある日、男は兄弟子に尋ねた。
「仏の教えを学ぶには、
いつになればよいのでしょうか」
兄弟子は酒臭い息を吐きながら答えた。
「お前にはまだ早い。
黙って薪でも割っておれ」
それからも男は働き続けた。
十年が過ぎた。
男は24歳になっていた。
ある冬の朝、
井戸から水を汲んでいるとき、
ふと思った。
この寺はおかしい。
十年も働いたのに、
自分は何一つ学んでいない。
いや、学べないのではない。
ここには学ぶべきものなど、
初めからなかったのではないか。
男は、その夜のうちに寺を逃げ出した。
都へ行こう。
都には名高い寺がいくつもあるという。
きっと、真に仏の道を求める僧たちがいるに違いない。
男はそう信じて、山道を歩き始めた。
幾日か歩いたころ、男は深い森に迷い込んだ。
道は細くなり、やがて獣道さえ見分けがつかなくなった。
日が暮れ始めた。
今夜は野宿かと覚悟したとき、
木立の向こうに灯りが見えた。
近づいてみると、立派な屋敷がある。
こんな山奥に、不思議なこともあるものだ。
門を叩くと、一人の女が出てきた。
年のころは二十代半ばほどだろうか。
美しい女だったが、
それ以上に、男は妙な懐かしさを覚えた。
初めて会ったはずなのに、
昔から知っているような気がした。
「おや、よくおいでなさいました」
女は男を見ると、うれしそうに笑った。
「さあ、お入りなさい。お疲れでしょう」
男は屋敷に招かれた。
温かな食事が運ばれ、
湯が用意された。
こんなことは、
生まれて初めてだった。
女は男の話を楽しそうに聞いた。
翌朝、男が暇を告げようとすると、
女は言った。
「まだ、よろしいではありませんか。
もう少しお休みなさいませ」
男は、その言葉に甘えることにした。
不思議な屋敷だった。
食べ物に困ることもなく、
女はいつも機嫌がよかった。
男が何か話せば、女は楽しそうに聞いた。
何も話さず庭を眺めていても、
女はそばにいて、同じように庭を眺めていた。
寺では、朝から晩まで働いていた。
ここでは、誰からも何かを命じられることがない。
初めのうち、男は落ち着かなかった。
だが、しばらくすると、
何もしない日々が心地よくなってきた。
春には花が咲き、夏には蝉が鳴いた。
秋には庭の木々が色づき、
冬には雪が積もった。
気がつけば、男は一年ほども屋敷で暮らしていた。
ある朝、男は女に言った。
「世話になった。だが、そろそろ行かねばならぬ」
女は不思議そうに尋ねた。
「どちらへ?」
「都じゃ。わしは立派な僧にならねばならぬ」
「ここでは、いけませんか」
男は答えられなかった。
何の不自由もない暮らしだった。
女と過ごす時間は楽しかった。
しかし、このままではいけない。
自分には、なすべきことがある。
「どうしても行かねばならぬのじゃ」
女はしばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。
「そうですか。それなら、お気をつけて」
男は旅支度を整えた。
門を出て、振り返った。
女は門のところに立っていた。
「また、おいでなさいませ」
男はうなずき、森の道を歩き始めた。
しばらくして、もう一度振り返った。
屋敷も門も見えなくなっていた。
もうそんなに歩いたのか。
屋敷での思い出に
後ろ髪を引かれる思いだったが
都へ向かう足を止めることはなかった。
(つづく)