
歴史改変SF 「奥羽列藩同盟のリジェクテッド・ヤンキー」 前編
鉄は嘘をつかない。
この言葉を、及川鉄平は半分だけ信じていた。
東日本大学金属材料研究所、博士後期課程二年。専門は鉄鋼材料の相変態と介在物制御。肩書きだけ聞けば立派だが、実態は、深夜二時にカップ麺をすすりながらX線回析画像を眺め、教授に「及川くん、論文は?」と刺される生物である。
釜石生まれ。 高校時代は少し荒れていた。少し、というのは本人申告であり、担任の記憶では「まあまあ荒れていた」に分類される。金髪、ピアス、原付、体育館裏。だが数学と物理だけは妙にできた。
「お前は外に出ろ」
高校の物理教師にそう言われ、仙台に出た。
地元を出たはずだった。 鉄と魚とラグビーと霧の町。狭くて、湿っていて、どこか古い匂いのする町。そこから逃げたはずだった。
なのに気づけば、鉄を研究している。
教授には一度、笑われた。
「及川くん、釜石出身で鉄鋼材料か。実にわかりやすいね」
鉄平はそのとき、缶コーヒーを握りつぶしそうになった。
「いや、偶然っす」
嘘だった。
鉄は嘘をつかない。 人間はすぐ嘘をつく。
その夜、鉄平は研究室の古い資料を漁っていた。
修士の後輩がデータを飛ばし、装置予約は詰まり、査読コメントは地獄の便箋みたいに長かった。鉄平は現実逃避として、幕末の釜石製鉄に関する古文書のコピーを眺めていた。
橋野。大橋。高炉。鉱石。木炭。羽口。出銑。
「こいつら、マジでやってんな……」
幕末の東北で、山の中に炉を築き、鉄鉱石から鉄を作る。 教科書の中では数行で終わる話だ。だが材料屋が読むと、その数行の奥に、汗と火傷と失敗と怒号が見える。
炉は根性では動かない。 鉱石の粒度、木炭の水分、送風、炉壁、スラグの流動性。 どれか一つ狂えば、炉はへそを曲げる。
鉄平は、資料の端に書き込まれた奇妙な一文に目を留めた。
火ハ土地ヲ覚ユ
達筆とは言いがたい。 妙に現代人くさい字だった。
「なんだこれ」
その瞬間、隣室の電気炉が唸った。
実験は止めたはずだった。安全確認もした。装置ログにも異常はなかった。 なのに炉の中が、白く光っていた。
鉄平は舌打ちし、作業着のまま立ち上がった。
「おいおいおい、深夜にやめてくれよ」
炉の扉を開いた瞬間、光が爆ぜた。
白ではなかった。 赤でもなかった。
それは、鉄が溶ける直前にだけ見せる、暴力的な橙だった。
耳の奥で、誰かが槌を打つ音がした。
次に目を開けたとき、鉄平は山の中に倒れていた。
鼻に土の匂いが入ってきた。 湿った木の匂い。炭の匂い。獣の匂い。 遠くから、波の音が聞こえた。
「……いや」
鉄平は起き上がり、周囲を見た。
道がない。 電柱がない。 防護柵がない。 コンビニがない。
山と、沢と、黒い炭焼き跡。 それから、遠くに煙。
彼はしばらく黙っていた。
そして、自分でも驚くほど情けない声で言った。
「ここ、俺の地元じゃねえか」
知っている山だった。 知っている海の気配だった。
だが、知らない釜石だった。
現代の釜石になる前の釜石。 製鉄所も、線路も、トンネルも、国道もない。 ただ、山奥に火があった。
煙の方へ歩くと、男たちが怒鳴っていた。
巨大な炉の前で、裸に近い格好の男たちが木炭を運び、鉱石を砕き、何かを必死に調整している。顔は煤で真っ黒だった。腕には火傷。足元には赤黒い塊。
鉄平は息を飲んだ。
高炉だ。
模型でも、博物館でも、図面でもない。 本物の炉だった。 生きていた。
男の一人が鉄平に気づき、棒を構えた。
「何者だ!」
鉄平は両手を上げた。
「怪しい者ではあります」
「怪しいではないか!」
「いや、そこは否定できねえけど」
腰の刀に手をかける侍がいた。鉄平は一瞬で悟った。 これは悪い夢ではない。 悪い夢なら、もう少し親切なはずだ。
「名を申せ!」
「及川鉄平。釜石の者です」
「釜石?」
侍は眉をひそめた。
鉄平は言い直した。
「この辺の者です。たぶん。いや、未来の」
「未来?」
「すみません、今のなしで」
そのとき、炉の前で叫び声が上がった。
「出ねえ! また詰まった!」
鉄平は反射でそちらを見た。炉の下部、湯口の周辺で男たちが慌てている。出銑がうまくいっていない。スラグの状態が悪い。送風の音も弱い。
「木炭、湿ってません?」
口が勝手に動いた。
炉前の男が振り向く。
「あ?」
「あと鉱石、粒がでかすぎる。炉内で還元が揃ってない。送風も弱い。羽口、詰まりかけてます」
全員が黙った。
鉄平は、自分の立場が一切改善していないことを悟った。 謎の格好をした男が、いきなり専門用語で炉にケチをつけている。 完全に不審者である。
侍が低く言った。
「斬るか」
「早い早い早い!」
鉄平は叫んだ。
「待ってください。直せます。たぶん」
「たぶんとは何だ」
「研究者の誠実さです!」
鉄平は炉の周りを走った。
木炭を触る。湿っている。鉱石を見る。粒度が荒い。炉壁を見る。補修跡が悪い。羽口の角度も怪しい。送風装置は涙が出るほど原始的だが、動いてはいる。
「水分飛ばせ。粒を揃えろ。細かすぎるのもダメ。空気の通り道を殺すな。そこの詰まり、無理に突くな、炉壁やるぞ!」
「お前、何者だ!」
「東日大金属研!」
「何藩だ!」
「大学です!」
「大学とは何だ!」
「そこからかよ!」
怒鳴り合いながら、鉄平は作業に入った。
身体が覚えていたわけではない。彼は職人ではない。炉前で働いた経験もない。だが、頭の中には相図があり、反応式があり、スラグの粘性があり、失敗事例があった。
知識は万能ではない。 それでも、何も知らないよりはマシだった。
数刻後、炉が低く唸った。
湯口から赤い流れが出た。 鉄だった。
炉前に歓声が上がった。
鉄平は膝から崩れ落ちた。 暑い。臭い。喉が痛い。手が震える。
そこへ、煤だらけの若い女が水を差し出した。
「飲みなさい。口だけは達者だけど、顔が死んでる」
「どうも」
鉄平は水を飲み、むせた。
女は無表情で言った。
「あなた、本当に釜石の人?」
「まあ、そうです」
「変な釜石ね」
「未来の釜石はだいたい変です」
女は首をかしげた。
「私は志乃。炉の手伝いをしてる」
鉄平は彼女の手を見た。 指先が荒れている。爪が割れている。火傷の痕がある。 だが動きに迷いがない。
「さっき、炉の色見てたよな。温度、わかんの?」
「温度?」
「熱さ」
志乃は炉を見た。
「赤が浅いとまだ足りない。白く怒ると危ない。音が湿ると炭が悪い」
鉄平は笑いそうになって、やめた。
放射温度計より古く、しかし、ときに正確な目。 理論ではない。身体知だ。
鉄平は小さく言った。
「すげえな」
志乃は少しだけ目を細めた。
「変な人ね。武士は職人を褒めない」
「俺、武士じゃないんで」
「じゃあ何?」
鉄平はしばらく考えた。
「院生」
「いんせい」
「まだ何者でもない人間だよ」
それから数日、鉄平は炉に張りついた……