
償い
「おはよう」
「もう昼前だよ」
「ほんとだ」
「今日は学校は?」
「無いよ、もう単位は取れてるし」
「そうかい、明香は部活に言ったよ。お昼は?簡単なもんならあるよ」
じいちゃんは優しい。
私が孫だからか、それとも女だからか、とにかく怒られた記憶がない。
いつもニコニコと穏やかな声で話してくれる。
私はその優しさに、つい甘えてしまうのだ。
来春からは就職で家を出る。じいちゃんはきっと寂しがるだろうな。
私は由美、二十一歳の大学生。父と母は一昨年の春、車の事故で亡くなった。残された私と妹の明香(あすか)を引き取り、面倒を見てくれているのが、じいちゃんだ。
事故の後、私たちはじいちゃんの住むこの町に引っ越してきた。
祖母は私が生まれる前に病死したと聞いている。
じいちゃんは家事のすべてを完璧にこなし、元喫茶店経営というだけあって料理も上手く、三人暮らしに不自由はなかった。
「今日の晩御飯は何?」
「いい鯵がスーパーにあったから、フライにしようかね」
「最高! 大好き」
「ハハハ、お前は単純だな。さあ、行ってきなさい」
私は午後からのバイトへ向かった。
数年続けている郊外のファミレスは、客層も落ち着いていて居心地がいい。
しかし、その日は異様なほど混み合っていた。
「いやあ参った。ここ何年かで一番パスタを茹でた日だったよ」
チーフの半田さんが額の汗を拭う。
バイト終わり、帰り道が一緒になった半田さんが不意に言った。
「そういえば由美ちゃん。こないだスーパーでおじいさんに会ったよ」
「えっ、そうなの?」
「ああ。綺麗な女性と一緒だったから、声はかけそびれちゃったけど。
なんだか由美ちゃんに似てた気がするなあ。ただ、顔色が真っ白で、フラフラ歩いてたのが気になったけど」
誰だろう。親戚にそんな人はいないはずだ。
帰り際、私はじいちゃんに頼まれていた「お酒」を買うために、スーパーへ寄った。
「ただいまー」
「おかえりー」
居間でくつろいでいた明香が言った。
夕食の食卓には、宣言通り揚げたての鯵フライが並んでいた。
「おいしい! なんだかすごく……元気がでる味がする」
明香は屈託なく笑い、フライを頬張る。
その無垢な笑顔を見ていると、胸のざわつきが少しだけ収まった。
私は食後、さりげなく切り出した。
「じいちゃん、こないだスーパーで綺麗な女の人と一緒にいたんだって?」
その瞬間、じいちゃんの箸を持つ手が止まり、表情が消えた。
「……誰がそんなことを?」
「バイト先の半田さん。私に似てたって」
じいちゃんはゆっくりと顔を上げ、私を凝視した。
その瞳は濁り、底知れない暗闇を湛えていた。
そして、逃げ道を塞ぐような静かな声で語り始めた。
「……由美。お前は賢い子だ。隠し通すよりも、こちら側に来てもらったほうが安心だ」
じいちゃんの口から漏れたのは、血の凍るような告白だった。
あの事故で死んだのは本当の母親ではなく、母の双子の妹――叔母だったこと。貧困から抜け出すために、母が叔母と父を殺害し、叔母になりすまして資産を奪ったこと。
「なんで……そんな……」
「お母さんは、もう貧乏に戻りたくなかったんだよ。あの夜、私が二人の飲み物に睡眠薬を入れた。お母さんは、眠った二人を乗せて車を崖から突き落とし、自分は直前に飛び降りた。海に沈んでいく車を見届けて、私に電話をしてきたよ」
じいちゃんはハンカチで涙を拭うふりをして、口角をわずかに上げた。
「どうだい。これでお前も『家族』の仲間入りだ。誰かに話せば、お前も、あの幸せそうにフライを食べている明香も、すべてを失うことになる」
その夜は意外なほどに眠れた。自分でも肝が据わっていると思った。
翌朝、大学へ向かおうと外に出ると、家の前に見慣れない高級車が止まっていた。
窓が開く。
「乗ってかない?」
そこにいたのは、死んだはずの母だった。
私は吸い寄せられるように助手席に乗った。
「どうしてこんな事になっちゃったの、お母さん」
「幸せにはお金が必要なのよ。それが一番大切なこと」
母の言葉は鉛のように重い。
そして、母は冷徹な笑みを浮かべて告げた。
「明香は、妹とあの人(父)の間にできた子よ。あの子には黙っていなさい。数年後、今の家の両親が死んだら、明香を養子にしてあの家の資産をすべて継がせるわ。あの子は何も知らずに、私たちのために富を運ぶ器になるの」
心の底から震えが止まらない。隣に座っているのは、母の形をした怪物だ。
「……そして、もう一つ教えてあげる」
母は楽しげにハンドルを握る。
「あなたのおばあちゃんも、私と同じことをして『死んだこと』にしたのよ。じいちゃんが働かずに暮らせているのはそのお陰。あのファミレスだって、元を辿ればおばあちゃんの持ち物。チーフの半田くん? ……あの子、あなたのことをよく見ていたでしょう?」
理解が追いつかない。
「それって……半田さんは、じいちゃんの味方なの?」
「味方というか、ただの『目』よ。あの子だけじゃない。この町のあちこちに、じいちゃんの『目』があるわ。あなたがどこで何を買い、誰と話したか、じいちゃんはすべて知っている」
逃げ場なんて、最初からなかったのだ。
この町全体が、じいちゃんが作り上げた巨大な檻だった。
「本当の首謀者が誰か、もう分かったでしょ?」
バックミラー越しに、家の前でこちらを見送るじいちゃんの姿が見えた。
じいちゃんは、いつものようにニコニコと、穏やかに手を振っていた。