
雨の日の傘
#雨の日の傘
「雨だから傘持っていきなさいよ!」
母が怒鳴っている。テレビを見ていたんだから降っていることくらい知っている、と言い返したくなるのを飲み込んだ。
今日はバイトだ。駅前のカラオケ店での接客。正直、楽すぎて暇を持て余している。
マンションを出ると、雨は意外に強く降っていた。
「大きすぎるんだよ……」
バス停で前に立っていたサラリーマンが、自分の傘を見てボソリと呟いた。
奥さんが選んだのだろうか。確かに、その傘は彼には不釣り合いなほど巨大で、後ろから見ていると少し吹き出しそうになった。
バスを降りて店に着くと、案の定、客の姿はない。
同じシフトの向島(むこうじま)が、受付カウンターで突っ伏して寝ている。
向島は仕事こそこなすが、時折、感情の読み取れない無機質な視線を向けてくることがあり、私は少し苦手だった。
それにしても、こんなに暇でよく経営ができているなと、逆に感心してしまう。
そういえば、この店には雨の日にしか来ない客がいる。
通称「達郎」。山下達郎しか歌わないからだ。おそらく60代。身なりが良く、いかにも育ちの良さそうな紳士だ。
「おい、起きろよ向島」
「……ああー」
向島が伸びをしながら顔を上げた。
血走った目でこちらを一度凝視し「オッス」
「客は?」
「タコ(ゼロ)。やっぱ雨だと来ないよな」
「達郎は?」
「まだ来てないな。……じゃあ、俺上がるわ」
「お疲れ」
さて、フードの在庫でも見るか。
そう思って冷蔵庫を開けた途端、入店を告げるチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
「こんにちは。いつもの部屋、空いてるかな?」
達郎だ。彼はいつも決まった部屋にしか入らない。その部屋が埋まっていると、空くまで頑なに待つ。少し変わった人だ。
「どうぞ、28番です」
マイクとおしぼりを渡す。
「ありがとう」
今日の彼はハットを被り、グレーのジャケットにジーンズを合わせていた。黒のダブルモンクの靴も、いい感じに履き込まれている。
しばらくすると、部屋から『クリスマス・イブ』が聞こえてきた。定番だ。
やがてオーダーが入る。これもいつもと同じ、ダイエットコーク。「お待たせしました」
「ありがとう。ごめんね、追加でおしぼりと、乾き物をもらえるかな」
「かしこまりました」
デジャヴかと思うほど、いつもと同じシチュエーションだった。
厨房で乾き物を用意していて、ふと気がついた。
(……傘を持っていない)
そうだ。彼は雨の日にしか来ないのに、傘を持っている姿を見たことがない。
ここは繁華街ではない。車を停める場所もないから、どこからか歩いてきているはずなのに。
やっぱり、お抱えの運転手が送り迎えをしているのだろうか。
「お待たせしました」
ドアを開けると、彼はスマホを眺めていた。私は思わず訊ねてしまった。
「失礼ですが、いつも歩いて来られているんですか?」
「ん? どうしてだい?」
「いえ、この辺りは駐車場がないので。……でも、傘をお持ちではないようでしたから」
「よく見ているね」
「あ、はい。ご常連様ですので」
彼は少しだけ目を細めて笑った。
「そうか。実はね、付き人がいるんだよ。外で傘を持って待ってくれているんだ」
「そうなんですか! 驚きました……。失礼ですが、それほどの方なら、どうしてこんな店に……」
「ははは、そう思うのも当たり前だね。これも何かの縁だ。信じるか信じないかは君に任せるよ」
彼は少し居住まいを正した。
「もう15年も前のことだよ。この店の、まさにこの部屋で、私の娘が殺されたんだ」
「えっ!」
つい大声が出てしまった。
「そりゃ驚くよね。でも事実なんだ。娘はその日、当時付き合っていた男性とここで歌っていた。男性が席を立ち、トイレから戻ってみると、娘は何者かに鋭利な刃物で何度も刺されていたそうだ」
「犯人は……誰だったんですか?」
「わからんのだよ。もう15年も捜査は続いているんだがね」
彼は天井を見上げて言った。
「ここに来るのが雨の日だけなのはね、雨の日にここへ来ると、娘に会えるからなんだよ」
私の顔には、困惑が浮かんでいたのだろう。
「ははは、訳がわからないよね。でも本当なんだ」
彼はモニターの下を指差した。
「ここに出てくるんだよ、娘が。あの子が好きだった歌を歌うと、現れて私に話しかけてくる。だが、何を言っているのかがわからない。一言、二言、何かを訴えかけてくるんだが、私には読み取れないんだ」
彼は私を真っ直ぐに見つめた。
「……もしよければ、ここに一緒にいて、歌を聴いてもらえないだろうか」
「私は構いませんが、店はどうするんですか?」
「閉めますよ。どうせ誰も来やしませんから」
彼は優しい目で私を見て、頷いた。
選曲されたのは、やはり『クリスマス・イブ』だった。
真剣に彼の歌声を聞くのは初めてだったが、驚くほど上手かった。
歌が終わりに近づいた、その時だった。
ふっと、部屋の中に温かく優しい風が吹いた。
モニターの下に靄(もや)が立ち込め、うっすらと女性の姿が現れた。
上半身だけで、胸の前で手を組み、祈るように何かを話している。
その瞬間、私の背中に氷水を流されたような戦慄が走った。
彼女が繰り返している言葉が、はっきりと理解できてしまったからだ。
「む・こ・う・じ・ま」