
天音とララのちょこっとごはん<10>(#シロクマ文芸部)
☆彡 毎週発表されるシロクマ文芸部のお題に沿って連載小説を書いています。
<登場人物>
◆月森 天音(つきもり あまね) 32歳
インテリアコーディネーター。祖母が暮らしていた海辺の古民家をリノベーションし、小さな漁村へ移り住む。人より少しおせっかいだが、人の暮らしや思い出を大切にする優しい性格。
◆ララ
3歳のミニチュアダックスフンドの女の子。人懐っこく無駄吠えもしない天音の愛犬。散歩とごはんが大好きで、町の人たちを自然と笑顔にしてくれる存在。
<前回のあらすじ>
仕事帰りに借りた本を返すため図書館を訪れた天音は、初めて見る男性職員と言葉を交わす。小説の感想が偶然一致したことから会話が弾み、彼に別の本を勧められる。「また感想を聞かせてください」という言葉がなぜか心に残る天音。帰宅後、ララとのいつもの時間を過ごしながら勧められた本を読み始めると、思いのほか夢中になってしまう。返却期限は二週間後――天音はいつの間にか、本の続きとともに、もう一度彼に会うことを少しだけ楽しみにしていた。
待つ時間。
それは、長いようで短い。
楽しい予定を待っている時は、まだかまだかと思うのに、締め切りを待っている時は、どういうわけかあっという間にやってくる。
そして今の私は、そのどちらなのだろう。
カレンダーに目をやる。
図書館で借りた本の返却期限まで、あと三日。
「……別に、今日返してもいいんだけどね」
独り言に反応して、ララが顔を上げた。
リビングのラグの上で、長い胴をさらに長く伸ばして寝ていたのに、私が何か言うと律儀に反応する。
「本、読み終わったし」
昨夜、最後まで読んだ。
あの人が言った通り、ちゃんと最後まで面白かった。
むしろ終盤は止めどころが分からなくなり、日付が変わるまで読み続けてしまったくらいだ。
だから、もう返してもいい。
仕事も一段落したし、夕方まで待つ必要もない。
今から図書館へ行って、返してくればいいだけだ。
なのに私は、朝から何度も時計を見ている。
「……四時半か」
ララの耳がぴくりと動いた。
前に図書館へ行ったのは、四時半を少し過ぎた頃だった。
あの人が今日も同じ時間にいる保証なんて、どこにもない。
今日が勤務日かどうかも分からないし、そもそも名前すら知らない。
「別に、会いに行くわけじゃないし」
ララが、ふう、と鼻から息を吐いた。
「は? 何、その反応」
まるで呆れられたようで、少し悔しい。
私はノートパソコンに視線を戻した。
今日は森田さんの新居に使う照明器具の候補をまとめる予定だった。
ダイニングテーブルの上に吊るすペンダントライト。
玄関のブラケットライト。
廊下のニッチを照らす小さなダウンライト。
いくつか候補を並べ、図面と照らし合わせる。
仕事に集中していれば、時間なんてすぐに過ぎる。
そう思っていたのに、やたらと時計が目に入る。
「もういい」
私はノートパソコンを閉じた。
するとララが勢いよく起き上がった。
「ああ、違うよ。ごめんね」
散歩かと思ったのだろう。ぴんと立っていた尻尾が下がる。
「図書館ってくるね」
さらに尻尾が下がった。
どうせ犬には分からないだろうと思いながら言ったけれど、ララはじっと私を見ている。
動物の勘は鋭い。
特に生活を共にしているララは、私の心の中を私以上に知っている……ような気がする。
今朝からソワソワしていることも、何度も時計を見てしまう理由も。
「帰ったら散歩行くからね」
ララにそう告げて、出かける支度をする。
玄関を出ようとして、ふと思い直した。
そして洗面所へ戻り、鏡を覗く。
髪を手櫛で整え、薄くリップを塗った。
「……これくらい普通でしょ」
鏡の中の自分に言い聞かせる。
だって、借りた本を返しに行くだけなのだから。
前回は化粧直しもしないで出かけたけれど、今日はたまたま時間に余裕がある――ただそれだけのこと。
そんな言い訳をしながら、鏡に映る自分の顔を窺う。
「やだやだ。何を期待しちゃってるんだろう」
図書館で本を勧められ、ほんの少し会話を交わしただけ。
図書館職員なのだから、利用者に本を勧めることだってあるだろう。
それ以上でも、それ以下でもない。
自分の中に生まれた、ほわほわとした感情に戸惑いながらも、甘い期待をする自分に蓋をする。
もう傷つきたくはないから――。
図書館に着いたのは、四時二十七分。
自動ドアを抜けると、前と同じひんやりした空気が頬に触れた。
館内を見回すと返却カウンターには女性職員が二人だけ。
あの時の彼の姿はなかった。
私は借りた本をバッグから取り出し、カウンターへ向かった。
「返却お願いします」
女性職員は本を受け取ると、バーコードを読み取り返却の手続きをしてくれた。
「ありがとうございました」
「あの……」と、言いかけて、やめた。
聞いてどうするのだ。
――この前ここにいた三十代くらいの男性は、今日はお休みですか。
そんなことを聞いたら、完全に会いに来た人みたいじゃないか。
私はカウンターを離れて、新刊小説コーナーの棚へ向かう。
せっかく来たのだから、何か借りて帰ろう。
本は好きだ。物語の世界へ連れて行ってくれるから。その瞬間は仕事の煩わしさや、過去の悲しかった出来事も忘れられる。
図書館の中では、数人の利用客が椅子に座って本を開いていたり、書棚で選んいたりしている。
私も背表紙を眺めながら歩いていると、一冊の本が目に留まった。
何気なく手を伸ばす。
その時だった。
「あ」
すぐ近くで声がした。
振り向く。
「あ」
私も同じ声を出してしまった。
あの人が目の前に立っていた。
今日はカーディガンを着ていない。
白いシャツの袖を肘まで捲り、何冊もの本を載せたカートを押している。「来てたんですね」
そう言って、彼は微笑んだ。
その言葉に、胸の奥がほんの少しざわついた。
「えっと、さっき返しました」
「え?」
「この前、勧めてもらった本」
「ああ!」
彼の顔がぱっと明るくなった。
「どうでした?」
「面白かったです」
「本当に? それはよかったです」
本当に嬉しそうに笑う。
「でも、ちょっと悔しいです」
「えっ、なんでですか」
「あなたの言った通りだったから」
そう答えると、彼は声を抑えて笑った。
「面白くない方が良かったですか?」
それから彼は、私が手に取ろうとしていた本に目をやった。
「それも面白いですよ」
「お勧めですか?」
「はい、お勧めです」
そんな他愛のない会話をしている時だった。
カウンターの方から声がした。
「藤崎さん」
「はい」
彼がタウンターにいる女性職員の方を振り返った。
「これ、お願いします」
「分かりました」
藤崎。
私は胸の中で、その名前を繰り返した。
彼は私に軽く頭を下げた。
「すみません。仕事に戻ります」
「はい」
「じゃあ、また」
カートを押して離れていく。
その背中を見送りながら、私は手に取った本を開いた。
文字なんて全然頭に入ってこない。
藤崎さん。
名字が分かった。
それだけなのに、知らない人だった彼が、少しだけ輪郭を持ったような気がした。
「ただいま」
玄関を開けた途端、ララが飛び出してきた。
「分かったって。散歩でしょ」
約束通り、そのままリードをつけて海へ向かう。
九月の海からは海水浴客の姿が消え、夏よりも少し静かになっていた。
空にはいわし雲が広がり、すっかり秋の気配だ。
砂浜を歩きながら、ララは何度も立ち止まって匂いを嗅ぐ。
急ぐ必要はない。
私もララに付き合いながら、ゆっくり歩いた。
藤崎さん。
名前を知っただけ。
ただ、それだけ。
なのに何度も思い出してしまう。
――私のこと、何歳だと思っているのかな。
家に戻ると、お腹が空いていた。
冷蔵庫を覗くと、昨日スーパーで買ったレンコンが目に留まった。
とりあえず、ビールに合うおつまみを作ることにした。
<レンコンの甘辛炒め>
【材料】
★レンコン……300g
◎片栗粉……大さじ2
◎醤油……大さじ1.5
◎酢……大さじ1.5
◎砂糖……大さじ1.5
◎すりごま……少々
【作り方】
①レンコンは皮をむいて、5mmほどの輪切りにする。
②ボウルに①のレンコンを入れ、片栗粉をまぶす。
③フライパンにごま油を引いて中火で②を入れて炒める。
④焼き色がついてきたら、◎の調味料を加え炒め合わせる。
⑤お皿に盛り付け、トッピングにネギをかけて出来上がり!

レンコンは食物繊維が多い。ララがお腹を壊すといけないので、今夜はやめておくことにした。代わりにササミを茹で、細かくほぐしていつものフードにトッピングする。
「はい、ララもごはん」
器を置くと、待ってましたとばかりにララが駆け寄ってくる。
冷蔵庫からビールを一本取り出し、レンコンを載せた皿と一緒に縁側へ運ぶ。
丸テーブルの前に腰を下ろすと、空はすっかり暮れていた。
ついこの前まで、この時間にはまだ明るさが残っていたのに。
秋は、知らないうちにやってくる。
ビールをひと口飲んで、西の空を見る。
日が沈んだばかりの空に、ひときわ明るい星がひとつ浮かんでいた。
あれが宵の明星だろうか。
足元にはララがいて、遠くから波の音が聞こえてくる。
昨日と何も変わらない景色。
そんな変わらぬ日常に安堵する私が、ここにいる。
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