
人が関わらなくなった自然は、静かに壊れていく
*タイトル写真は秦野の渋沢丘陵から望む、晩秋の朝日に照らされた大山丹沢山系
私がいま根を下ろしている丹沢山系の麓では、丹沢の自然の恵みが生活に密着しています。
15歳で故郷、小笠原を離れてからずっと根無し草で、仕事を変えるたびに住む場所を変えてきましたが、今はこの場所で落ち着いています。
きっと心地よいのだと思います。
その美しい丹沢の「自然環境」について語られるとき、多くの場合は「表丹沢」に焦点が当たります。
しかし実際には、同じような、あるいはそれ以上に深刻な状況が東丹沢や西丹沢でも確実に起きています。
私が実際に目にしている範囲だけでも、正直、驚くほど荒れている場所が多くあります。
倒木がそのまま放置され、登山道を塞いでいる場所。
「これは何年前の台風の爪痕なのだろう」「いつの土砂崩れなのだろう」と思うような光景が、いまだに残っています。
これは一時的な自然災害の問題ではなく、
“その後、誰も関われていない”という構造的な問題だと感じています。
環境保全は「経済合理性」だけでは測れない
環境保全の話になると、どうしても
「予算がない」「人手が足りない」「費用対効果が合わない」
といった経済合理性の物差しで語られがちです。
もちろん現実的な制約は無視できません。
ですが、自然環境を守るという行為は、そもそも経済効率だけで判断できるものなのでしょうか。
上記、登山家の花谷さんが記事でも示されているように、
丹沢は「手つかずの自然」ではなく、人が長年関わることで成り立ってきた山です。
放置すれば自然に戻る、という単純な話ではありません。
「自然」とは何かを問い直す
そもそも「自然」とは何でしょうか。
地球において、人が生活するために手を入れた環境は、
人が関わり続けなければ、即座に崩壊します。
人工林、登山道、治山施設、水の流れ。
これらは一度整えたら終わりではなく、
維持し続けることを前提に存在している環境です。
それにもかかわらず、
「自然だから人が手を出さないほうがいい」
「自然に任せれば回復する」
という言葉だけが独り歩きしているようにも感じます。
東丹沢・西丹沢を「あらゆる自然の一部」として捉える
東丹沢や西丹沢の荒れた現状は、
一部の地域の問題でも、誰か特定の責任でもありません。
それらも含めて、
丹沢全体が「あらゆる自然の一部」として存在している
という視点が必要だと思います。
守るべきなのは「きれいな場所」だけではなく、
今まさに傷んでいる場所、忘れられている場所も含めた全体です。
そのためには、
・行政
・登山者
・地域住民
・ボランティア
といった立場を超えて、
自然とどう関わり続けるかの仕組みを考えていく必要があります。
悲観するだけでは進まない
正直に言えば、現状を見て悲観的になる気持ちもあります。
「多くの人は、自然を守ることの本質的な意味をわかっていないのではないか」
そう感じる場面も少なくありません。
それでも、悲観するだけでは何も変わりません。
だからこそ私は、
自分が見たこと、感じたことを言葉にする
自分にできる関わり方を続ける
という、小さな行動を積み重ねていこうと思っています。
自然は「守ってあげる対象」ではなく、
人が関わり続けることで共に存在していくもの
その当たり前の前提を、改めて問い直すことから始めたいと思っています。