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同時代の記事で読むJapan Vol.3:成功の頂点で、なぜJapanは止まったのか

    もっとも評価された時期に、Japanは前へ進めなくなった

    Japanの活動休止が印象的なのは、それが下降線の末に起きたのではなかったからです。

    むしろ彼らは、『Tin Drum』によって音楽的にも批評的にも、ようやく本格的な評価を得はじめていました。

    1982年、Ian BirchはJapanを、創造性の頂点にあるバンドとして見ています。

    『Tin Drum』はそれまででもっとも完成度の高い作品であり、メンバーも個人として認められ始めていました。

    Mick Karnは彫刻に取り組み、Steve Jansenは写真を始め、Richard Barbieriはスタジオ技術への関心を深めていました。David Sylvianもまた、Japanだけには収まらない構想を持ち始めていました。

    すべてが順調に見える時期でした。

    にもかかわらず、その記事の中心にあるのは、さらなる前進ではなく、Japanの活動をいったん保留するという選択です。

    ここには、単なる人間関係の悪化では説明しきれない矛盾があります。

    Japanは失敗したから止まったのではありません。

    成功によって各メンバーの個性が鮮明になり、Japanというひとつの器だけでは収まりきらなくなったのです。


    分岐は突然始まったのではなかった

    前作『Gentlemen Take Polaroids』の時点で、Sylvianの制作主導権は強まり、Rob Deanのギターは次第に音楽の中心から外れていました。

    Japanは、固定メンバーが対等に演奏するロックバンドから、特定の音響構想を実現するためのスタジオ中心の集団へ変わり始めていたのです。

    したがって、『Tin Drum』後の分岐は突然生まれたものではありません。

    Japan独自の音を獲得する過程そのものが、従来のバンドの形を変えていたのです。


    活動休止は「解散」ではなく、分岐として語られた

    1982年2月の記事の段階で、Japanが正式に解散を決めていたわけではありません。

    Ian Birchは、Japanが解散するのかという問いに対して、答えは単純な「イエス」でも「ノー」でもなく、しばらく様子を見る状態だと書いています。

    Sylvianも、休止期間について、

    “I don’t know how long the break’s going to be. Maybe three months or four or longer.”

    「休止がどれくらいになるかはわかりません。3か月か4か月か、あるいはもっと長くなるかもしれない。」

    と語っています。

    この時点では、活動休止は永久的な終了ではなく、各メンバーが個別の活動を試すための「呼吸の時間」として説明されていました。

    Sylvianはさらに、こう語っています。

    “Everything we do is instinctive.”

    「僕たちのやることは、すべて直感的なんです。」

    そして続けて、

    “Now that we’re all at a certain creative point, it’s time to take it in four directions.”

    「いま全員がそれぞれ一定の創造的な地点に達したので、それを四つの方向へ分ける時なんです。」

    Japanが止まったのは、創造力が尽きたからではありません。

    Mick Karn、Steve Jansen、Richard Barbieri、David Sylvianのそれぞれが、Japanの外で試したいことを持ち始めていた。

    創造性の不足ではなく、創造性の増大がバンドを分岐させたとも言えるのです。


    「四つの方向」は、口論の結果でもあった

    ただし、「四つの方向」という言葉を、あまりに美しい創造的発展としてだけ受け取るべきではありません。

    Sylvianは同じ発言の中で、メンバー全員のやりたいことをJapanへ持ち込めば、バンドは収拾がつかなくなり、最終的には口論になると説明しています。

    実際、直前の英国ツアーでは、

    • 今後もライヴを続けるのか

    • Japanとして次に何を作るのか

    • 個人的な構想をどこまでバンドに持ち込むのか

    といった問題をめぐって衝突が起きていました。

    したがって、活動休止は穏やかな休暇ではありません。

    実際に表面化した意見の違いを処理するための距離でもあったのです。

    Birchは、Japanが完全に二つの陣営へ分裂したと見るのは大げさだと書いています。

    しかし、制作上の組み合わせとしては、

    • David SylvianとRichard Barbieri

    • Mick KarnとSteve Jansen

    という二つの軸が見え始めていました。

    これは単純な派閥というより、制作方法や音楽への関心が近い者同士が、自然に組み始めたということなのでしょう。


    バンドの外には、すでに具体的な計画があった

    SylvianとBarbieriは、二枚組あるいは三枚組のインストゥルメンタル作品を計画していました。

    発端は、Mick KarnがロンドンのOctober Gallery内に開いたレストラン、The Penguin Cafeのために、二人が制作した環境音楽です。

    しかしSylvianが考えていたのは、単なる聴き流し用のアンビエント音楽ではありませんでした。

    彼らが構想していたのは、実際の映像を持たない映画音楽です。

    聴き手は音楽を聴きながら、自分自身の内部に映像を作る。

    この考えは、後のSylvianのソロ活動や、Barbieriとの音響的な制作へつながっていきます。

    また、Sylvianは坂本龍一との共同制作を計画し、KarnとJansenには矢野顕子、土屋昌巳、高橋幸宏らとの活動が想定されていました。

    Japanが活動を休止した時、彼らは何も考えていなかったのではありません。

    すでにバンドの外側で、次の制作のネットワークが動き始めていたのです。


    Japanを制作組織として残す可能性もあった

    記事の中では、JapanをPublic Image Ltd.やB.E.F.のような、一種の会社や制作組織へ変える可能性も語られています。

    メンバーは個別に活動しながら、必要に応じてJapanという名前のもとへ集まる。

    そうすれば、個々の創作とグループ活動を両立できるのではないかという考えです。

    Sylvianは、日本で行った共同展示を、その可能性の一例として挙げています。

    そこには、Karnの彫刻、Jansenの写真、SylvianとBarbieriの環境音楽が並んでいました。

    これは、Japanを単なるロックバンドではなく、音楽、写真、美術、空間表現を含む制作集団へ変える構想でした。

    1982年2月時点の休止は、「Japanを終わらせる」という判断だけではありません。

    従来のバンド形式を解体し、別の形で残せないかという模索でもあったのです。


    メンバーによって、制作方法もライヴ観も異なっていた

    Sylvianは、なぜBarbieriと一緒に制作するのかについて、二人は互いを補い合い、摩擦が少ないからだと説明しています。

    一方、Karnはスタジオで自分のパートを素早く録音し、ライヴ活動も楽しんでいました。

    これは、時間をかけてスタジオ内で音を作り込み、ライヴへの関心を失いつつあったSylvianとは、かなり異なる姿勢です。

    ここから見えてくるのは、個人的な好き嫌いだけではありません。

    • 制作速度

    • スタジオの使い方

    • 即興と編集の比重

    • ドラムやギターの必要性

    • ライヴに対する意識

    こうした音楽制作の根本的な方法が、メンバーごとに異なっていたのです。

    『Tin Drum』では、その違いがひとつの作品の中で鮮やかに噛み合いました。

    しかし、同じ方法をそのまま続けられる保証はありませんでした。


    Japanにとって、ライヴは居心地のよい場所ではなかった

    この違いは、ライヴをめぐってさらに明確になります。

    すでに1981年のBetty Pageによるインタビューで、Sylvianは当時のショウを、

    “just basic formula”

    「ただの基本的なフォーミュラ。」

    と呼んでいました。

    さらに、

    “I’ve had enough of playing live.”

    「ライヴをやるのは、もう十分だと思っている。」

    とまで語っています。

    SylvianにとってJapanの音楽は、聴き手が自分自身の内部にイメージを作るためのものでした。

    映画、スライド、照明、豪華な舞台装置が音楽より前へ出れば、聴き手の想像力を制限してしまう。

    そのため、人気が上がり、ライヴが大きくなるほど、Japanの音楽が本来持っていた静けさや距離感との衝突も大きくなっていきました。

    1982年11月のツアー記事「Behind The Mask」で、Richard Barbieriは観客の反応について、こう語っています。

    “The reaction has become so teenie.”

    「反応があまりにティーニーになってしまった。」

    「Night Porter」のような静かな曲の最中に大きな悲鳴が飛び、演奏の緊張感が壊れてしまう。

    Steve Jansenも、演奏中に名前を呼ばれたり、「笑って」と叫ばれたりすることで、音楽とは別の会話が始まってしまうことに苛立っていました。

    音楽が静かになるほど、会場の熱狂がそれを壊してしまう。

    Japanは、成功によって観客を増やしながら、その成功によって自分たちの音楽を演奏しにくくなっていたのです。


    「誰もが発言権を欲している」

    「Behind The Mask」で、JansenとBarbieriは、もし将来またJapanとして作品を作るなら、もっと民主的な関係が必要だと語っています。

    Jansenは、各メンバーが一度それぞれのやりたいことを試さなければ、互いの考えを受け入れる余裕は生まれないだろうと見ていました。

    そして現在の状況を、次のように要約しています。

    “everybody wants their say”

    「誰もが自分の発言権を欲している。」

    これは、単なる主導権争いを示す言葉ではありません。

    Japanがもはや、ひとつの美学だけで全員をまとめられるバンドではなくなっていたことを表しています。

    『Tin Drum』では、各メンバーの演奏がそれぞれ強い個性を持ちながら、ひとつの緊張した空間を作っていました。

    しかし、その音楽的な成功は、同時にそれぞれの方向性をはっきりさせました。

    Japanは、完成度を高めるほど、誰のバンドなのか、どの方向へ進むのかという問題を避けられなくなっていったのです。


    バンドの時間は、すでに先へ進んでいた

    Jansenは同じ記事で、さらに率直な言葉を残しています。

    “Playing all the old material is really boring.”

    「昔の曲ばかり演奏するのは、本当に退屈だ。」

    この一言は、Japanが続けられなくなった理由を端的に示しています。

    観客は完成されたJapanを求めている。けれど、メンバーの創作意識は、そのJapanからすでに離れ始めていました。

    問題は、誰が誰と仲が悪いかということだけではありません。

    観客が求める現在と、メンバーが進みたい未来のあいだにずれが生まれていたのです。

    Japanというバンドの時間は、ライヴで繰り返される過去よりも先へ進んでいました。


    2月の「休止」が、11月には現実的な終わりへ近づいた

    1982年2月のBirchの記事には、まだJapanを別の形で残そうとする希望があります。

    個人活動を経て再び集まること。
    Japanを制作組織へ変えること。
    音楽、美術、写真を横断する集団として続けること。

    しかし、同年11月の「Behind The Mask」では、そうした構想よりも、ライヴへの倦怠、観客とのずれ、メンバー間の発言権の問題が前面に出ています。

    この二つの記事を並べると、Japanの休止が一度の決断によって決まったのではないことがわかります。

    最初は、創造的な距離を取るための休止だった。

    しかし、個人活動が進み、内部の違いがより明確になるにつれて、期間未定の休止は、次第に現実的な終わりへ近づいていったのでしょう。


    おわりに

    Japanは、評価されなかったから止まったのではありません。

    人気がなかったからでもありません。

    むしろ、評価と人気の両方を手に入れた時に、バンドの形そのものが保てなくなったのです。

    彼らは、ひとつの様式を完成させ、それを繰り返すことで活動を続けるバンドではありませんでした。

    音を変え続け、過去の自分たちから離れることで前へ進んできた。

    ところが『Tin Drum』によってJapanの像が完成し、観客と批評がその像を求め始めた時、メンバー自身はすでにその先へ向かおうとしていました。

    Japanは完成したからこそ、同じ形では続けられなくなった。

    ただし、その終わりは、最初から予定された美しい消失ではありません。

    創造性、摩擦、倦怠、新しい可能性が入り混じった、長い分岐の過程だったのだと思います。

    次回は、活動を終えたJapanが、1984年の『Exorcising Ghosts』評の中で、どのようなバンドとして回顧され、再び意味づけられていったのかを見ていきます。

    出典

    Ian Birch, “Japan: Say Hello, Wave Goodbye?”, Smash Hits, 4 February 1982.

    Betty Page, “Behind The Mask: Japan on Tour”, Noise!, 24 November 1982.

    Betty Page, “Japan: The Part Of Arties”, Sounds, 6 June 1981.

    補助資料(後年の回顧)

    Anthony Reynolds, “Classic Album: Japan – Gentlemen Take Polaroids”, Classic Pop, 12 April 2025.

     
     
    いい年こいてDTMを始めたおやじです。 所謂ポストパンク、ノイズ、実験的なロックなどを長年聴いてきました。 ジャンルや「名盤」の枠に収まらない音楽に惹かれ、 昔の音を今の耳で聴き直しながら、思うことをヒラヒラ書いています。 文章がポエミーなのは昔読んだ某雑誌の所為ですw

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