
わたしが「自由」になるために(その2) 〜「幸せ」とはなにか〜
「自由」とは、「生きている」ことの本性(本来の性質)です。「自由」を取り戻した時、わたしは自分の人生を取り戻すことができます。自分の人生を取り戻した時、わたしは「生き生きと生きる」ことができ、「今のわたしはこれでいい」と思うことができるのです。
「幸せ」のたったひとつの必要条件
このnoteにくり返し書いてきましたが、「幸せ」とは「今のわたしはこれでいい」と心から思えることです。「幸せ」には、こうであれば幸せだといえるような条件はないと言われます。そのとおりです。しかし、「幸せ」にたったひとつだけ、最低限必要な条件があるとすれば、それは「自由」であることです。
「自由」とは、「わたしの生き方をわたしが選んでいる」という実感であり、「わたしがわたしとして生きている」という実感です。この実感こそが、「今、生きていてうれしい」、「今のわたしはこれでいい」という「幸せ」の思いを可能にします。
「自由」は、どこに「ある」のか
前回は、「自由」に関するこんな問いと答えだけを提示して終わりにしました。
問い:「自由」は「ある」のでしょうか。もし「ある」とすれば、「自由」は、この世界を成り立たせている「事実」と「現象」と「仮象」の三つのうちの、どこに「ある」のでしょうか。(「事実」と「現象」と「仮象」が、それぞれなんであるかについては、前回の「わたしが『自由』になるために(その1)」を御覧ください。)
答え:もちろん「自由」は「ある」のです。なぜなら、われわれは生きている限り、現に「自由」だからです。では、「自由」はどこに「ある」のでしょうか。「自由」は観念ですから、「仮象」の中に「ある」ような気がしますが、違います。「自由」は、「事実」の中に「ある」のです。
お読みになって、わけがわからないと思われた方もいらっしゃるかもしれません。それでは身近なところから、少しずつ考えていきたいと思います
なぜ「自由」でありたいと思うのか
わたし(あなた)は生きている限り、「自由でありたい」と思います。では、なぜ「自由でありたい」と思うのでしょうか。ここを出発点にして、「自由」について考えていきましょう。
この問いには、大きく分けてふたつの答え方があります。ひとつは、今のわたしが「不自由」だからそう思うのだという答え方(①)です。もうひとつの答え方は、わたしが本来「自由」だからそう思うのだという答え方(②)です。どちらの答えにも、もっともなところとおかしなところがあります。
それぞれの答えのおかしなところ
今のわたしが「不自由」だから、「自由」になりたいと思うのだという答え(①)は、われわれがふだん感じていることに近いので、とても受け入れやすい答えです。しかし、この答えでは、物心ついた時から今にいたるまで「不自由」であり続けた人、つまり、「自由」をまったく知らない人が、なぜ今の自分を「自由ではない(不自由だ)」と思うことができるのかを、論理的に説明できません。ちょうど、身分制の時代に、おいしいものなど一度も食べたことがない貧しい人たちが、貴族たちが食べているもののおいしさを、どうやっても想像できないようなものです。
逆に、「自由」でありたいと思うのは、わたしが本来「自由」だからだという答え(②)ならば、そのような問題は起きません。昔、おいしいものを食べたことがある没落貴族が、「ああ、もう一度おいしいものが食べたい」と思うのはあたり前だからです。しかし、この答えにも、別の大きな問題点があります。
本来、わたしが「自由」なのであれば、なぜ今、自分を「自由でない(不自由だ)」と感じるのかを、この答えでは論理的に説明できないのです。たとえば、身分制の時代に、その国の王子がある日、自分にそっくりな貧しい男の子と出会って、互いに着ている物を交換して、それぞれの家に戻ったとしましょう。きっと王子はその後、貧しい家の中で食べる物もなく、つらい思いをするでしょう。しかし、それでも王子が持っている「自分は王子だ」という思いが消えることはありません。つまり彼は、「王子になりたい」と思うことはないのです。なぜなら、彼はすでに王子だからです。同じように、わたしが生まれつき「自由」なのであれば、「わたしは自由だ」という思いを、どんな環境、境遇であっても奪い去ることはできないはずです。たとえ、どんなひどい目にあっても、「(わたしは不自由だから)自由になりたい」という思いは、論理的に生まれるはずがないのです。
「自由」という「観念」が抱えている矛盾
結局、なぜわたしが「自由」でありたいと思うのかを、どちらの答えもきちんと説明できていないのです。これが「自由」という「観念」に、つきまとう「解くことのできない難問(アポリア)」です。そして、この「難問」は、論理上はだれにも解くことができません。なぜかといえば、それは「自由」という「観念」自体が内に抱えている矛盾(逆説=パラドックス)だからです。
この「自由」という「観念」がはらむ難問を解くこともなく、「人は生まれながらにして自由だ」と言うことは無意味ですし、逆に「自由などというものは、実際には実現不可能だ(この世に「自由」などない)」などと言うことも同様に無意味です。どちらも「自由」というものがなんであるかをきちんと考えることもせずに、自分が持っている「自由」のイメージだけで、「自由」について語っているだけだからです。
「自由」は観念ではない
「自由」という「観念」につきまとう、この解くことのできない難問(アポリア)は、本当に解くことができないのでしょうか。そんなことはありません。この難問は、「自由は観念ではない」と考えれば、容易に解くことができるのです。つまり、「自由」は、「観念」ではないし、「仮象(「現象」の原因として考えられた観念)」ではないと考えれば、この難問自体が存在しなくなるのです。
なぜ、わたしは「自由」でありたいと思うのか
さて、「自由」について考える上で、出発点にした問いは、なぜわたしは「自由」でありたいと思うのかというものでした。この問いには、今やこう答えることができます。
「わたし」という「現象」は、「事実」の一面のあらわれである。そして、「事実」の中には「自由」が「ある」。だから、わたしは「自由」でありたいと思うのだ。
「事実」とは、「ある」もののすべてです。「わたし」という「現象」もまた、わたしの前で「起きている」ことであり、わたしの前に「ある」ものです。そのため、「わたし」という「現象」には、「事実」の一面が含まれています。そのようにして含まれている「事実」の一面の中に「自由」が含まれているのです。
「わたし」という「現象」は、いわば地面に沸く泉のようなものです。泉の水が持つ性質(カルシウムなど)は、もともとは地下水が持っている性質です。同じようにわたしが自分の中に「ある」と感じる「自由」は、「事実」の中にその根源があるのです。(「事実」と「現象」と「仮象」が、それぞれなんであるかについては、前回の「わたしが『自由』になるために(その1)」を御覧ください。)
スピノザは、あらゆる「仮象」の息の根をとめた
このことを、17世紀のオランダの哲学者スピノザは、『エチカ』の中で「様態」という言葉によって言いあらわしました。この世界の中にあるさまざまな人間や生き物や個々の物体は、たったひとつの「実体(わたしの言葉では、「事実」)」が、特定の仕方であらわれたさまざまな「様態(わたしの言葉では、「現象」)」なのだと彼は考えたのです。この彼の発想は、この世界(「現象」)は、「仮象」(イデアなど)の結果だと考えるプラトン以来の西洋の形而上学やキリスト教神学を、完全にひっくり返しました。スピノザは、いわばそれまでのあらゆる「仮象」の息の根をとめたのです。
「様態とは、実体の変様、言いかえれば、他のもののうちに存在し、また他のものによって考えられるもののことである。」
「生きる」とは「自由」であること
ここで「事実(スピノザのいう「実体」)」と「自由」の関係を、「生きる」という言葉を使って説明してみましょう。
「事実(実体)」とは、「ある」もののすべてです。この「ある」ということの一面(ひとつのあらわれ(「現象」))が、人や生き物が「生きる」ということです。(あらためて言うまでもなく、この世界(「現象」)で、人や生き物にとって、自分が「ある」ということは、「生きている」ということです。)そして、「生きる」ということの中には、「自分のあり方(生き方)を自分で選ぶ」ということ(つまり「自由」)が、その本性(本来の性質)として含まれています。たとえば、人や哺乳類においては、(多くの場合、無意識であっても)いつ、どのくらい空気を吸って、いつ、どのくらい吐くかということ、つまり息をすること自体が、その生き物の「自由(選択の自由)」のあらわれです。(ちなみに、日本語の「生きる(生く)」と「息」は、同じ語源の言葉です。)
わたしにとって、この世界(「現象」)において「生きること」、つまり「自由」であること(選択の自由を持つこと)は、失うことのできない自分の「本性(本来の性質)」だと感じられています。それは、「生きること」、「自由」であることが、その根源を「事実(実体)」の中に持つからです。そのため、人は「自由(選択の自由)」を奪われたと感じた時、「生きていかれない」ほどつらく、苦しいと感じます。ちょうど、誤飲をして気管支に食べ物が詰まった時、思うように息ができず、死にそうなくらいつらく、苦しいようなものです。思いどおりに息ができないこと、言い換えれば、「自由(選択の自由)」を奪われたままで生きることは、人にとって死に等しい苦しみになるのです。それは、「生きること」と「自由」であることが、実は同じことだからです。
「自由」を奪われるとは、「生き生きと生きること」ができなくなること
人にとって「自由(選択の自由)」とは、「生き生きと生きること」にほかなりません。それは言い換えれば、「わたしが、わたしらしく生きること」です。「自由(選択の自由)」を奪われるとは、「生き生きと生きること」ができなくなること、「わたしが、わたしらしく生きること」ができなくなることです。だからこそ、「自分の生き方を自分で選べなくなった」時、人はだれでも死にたくなるくらいつらく、苦しいのです。
「差別」を受ける人のつらさは、「自由(選択の自由)」を、「生き生きと生きること」、「わたしが、わたしらしく生きること」を、目の前の相手に、さらに社会に奪われているつらさです。自分の親を「毒親」だと思う人のつらさは、「自由(選択の自由)」を、「生き生きと生きること」を、「わたしが、わたしらしく生きること」を、親に奪われているつらさです。自分に「HSP」の傾向があると思う人のつらさは、「自由(選択の自由)」を、「生き生きと生きること」を、「わたしが、わたしらしく生きること」を、まわりの人たちに奪われているというつらさです。
「生きる」つらさを解決する方法は、「自由」を取り戻すこと
ここでさらに話を広げていくなら、人との関わりの中で、人が味わうつらさとは、自分の「自由(選択の自由)」を、「生き生きと生きること」を、「わたしが、わたしらしく生きること」を、相手に、集団に、組織に、社会に奪われていることのつらさなのです。
そうだとすれば、わたしが人との関わりの中で、わたしが味わうつらさを解決する方法は、わたしが失った(奪われた)「自由(選択の自由)」を、「生き生きと生きること」を、「わたしが、わたしらしく生きること」を、取り戻す(取り返す)以外にないことになります。
なぜ、わたしの「自由」を奪うことができるのか
このシリーズを終える前に、どうしても考えておかなければならないことがひとつあります。それは、わたしが本来、生きている限り「自由」なのであれば、なぜまわりの人たちはわたしの「自由」を奪うことができるのかという問題です。
これは途中で述べた、「自由」という「観念」につきまとう「解くことのできない難問(アポリア)」の変形(ヴァリエーション)です。このような「難問」が生まれてしまう原因は、「自由」を観念だと考えることにあります。「観念」としての「自由」は、オール・オア・ナッシング、1か0なのです。ここから「自由とはすべてを自分の思いどおりにすることだ」という勘違いが生まれてきます。しかし、「観念」がこの世界(「現象」)に姿をあらわすことは、絶対にありません。ここから、「自由などというものは、実現不可能なのだから、『自由になりたい』などと思うのは、幼稚でばかげている」と考えるもうひとつの勘違いが生まれてきます。
しかし、「自由」を「仮象」の中にある「観念」と考えずに、「事実」の中に「ある」ものと考えた場合は、どうなるのでしょうか。「自由」を「事実」の中に「ある」にもかかわらず、なぜまわりの人たちはわたしの「自由」を奪うことができるのかという問いは、やはり答えておかなければならない問題です。
次回へ
次回は、この問いに答えたいと思いますが、とりあえず、その答えだけを先に書いてしまえば、こうなります。
「自由」とは、「事実(実体)」の中に「ある」ものです。そのため「自由」がこの世界(「現象」)の中にあらわれる場合は、必ず限定された「自由」としてあらわれます。それはちょうど、「現象」において、人や動物が、必ず個々別々の違った大きさの体で(限定されたものとして)あらわれるのと同じです。
この世界(「現象」)において、わたしが自分を「自由」だと感じるのは、「今、自分にとって可能と思える選択肢の中から、自分の意志でひとつの選択肢を選ぶことができた(できる)と思える」場合なのです。ところが実際には、自分の意志でひとつの選択肢を選ぶことができないということが起きることがあります。それは、自分よりも「強い立場の人」が、わたしの「選択」を認めない(許さない)場合です。
次回は、そのような場合を、具体的な例を挙げて考えてみたいと思います。