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わたしが「自由」になるために(その1) 〜「幸せ」とはなにか〜

    「幸せ」のただひとつの必要条件は

    「幸せ」とは「今のわたしはこれでいい」と心から思えることです。「幸せ」には条件がないと言われます。たしかにそのとおりです。お金があれば幸せだとは言えませんし、健康であれば幸せだとも言えません。ただ、「幸せ」にたったひとつだけ、必要な条件があるとすれば、それは「自由」であることです。

    「自由」であれば、人は「生き生きと生きる」ことができる

    「自由」とは、「わたしの生き方をわたしが選んでいる」という実感であり、「わたしがわたしとして生きている」という実感です。この実感こそが、「今、生きていてうれしい」、「今のわたしはこれでいい」という「幸せ」の思いを可能にするのです。

    ただ、「自由」とは、自分の思ったとおりに、勝手放題にすることではありません。「自由」とは、自分の生き方を自分で選ぶことができるということ、つまり「選択の自由」のことです。そして、人は本来「自由」なものです。(そう言える理由は、この後少しずつ書いていきます。)そして、人は自分を「自由」だと感じる限りは、「生き生きと生きる」ことができます。しかし、なんらかの理由で「自由」に生きることができなくなると、人は生きていることに、つらさや苦しさを感じることになります。そのつらさや苦しさの「原因」、「理由」として考えられたものが、「仮象」です。

    「仮象」が「自由」を奪う

    「神」や「運命」から始まって、「差別意識」や、「毒親」や「HSP(Highly Sensitive Person、「繊細さん」)」にいたるまで、今、目の前で起きていることの「原因」、「理由」として考えられたもののことを、ここでは「仮象」と呼びます。このような「仮象」を現実に「ある」と思い、その「仮象」が自分のつらさや苦しさを生んでいると考え始めると、人は「仮象」への対応に必死になってしまい、結果として「仮象」によって支配されて、本来、自分が持っているはずの「自由」を失ってしまうのです。

    「幸せ」の必要条件が「自由」なのですから、「自由」を取り戻し、「わたしがわたしとして生きている」という思いを取り戻さない限り、わたしは「幸せ」にはなれないのです。そして、「自由」を取り戻すためには、まず「仮象」というものがどういうものであるかを知ることが必要です。

    「事実」と「現象」と「仮象」とは

    われわれが生きている世界(この世)は、一見たったひとつのもの(こと)に思えますが、実は三つのもの(こと)から成っています、そう考えることによって、この世界で起きていることがたしかに理解できるようになります。その三つとは、「事実」と「現象」と「仮象」です。

    「事実」とは、「ある」もののすべてです。ただ、それが「ある」ことはわかっていますが、それがなんであるか、どのようなものであるかは人には永久にわかりません。(ここでいう「事実」とは、17世紀のオランダの哲学者スピノザが、『エチカ』の冒頭で定義した「実体」にあたります。)

    次に「現象」とは、「ある」ように見えるもの、「起きている」ことのすべてです。われわれが生きていて経験することのすべてが、「現象」です。これに対して、われわれは「事実」というものを直接、経験することはできません。われわれはいわば、「事実」の一面だけを「現象」として経験するのです。

    「仮象」とは、「現象」が「ある(起きている)」ことの「原因」、「理由」として、人によって「ある」と推定されたもののことです。つまり、「仮象」は「現象」の「原因」として「ある」ものです。そして、「仮象」を「ある」と考えた時、目の前で起きていること(「現象」)は、すべて「仮象」の「結果」としてこの世に起き、それをわれわれが経験しているということになります。

    「仮象」は、「現象」とはならない

    しかし、「仮象」はあくまで目の前で起きていること(「現象」)の「原因」として「現象」のむこうに「ある」と推定されたものですから、実際に「仮象」を目で見たり、経験することはできません。「仮象」が、「現象」となることは絶対にないのです。(たとえば、「神」を直接、見ることはできません。)

    ざっくり言ってしまえば、「仮象」というものは人の頭の中にはありますが、この世(われわれが現に経験する世界=「現象」)の中には「ない」のです。「仮象」が「ある」ように思えるのは、あくまで「現象」をとおして「ある」ように思えるだけです。

    以上のような「仮象」の性質は、「神」や「運命」についても、「差別意識」も「毒親」も「HSP」についても、まったく違いはありません。「運命」が「ある」と考える人は、さまざまな出来事をその証拠として挙げますが、それらの出来事はすべて「現象」です。そのような「現象(出来事)」のむこうに「運命」を見て取る人だけが、「運命」を「ある」と考えるのであって、そのような出来事に「運命」を見ない人にとって、「運命」は「ない」のです。

    生きている100パーセントの「毒親」はいない

    まったく同様のことが、「毒親」や「HSP」についても言えます。自分の親を「毒親」だと思う人は、その証拠として、自分の親がいかにひどいことを自分にしてきたか(しているか)を挙げます。たしかにそのような出来事はあったし、今もあるわけです。しかし、その親をよく知っていて、「毒親」という言葉の意味もよく知っている人が、そのような話を聞いて「たしかにひどいところはある親だけれども、毒親と言うのは言い過ぎだろう」と考える場合は、そのような出来事は、その親が「毒親」であることの証明にはなりえません。親が行ってきた(行っている)ひどいことは、たしかに「現象」として「ある」わけです。そのこと自体はだれも否定できません。しかし、親がそのようなひどいことをしてきた(している)理由が、その親が「毒親」だからだということについては、実はいくら出来事を積み上げても、証明することはできないのです。

    同じことが、自分を「HSP」だと思う人についても言えます。自分を「HSP」だと思う人は、自分が「HSP」であることを示すために、「感じやすさ」のために、自分がどれほど日々つらい思いをしてきたかを語ります。そのつらさを聞いて心理学者やカウンセラーは、「そのつらさは、あなたがHSPであることからきていると思いますよ」と言います。しかし、そのことは、その人が「HSP」であることの証明にはなりません。

    たとえ、その心理学者やカウンセラーが、仮にその人のまわりにいる人たちを集めて、HSPがどういう特性を持った人か、そしてその人(自分のクライアント(相談者))はそのような特性を持ったHSPだということを、いくら時間をかけてだれにもわかるように話しても、まわりの人のすべてが、その人が「HSP」であると納得することはありません。それはまわりの人が頑迷がんめいである(頭が固くて理解力がない)からではありません。「HSP」がこの世界(「現象」)に「いる」ということ、そしてその人が「HSP」であるということは、本来、だれにも証明できないことだからです。

    なぜ証明できないのでしょうか。「毒親」も「HSP」も「仮象」としてしか存在しないもの、つまり観念だからです。そのため、自分の親が「毒親」であること、自分が「HSP」であることを証明するということは、そのような観念が、生きた人間としてそこに「いる」ということを証明することになるからです。それは、いわば自分の親が100パーセントの「毒親」であること、自分が100パーセントの「HSP」であることを証明するということです。しかし、生きている親や自分は、この「現象」の中に「ある(生きている)」ものですから、そんなことは原理的に不可能なことです。「仮象」はあくまで「現象」の向こう側に、「現象」の「原因」として「ある」と思えるものであって、「現象」となることは原理的にありえないからです。

    「毒親」や「HSP」という観念の特殊さ

    なんだかつまらないことに、ひどくこだわっているように思えるかもしれません。「そんなことは、100パーセントのアルミニウムがこの世に存在しないのと同じことじゃないか。アルミニウムは99パーセント以上の純度があれば、それぞれの純度に応じてアルミニウムとして工業などで使うことができる。同じように、毒親もHSPもその傾向がはなはだしい人を、そう呼んでいるわけで、それでいいじゃないか」とお思いになる方もいらしゃるかもしれません。

    たしかに理屈としてはそのとおりです。しかし、アルミニウムという観念と、「毒親」や「HSP」という観念には大きな違いがあります。われわれにとって、「アルミニウム」という観念は、アルミニウムを高濃度で含んでいるアルミニウムと呼ばれる金属の性質であって、その「原因」ではないのです。(「原因」だと考えると、古代ギリシャの哲学者プラトンが唱えた「イデア論」になってしまいます。アルミニウムのイデア(観念)が形となったのが、目の前の金属のアルミニウムだという理屈です。)それに対して、「毒親」という観念は、親が自分にひどいことをする「原因」であり、「HSP」という観念は、自分がちょっとした相手の言葉や表情に傷ついたりする「原因」なのです。わたしがさまざまな観念の中で、あえて「現象」の「原因」として考えられた観念を、特に「仮象」と呼ぶ理由がここにあります。

    「仮象」に支配されると、自らの「自由」を失う

    「現象」の「原因」として考えられた観念(「仮象」)がわれわれにとって重大な意味を持つのは、ひとたびそのような「仮象」が、自分が経験している「現象」の「原因」であり、「現象」を動かしている(支配している)「原因」だと考えてしまうと、そのことによってその人の「自由」が失われてしまうからです。さまざまな「現象」の「原因」として、さまざまな「仮象」を「ある」と考えた瞬間に、今度は人は、その「仮象」を変えない限り、目の前の「現象」を変えられないと思ってしまいます。それは「仮象」が、「現象」の「原因」として「ある」と考えられているからです。

    先ほど述べたように、「神」も「運命」も「差別意識」も「毒親」も「HSP」もすべて「仮象」です。人は、「神」がこの世をつくり、「運命」がこの世界を動かし、「差別意識」が差別を生み、「毒親」がわたしの苦しみを生み、「HSP」であることがわたしのつらさを生んでいると考えます。そして、生きていく中で大きなつらさや苦しさにとらえられると、なんとか「神」に愛され、「運命」を変え、この社会から「差別意識」をなくし、「毒親」を改心させ、自分が「HSP」であることと、なんとかうまくつき合って生きていこうと必死になります。そうして人は「仮象」に支配され、自らの「自由」を失うのです。

    「事実」と「現象」と「仮象」における、「ある」の意味の違い

    「事実」と「現象」と「仮象」の関係を考える上で重要なことは、「ある」という言葉が三つのいずれにおいても使われているのに、「ある」が意味する内容は大きく違うということです。

    「事実」における「ある」は、「事実」の本質そのものです。「事実」は「ある」ものであって、「事実」の中には「ある」と対立する「ない」はありません。「事実」とは、「ある」がままに「ある」ものなのです。

    「現象」における「ある」は、それが目の前に「ある(起きている)」ということです。これに対して、「現象」における「ない」とは、それが目の間に「ない(起きていない)」ことをあらわします。「現象」における「ある」と「ない」は排他的です。つまり、同時に、同じ空間に、別のものがふたつ「ある(起きること)」はありません。われわれは、「ある」と「ない」というこの一対の言葉を、ふつうこの「現象」における意味で使っています。

    「仮象」における「ある」とは、それが「ある現象(出来事)」の「原因」として想定することができるということをあらわしています。この場合、あくまで「原因」として想定することができればよいのですから、「仮象」における「ある」は、排他的ではありません。たとえば、この世界(宇宙)の始まり(始原)を、「神」と考えることも、「ビック・バン」と考えることも、「無」と考えることも可能です。「仮象」においては、この世界(宇宙)の始まり(始原)として、「神」も「ビック・バン」も「無」も同時に、共存できるのです。

    「仮象」は、「現象」となることはありません。「仮象」は、あくまで「現象」の「原因」として、「現象」の向こう側に「ある」ように思えるものにすぎないからです。そのため、「仮象」を「現象」の「ある」と「ない」の対立で理解しようとするならば、「仮象」は「ある」とも「ない」とも言えるもの(または、「ある」とも「ない」とも言えないもの)になります。ただし、「現象」における「ある」とは、目の前に起きていること(姿をあらわしているもの)を言うのだと厳密に考えるならば、「仮象」は(「現象」としては)「ない(姿をあらわさないもの)」と言わなければなりません。

    つまり「仮象」には、「現象」におけるような「ある」もありませんし、「ない」もないのです。(以上を簡単に図にしてみると、以下のようになります。)

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    「事実」と「現象」と「仮象」

    「神」や「運命」や「差別意識」や「毒親」や「HSP」などの「仮象」は、先ほども述べたとおり、「現象」としては「ない(姿をあらわさないもの)」です。その「ない」ものを、「現象」の向こう側に「現象」として「ある」と思ってしまうと、人は「仮象」に支配され、自らの「自由」を失うことになります。

    「自由」は、どこに「ある」のか

    それでは、今述べたような「事実」と「現象」と「仮象」の違いを踏まえた上で、今回のシリーズの本題である「自由」について考えてみましょう。

    「自由」は「ある」のでしょうか。もし「ある」とすれば、「自由」は、今述べた「事実」と「現象」と「仮象」の三つうちの、どこに「ある」のでしょうか。

    次回へ

    結論を先に書いてしまえば、もちろん「自由」は「ある」のです。なぜなら、われわれは生きている限り、現に「自由」だからです。では、「自由」はどこに「ある」のでしょうか。「自由」は、観念なのだから「仮象」の中に「ある」のだとお思いになるかもしれません。しかし、そうではありません。「自由」は、「事実」の中に「ある」のです。変なことを言っているように思われるかもしれませんが、次回は、なぜそう言えるのかを考えていきたいと思っています。それを考えることが、わたしが「自由」を取り戻すことにつながり、わたしの「幸せ」につながるからです。

    「自由」とはなんであるかも考えずに、人は生まれながらにして「自由」だと言うことは無意味です。逆に「自由」などというものは、実際には実現不可能だ(この世に「自由」などない)などと言うことも同様に無意味です。「自由」とは、なんなのでしょうか。次回はそれを考えていきます。

     
     

    vivant

     
     
    人権について考える中で、自分の中のさまざまな「ものの見方」が変わってきた気がします。「正しさ」から抜け出した目で、人が生きるということを見ていきたいと思っています。

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