
【硝子の味方】Fragment #03 ―氷の酒と、微熱の記憶。―
栞(しおり)さんが座るはずだった、ホテルのラウンジの特等席。 目の前には、琥珀色に輝く最高級のシングルモルト。誰もが羨(うらや)む「広報のエース」という新しい称号。欲しかったものは、すべてこの手の中にあった。けれど、指先に触れるクリスタルグラスは、夜の冷気を吸って刺すように冷たい。
ふと、掌(てのひら)が遠い夜の熱を思い出す。 三年前、プロジェクトの大きなミスで泣きじゃくっていた私に、栞さんは自販機の温かいミルクティーを握らせてくれた。 「美鈴ちゃん。広報の仕事はね、自分を綺麗に見せることじゃないの。私たちが守るべき『本物』を、世界に見つけてもらうこと」
そして、あの人は凛とした瞳でこう続けたのだ。 「ねえ、美鈴ちゃん。いつかあなたにも、自分だけの『本物』が見つかるわ。私がそうだったようにね」あの時、アルミ缶越しに伝わってきた微かな熱は、今の私を包囲するこの贅沢な静寂よりも、ずっと確かに私を繋ぎ止めてくれていた。
今の私に注がれるのは、徳田常務からの甘い、けれど底の冷たい賞賛だけだ。 栞さんの言う「本物」がこの場所にあるのか、私にはまだ分からない。ただ、目の前のクリスタルグラスの中で、溶けかかった氷がカチリと音を立てて崩れた。 それはまるで、私が捨てたはずの良心が、暗闇の中で悲鳴を上げた音のようだった。
私は震える指先で、まだ味の分からない高い酒を、喉の奥へと流し込んだ。喉を焼くようなアルコールの熱さの後に残るのは、裏切りの味そのもののような、重く酸化した苦みだけだ。 あの夜のミルクティーよりも、ずっと、ずっと苦く、そして凍てつくように冷たい味がした。
今夜のBGM。
都会の最上階、すべてを手に入れたはずの部屋に流れる、氷のような静寂。 成功という名の「檻」の中で、溶けかかった良心が鳴らす微かな音に、そっと耳を澄ませて。
The Winner Takes It All(勝者がすべてを)/ ABBA
The winner takes it all, the loser's standing small (勝者がすべてを手に入れ、敗者は小さく立ち尽くす)
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この物語が、あなたの夜に一滴の蒼を添えられたでしょうか。もし、心のどこかが微かに震えたなら、その共鳴を『スキ』という形で預けていただけたら嬉しいです。それは、私たちが繋がっている唯一の証になるから。
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