
【硝子の味方】Fragment #02 ―ベルベットの墓標と、開かずの引き出し。―
誰もいなくなった深夜のオフィス。自分のデスクに座ると、静寂が肺の奥まで重く沈殿してくる。 ふと見つめた手のひらには、洗っても落ちない泥の感触が死斑のようにこびりついていた 。
かつてこの手は、震える彼女の肩を抱き、「顔を上げろ、俺も一緒に泥を被る」と励ますためにあった。 締め切り間際、深夜のオフィスで袋を破って半分に分け合った、名前も忘れたような菓子パン。自販機の温かい缶ココアの温度。あの日々は、私にとっても間違いなく、呼吸と同じくらい当たり前の「絆」であり、真実だった。
「……会社のために、矛(ほこ)を収めてくれないか」
あの時、床を見つめて絞り出した自分の声が、今も耳の奥で湿った泥のようにこびりついている。 徳田常務の傍らで、私は彼女を裏切った。一ノ瀬 栞という一人の部下を戦場に独り置き去りにし、自分だけが組織という温室に残る道を選んだのだ。彼女の誇りを、彼女が心血を注いだ五年間を、私は「効率」という名のナイフで切り捨てた。
デスクに置かれたままの、ぬるくなったブラック珈琲に口をつける。 かつては彼女と語らいながら味わったはずの芳醇(ほうじゅん)な香りは、もうどこにもない。残っているのは、古くなった豆の、喉にへばりつくような不快な苦みだけだ。それは、今の私の生き方そのものだった。
彼女が去った最後の日、デスクに残されたクリスタル製の『社長賞の楯』。 ずっしりと重い。それは、彼女が削り、捧げた幾晩もの月日の結晶であり、プライドであり、私との絆の重さそのものだった。 常務からは「不快な遺物は処分しろ」と命じられていた。だが、どうしてもゴミ箱に放り込むことはできなかった。
私は、デスクの引き出しの最下段、四年前から眠り続ける『誰か』の残骸の上に、その透明な輝きを重ねて隠した。 カチリ、と鍵をかける音が、私の良心が死んだ音のように聞こえた。
ここは、私の良心の死体安置所。そして、私自身が囚われた「保身」という名の檻(おり)だ。 私はこの引き出しを開ける勇気を持たないまま、明日もまた、偽りの上司を演じ続ける。
今夜のBGM。
自ら良心に鍵をかけ、その行方を霧の向こうへ隠してしまった男の、重い独白。 ベルベットのカーテンの裏側で、静かに朽ちていく過去の記憶に、身を委ねて。
A Whiter Shade Of Pale(青い影) / Procol Harum
We skipped the light fandango, turned cartwheels 'cross the floor (僕らは軽やかに踊り、床の上を回っていた)
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この物語が、あなたの夜に一滴の蒼を添えられたでしょうか。もし、心のどこかが微かに震えたなら、その共鳴を『スキ』という形で預けていただけたら嬉しいです。それは、私たちが繋がっている唯一の証になるから。
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