
#203【介護雑記】「あきらめる」のは悪いことか?! ~"諦める"の本当の意味について考える~
「あきらめる」というのは、とてもネガティブな言葉だ。
他者から「もうあきらめろっ!!」と言われた時の”負けた感”はハンパない。
他者から言われるまでもなく、自発的に「もう無理。あきらめよう・・・。」と、ひとり決断した時の罪悪感、自分自身に負けた感もハンパない。
「あきらめる」は、”悪”でしかないー。
でも、本当にそうだろうか?
実は、案外、そうじゃなかったりする?!
今日は、そんなお話をしてみたい。
🔳「あきらめる」の本当の意味
「あきらめる」を漢字で表わすと「諦める」と書く。
この『諦』という文字は、仏教において、「真理」や「道理」という意味を持つ。
よって、「諦める」というのは、本来、「真理、道理を明らかにする過程で、自分の願望が達成できそうにない理由が分かり、納得してそれへの思いを断ち切る。」という、いわば「悟り」のひとつなのだ。
また、「諦める」は「明らかに見る」が「変化したもの」という説もあり、こちらも、「物事の真理や道理を明らかに見極め、それを受容する。」という意味をもつ。
「あきらめられない。」というのは、「無駄な執着心」であり、仏の言葉を借りれば「煩悩」、心理学で言えば「自己中心的思考」、「狭窄的思考」という、ネガティブな心理状態を表わす。
🔷🔷🔷
🔳「あきらめなければ、必ず成果は上がる!!」の真実
そんなことない!!あきらめたら、絶対に成功しない!!
絶対に、あきらめるな!!
確かに、「あきらめなかったから、成果を上げた!」そういう事例も沢山ある。しかし、そういった事例も、改めてよく検証してみると・・・、
🔷🔷🔷
🖋️例えば、プランAで始めたものの、思う様に進まなかった場合、プランAを「あきらめて」、プランBに変更する。
ところが、プランBも上手く行かないので、これもまた「あきらめて」、新たにプランCを立案し、取り組んだ所、これが上手く成果を上げた・・・、ということの繰り返しではないか?
🔷🔷🔷
つまり、「あきらめなかったから、成功した」のではなく、むしろ逆で、「あきらめる(明らかに見る)」を、何度も繰り返した結果、「真理や道理に適い、成功した。」と、いうことなのである。
「あきらめない」というのは、正確に言えば、小さな「あきらめる」を積み重ね、受容しながら、物事の真理や道理を追求し、目標を達成するということなんだな。
だから、「あきらめる」というのは、決して、悪いことではない。
ヘタレということでもない。
むしろ、それまでの考え方や、やり方を捨て、こだわりを捨て、新たなアプローチをもって、挑戦し、前進していくに、最も必要なことだったりする。
なので、例えば、行き詰まっている誰かをガチで応援したい時は、
あきらめろっ!!
まずは、それからだ。
それが”正解”なのかも知れないw
🔳この「諦める」のネタ元は、当家、菩提寺のご住職であるという件。
菩提寺のご住職のご本名は「○○諦全」様とおっしゃる。
”全てを諦める”と書いて、「諦全」さま・・・
こ、これは・・・、失礼ですが、ご本名なのですか?!😰
👴「そうですwよく気がつかれましたねぇ~w」
私が、自分の名前の意味を知ったのは、小学生か中学生の頃だったかな。
その頃は、親父(先代のご住職)に、「お前は、何もかも、全てを諦めて、好きな事も、全部、あきらめて、僧侶になって寺を継げよ。💢」と、そういう意味だって思ってね・・・。
そらぁ~もうさ、絶望よw
でも親父に反抗して、ヤケクソになって、グレるという事も、まぁ出来ないし、なんかね、今で言う、「親ガチャ?!」
寺の跡継ぎに生まれたのを、随分、恨んだりもしたよw
そんなご住職も大学生になり、大学へ進学させてもらった手前、”お 山”に、僧侶になるべく修行(学僧研修)にも入った。
「大学を卒業したら、寺を継ぐのだろう・・・。」と、それこそ、自分の名の通り、「全てあきらめモード」で、漠然と思っていた。
ところが、なんと、意外にも、先代のご住職が、「お前、大学卒業したら、ちゃんと就職しろよ?!😊」と言うではないかw
ご住職は、喜び勇んで、ふつーに就活をして、社会人になった。
「俺は、寺を継ぐしかないのだ・・・😭」と、ずっとそう思って来たから、そうではなくて、他の友人達と同じ様に就活をし、同じ様に社会人になれた事が嬉しくて仕方なかったらしい。
ご住職は、それこそ、一生懸命働いた。
こんな田舎の小さな寺の、つまらない「僧侶」になるより、ふつーの人生の方が、「なんぼかバラ色だぁ~!!😆✨」とw
しかし、人生経験を積んで、40代に入ってきた頃、ご住職は、俄然、自分の名に秘められた本当の意味を、深く考えるようになった。
”全てを諦める”と書いて、「諦全」・・・。
親父は、「何もかも、全てを諦めて、好きな事も、全部、あきらめて、なんでかんで僧侶になって寺を継げ!!」と、そういうことではなくて、
「物事の真理や道理を、よく見極めなさい。そして、如何なる事も受容できる、”あきらめのつく”、懐の深い人間になりなさい。」とね・・・、
そういう事だったのではないかなと。
まさしく、「不惑の四十代」、毎日、仕事をしている中で、自分の名に秘められた本当の意味を、身をもって、感じるようになったご住職は、50代になってから早期退職をし、自ら「仏の道」に入道する決意をされ、現在に至るという。
👴「人間、”あきらめる”と言うのは、誠に、胆力のいることよ・・・。」
👴「しかし、そういう胆力のある、懐の深い人間でなければ、まず、一廉の僧侶にはなれない。人生に迷う人達を受入れて、導いては行けないでしょう?!」
なんて、ちょっと”坊主”らしい事を言ってみたwハハハハ~😅w
薄くなった頭をサラリと撫でながら、朗らかに笑うご住職が、私は好きだ。
普段は、めちゃくちゃめちゃくちゃ厳しい、この地域では、有名な古刹を守る「四天王」と言われる、立派な”レジェンド”であらっしゃるのに・・・。
所用でお寺を訪ねると、いつもジャージに、長袖シャツ、長靴、麦わら帽子という出立で、寺内の広い庭の掃除に余念がないw(毎度、探すのが大変💧)
庭木の剪定をご自分でされるので、プロ仕様の伐採工具を沢山もっていらっしゃって、「見て!!見て!!これさ!makitaの新しいヤツ✨、ついに、買っちまったぁ~😆✨」なんて・・・。(オイオイ😓)
「いや、ご住職、この前、こっちのコードレスの枝切り、買ったばっかじゃないッスかぁ・・・。器具庫が、”煩悩”で満ち満ちてますよ?! 」
「全く、”諦全” じゃぁー、ありませんな。😤」
「てへ🩷あきらめ悪いんだわ。俺もw だって、人間だものぉ~😆😆😆✨」
”あんた、”亀仙人”か・・・💧”
そう思うこともしばしばあるのだがw
このご住職とそのお名前に出逢い、「諦めること」の本当の意味を教えて頂いたことで、私は母の死も、その後続いた長弟の突然の死も、比較的冷静に穏やかに、何とか乗り越えることが出来たのだと思う。
一番、辛かった時、しんどかった時、「Ilsaさん、お元気ぃ~?何かあったら、いつでも遊びにいらっしゃい🩷」と、それとなく、でも、何度も声を掛けてくれたのは、ご住職だけだったから・・・。
本当に、ふらりと来て、ただただ黙って泣いているだけの私を、ご住職もまた、黙って、でも優しく見守ってくれていた事もあった。
「剪定するの?だったら、コレ、もっていきな!✨」と、お気に入りの高い工具と剪定梯子を、気軽に貸してくれることも、よくあるw
「”菩提寺だから”、致し方なく・・・。」
そんな鬱々とした気持ちで始まったおつき合いだったけど、今は、厳しくも優しく、案外、お茶目なご住職の深いお人柄を敬愛している。(植木剪定職人としては尊敬しているw)
そして、「諦めること」
それが今、爺の認知症介護にも、大いに役に立っているのである。
何より、菩提寺の副ご住職である”ジュニア”さんが、体格のいい、めっちゃイケメン✨の立派なお坊様である上、なんと、普段は、「介護士」さんっていうねぇw(それは関係ないことだけど、重要よ?!w)
”知識”と”教え”は武器ー。
介護とは戦略なのだ。